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■2469   孝明天皇毒殺説の将来 
□投稿者/ 作左衛門 新参(18回)-(2013/09/04(Wed) 09:42:21) [ID:5MfjTUCy]

最近、あまり流行らない孝明天皇毒殺説。正直なことを言うと、私自身も毒殺説が成り立つとは思っておりません。
今後、岩倉具視などによる毒殺を説こうとする場合には、一工夫も二工夫もしなければ、稚拙な陰謀論で済まされてしまうでしょう。

古典的な議論としては、倒幕をなすためには、孝明天皇が障害であり、毒殺によって強制的に排除したという筋書きになっています。

ですが、岩倉具視にせよ、薩長にせよ、倒幕とは方法であって目的ではありません。各々がどこまで自覚したかは別として、内憂外患という状況に対応するには、将軍よりも天皇が政治的結集の核に相応しいとする問題意識が根底にあったはずです。
そのためには、天皇に一定の判断力・指導力が備わっているべきで、孝明天皇が急死し、明治天皇がある程度成長するまで調停者としての役割をほとんど果たせなかったことは、初期の維新政府に混乱・分裂を繰り返させる一因となっています。
短期的には、それなりに孝明天皇を尊重してきた徳川慶喜が、天皇死後に萎縮するどころか、勅許の恣意的運用をはかるなど、かえって強気の政治運営に出る結果を招いております。孝明天皇の急死で倒幕派が力を得たというよりは、慶喜の政治手法に対する諸勢力の危惧が、倒幕という方法論に踏み切らせたのが実情でしょう。

また、賢明だが頑迷な孝明天皇を排除し、成人前で未だ自己主張をなしえない明治天皇を擁立するという論理も、天皇との信頼関係があって、はじめて権力中枢に地位を確保できる岩倉などの中堅以下の公家たちが持ちえる代物なのかという疑問が生じます。
幼少の天皇が登場した場合、朝廷の主導権を握りやすいのは、むしろ摂関家であって、実際に徳川慶喜と結ぶ二条斉敬がさらに力を強めようとしていました。

いっそのこと、政治的なフリーハンドが欲しい慶喜や、現実に内裏を掌握しており、天皇抜きでも権力を掌握できる二条・中川宮などを陰謀の主体とした方が、まだ説明しやすいかもしれません。

それでもなお、岩倉なり薩長を犯人に仕立てるには、どういう論理展開をひねり出すべきでしょうか。


■2470  Re: 孝明天皇毒殺説の将来 
□投稿者/ 大黒屋介左衛門@管理人なのか? 新参(10回)-(2013/09/06(Fri) 23:45:12) [ID:kHDSda5m]

どうしましょうね?

私もこの説には疑問があるのでどうにも言いようがないんですけど、強いて無茶な論理を飛躍させるなら禁門の変の蟠りが長州内部でどうしても払拭できずかつ薩摩に対してはもはや手出しできる状況にない以上会津だけでもという風潮にあったというのも陳腐に過ぎますね。

そのために仰ぐ旗まで模様替えと言うんじゃ本末転倒に過ぎますし。

 

■2471  Re: 孝明天皇毒殺説の将来 
□投稿者/ 作左衛門 新参(19回)-(2013/09/07(Sat) 09:06:21) [ID:v6qwLMZL]

八月十八日政変で、孝明天皇は以前の勅諚を「偽」と否定しましたが、これは自ら勅諚の価値を暴落させる行為でもありましたね。
長州やその息のかかった公家によって、勅諚が捻じ曲げられたというならば、今後も、新たな与党勢力(一橋・会津・薩摩など)の思惑次第で勅諚が左右されうるということになります。実際、与党から弾き出された薩摩あたりは、「非義の勅命は、勅命に非ず」などと言い出す始末で・・・。

孝明天皇の求心性が、自滅同然に低落していく状況にあって、その急死はある種のリセットという意味合いを持った、とは言えるかもしれません。
もっとも、この論理では、黒幕を岩倉なり薩長に限定することはできませんね。

 

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棒

■2460   松平頼重と高松藩 
□投稿者/ 作左衛門 新参(15回)-(2013/07/18(Thu) 09:24:44) [ID:JtjecnVr]

高松城のページがリニューアルされたましたが、じつは私も高松城を去年見学していまして、海上とのリンクを強く意識した構造に驚いた記憶があります。

ここに親藩を置いたのは、秀忠〜家光の治世にかけ、播磨姫路・同明石・備中福山・伊予松山・豊前小倉など、環瀬戸内地域に譜代藩が創出されていく流れと合致しており、おそらく瀬戸内海を「徳川の海」に再編していく布石なのでしょう。


それにしても、高松藩は徳川御三家から分出した諸家の中で、わりと突出した石高を与えられております。
これは、本来ならば水戸徳川家の二代目になっていてもよかった松平頼重が、よく分からない事情で、同母弟の光圀に家督が回ったことに対する配慮なのか。
あるいは、御三家初代では、頼房が家光と最も気安い関係にあったことによる殊遇なのか。

高松松平家の成立における、妙(?)な待遇の良さは、どのように説明すべきなのでしょう。


■2461  Re: 松平頼重と高松藩 
□投稿者/ 裏辺金好@管理人 新参(5回)-(2013/07/20(Sat) 17:10:22) [ID:xNnnqHF0]
http://www.uraken.net/

おそらく実際の戦闘は殆ど想定していなかったのでしょうが、
どうも高松城のように平城で海城という構造は、水軍にあっという間にやられてしまうような感じがするのですが、どうなんでしょう。

>瀬戸内海を「徳川の海」に再編していく布石
そうでもあり、若干違うような気がします。瀬戸内海を徳川の海にするのであれば、実質的な譜代扱いの岡山の池田家はともかく、浅野家が治める広島、そして毛利家の長州も譜代大名で抑えるか、せめて伊予松山藩は15万石ではなく、もっと強大な力を与えておくべきだったのでは?と思います。

基本的には姫路、明石、高松は基本的に大坂を守るための配置というのが大きいのでは?と私は見ています。

高松の12万石は讃岐の中心としては必要最低限の石高と思いますが、突出しているかといわれれば、どうでしょうか。御三家の分家の中では多少多い石高ですが、親藩の中では必ずしも多い存在とは言えず、そもそも水戸藩が尾張藩、紀州藩に比べてかなり小さい石高です。

水戸+高松で紀州藩レベルという感じでしょうか。そう考えると、バランスを取ったと見ることもできます。

ただあの当時、尾張も紀州もどちらかといえば将軍家にとって気の許せない状態でしたので、水戸藩の関係者の方が充分に信用に足る存在であったのだと思います。

 

■2462  Re: 松平頼重と高松藩 
□投稿者/ 作左衛門 新参(16回)-(2013/07/21(Sun) 09:45:11) [ID:JtjecnVr]

香川県の歴史ミュージアムに、高松藩随一の大型船「飛龍丸」の絵図や、一部復元が展示されているのですが、松平頼重はどうも水軍育成に意を注いでいたようです。
頼重の事績を調べると、やたらと船団を組織して、藩の内外を航行することが多く、はるばる九州まで出向いた事例すらあります。ある種の軍事演習なのでしょうが、ひょっとすると、乗船経験は徳川一族でも最多かもしれません。

おそらく、松平頼重は高松藩を水軍大名に仕立てつつ、平時は畿内を守護する盾、有事には西国に対する矛という、二つの役割を課されていたのではないでしょうか。
これならば、高松城の構造も、籠城よりも水軍の運用能力を重視した故として説明できそうです。より正確には、豊臣政権下の生駒氏によって打出されたコンセプトを、松平頼重がトレースしたということなのでしょうが。

 

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棒

■2456   南蛮貿易はショボかった? 
□投稿者/ 作左衛門 新参(12回)-(2013/07/10(Wed) 10:57:32) [ID:1L2ZlvLA]

織豊政権期から徳川初期は、ポルトガル人との南蛮貿易が盛んにおこなわれた、と語られがちです。

ところが、イエズス会巡察師のヴァリニャーノは、1599年の報告書にて、意外なことを書いております。

要約すると、以下の3点になります。

@マカオから長崎に入港する交易船は年間1隻程度。それ以上はシルクの価格が下がって儲けにならない。
Aよって、マニラから来日するスペイン船(年間7、8隻)は邪魔。断固排除すべし。
Bにも関わらず、徳川家康から関東・マニラ間の通商交渉を仲介するように依頼された。正直、迷惑している。

ヴァリニャーノの虚偽報告でなければ、ポルトガル船の来航数は1隻のみで、スペイン船に完全に圧倒されています。また、交易規模の抑制すら志向しております。
当時、スペイン人はメキシコから銀を持込み、マニラに多数の中国商人を吸引していましたが、マカオのポルトガル人は相対的に資本が貧弱だったことによるのでしょう。

ところで、イエズス会の日本布教がそれなりに順調だったことについて、しばしば日本側の貿易希求から説明されるものの、果たして年間1隻程度の来航が、どれほどの経済利潤を生みだしえたのか、聊か以上に疑問が生じます。

戦国時代の経済規模ならば、年間1隻分の積荷でも大きな影響を与えることになった?
マカオ政庁が公式に送る船は年間1隻でも、私的に船を仕立てて来航するポルトガル人がいて、イエズス会が口利きでもしていた?
より多く来航していただろう中国船には、キリスト教に帰依していた船主もいて、イエズス会が影響力を行使できた?

江戸時代のオランダ貿易に比して、イメージ先行で実態がいまひとつ不明なポルトガル貿易ですが、イエズス会の本音と建前も含め、いかように評価すべきなのでしょうか。


■2457  Re: 南蛮貿易はショボかった? 
□投稿者/ 大黒屋介左衛門@管理人なのか? 新参(8回)-(2013/07/10(Wed) 21:40:29) [ID:1KYOMVwD]

ポルトガル船といっても1543年の初来日からして中国船に同乗してのことだったはずですしマカオ所属の船がその程度だったのはそのままに踏まえてもよろしいのではないかと思います。

その上でポルトガル人が来日を目的に船を仕立てるというより、中国船の日本への渡航にポルトガル人が便乗していたとと考えればスペインより規模に劣るポルトガルでもある程度の影響を与ええたのではないかと。
倭寇の実態はよくわかりませんがどこかの根拠地からマカオ経由で日本に向かうなら海禁策体制下でも屁の突っ張り程度の言い訳になったりしませんかね?

日葡間交易の縮小志向にしても単純に旨みの少なさがあるのかもしれません。
日本が海外に求めたのは硝石、鉄砲など多種多様にのぼりますが、逆に日本から海外に輸出されるものといえば貴金属に人間(奴隷)程度で新大陸さんの銀が大量流入してインフレ傾向だった当時のことを考えるとかつて世界を席巻した石見銀といえど見劣りしたとは考えられないでしょうか?

 

■2458  Re: 南蛮貿易はショボかった? 
□投稿者/ 作左衛門 新参(13回)-(2013/07/10(Wed) 23:36:19) [ID:JtjecnVr]

>中国船の日本への渡航にポルトガル人が便乗していた

この線で理解するならば、ポルトガル人の来航停止がスペイン人より後回しになったことも、中国船との区別がやや困難であった故と説明できそうですね。

また、明帝国の解禁緩和、スペイン人のルソン進出に伴うメキシコ銀の登場が、ともに1570年代以降であり、双方がどう複合して、日葡貿易に影響を及ぼしたのか、これまた興味深いところです。

 

■2459  Re: 南蛮貿易はショボかった? 
□投稿者/ 作左衛門 新参(14回)-(2013/07/12(Fri) 08:50:12) [ID:1L2ZlvLA]

17世紀前期に地下活動をおこなった宣教師ヴェント=フェルナンデスの書簡には、「マカオから長崎にポルトガルの船団が定期的に入港する」ことに触れたものがあります。
ヴァリニャーノ報告書の「年間一隻」とどう整合させるのか、少し悩んでいたのですが、ポルトガル人や宣教師が同乗した中国船も「船団」に含んでいたと考えると、解決するかもしれません。

海禁が緩和されたとはいえ、撤廃はされてない状況にあって、中国船が日本に半合法的に渡航するために、まずマカオに赴いて、ポルトガル船と「船団」を組んだうえで、長崎に向かったという構図を想定できそうです。

 

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棒

■2451   高野新笠の出身は渡来氏族か 
□投稿者/ 作左衛門 新参(10回)-(2013/07/05(Fri) 10:23:34) [ID:1L2ZlvLA]

桓武天皇の母親高野新笠は、百済系渡来氏族の出身とされ、天皇家と韓半島の関係を論じる際によく持出されます。

その高野新笠の実家である和氏に関する由緒をよく読むと、百済の武寧王の子孫ということになっています。
通説(日本側の史書)では、武寧王は日本に人質として送られた王族が日本でもうけた子息であり、後に百済王に推戴された人物とされます。そして、武寧王が日本に残した子供の末裔が和氏という設定になっています。

これを信じるならば、和氏は百済滅亡後に渡来した氏族ではなく、武寧王以降の百済王家の分流ということになります。

とはいえ、怪しいといえば、かなり怪しい由緒であり、桓武天皇の母親に箔を付けるための作為とも考えられます。
和氏が実際に渡来氏族(それも武寧王に繋がる名門)かどうかはよく分からず、平安時代初期には別に渡来系であることを忌むような認識は存在しなかった証左、という程度に理解しておくべきなのでしょうか。


■2452  Re: 高野新笠の出身は渡来氏族か 
□投稿者/ 大黒屋介左衛門@管理人なのか? 新参(7回)-(2013/07/06(Sat) 07:30:05) [ID:1KYOMVwD]

この話題自体は近年今上陛下のお話の中で触れられた話題で、それに隣国が過剰反応してといった形で取り上げられてますね。
お話自体に含むところもおかしなところもなく、そのことに斜め上をいく解釈でもって反応してくれる隣国は置いておくとして、桓武帝のの時代は皇統に大きな変化が見られた時期で朝廷内での権力闘争も過激さを増して不穏な時代でもありました。母方の身分という不利を負っていながらも即位し数々の改革を断行した帝ですね。

桓武帝の場合は生まれよりも藤原百川という強力な外戚が重要ではないかと思います。

 

■2453  Re: 高野新笠の出身は渡来氏族か 
□投稿者/ 作左衛門 新参(11回)-(2013/07/06(Sat) 08:23:57) [ID:JtjecnVr]

当初は後継者に定められていた早良親王が、同母弟であったことを見ても、母親の身分が極端に問題視されていたわけではなさそうですね。
 

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棒

■2447   金解禁について 
□投稿者/ ゴローウニン 新参(9回)-(2013/06/28(Fri) 21:21:47) [ID:Zmq5IY53]

昭和の経済を勉強していて気になった
ことなんですが、浜口雄幸内閣が断行
した金解禁は、もし石橋湛山らの言う
ように新平価でやっていれば、深刻な
不況を招くこともなかったのでしょう
か?
また、浜口や井上準之助はなぜ世界恐慌
の真っ只中に金解禁を実施したのでしょ
うか?


■2448  Re: 金解禁について 
□投稿者/ 作左衛門 新参(8回)-(2013/06/29(Sat) 13:01:32) [ID:JtjecnVr]

新平価で解禁した国のうち、フランスはフランを五分の一、イタリアはリラを四分の一と、大幅な平価切り下げをおこなっています。その前提として、金輸出禁止下のインフレで為替相場が極端に低下しており、そもそも旧平価解禁は不可能であったという事情があります。
日本の新平価論者のように、一割程度の切り下げを行った国はほとんどなく、日本がそれをやったとして、そうそう都合の良い展開にはならなかったでしょう。

何故に実施したかといえば、国際経済の流れは金本位制復帰に向かっている、と捉えていたからで、幣原外交による国際協調路線とも連動しておりました。実際に対中国関係の好転から、貿易収支はそれなりに改善していたことも影響しているようです。
また金本位離脱下の変動相場制は為替が不安定であり、浜口本人の言では「産業貿易の堅実なる発展を阻害」している状態でした。

基本的に世界恐慌を過小評価しており、かつアメリカ経済が昭和5年段階ですら一時的に小康状態となるなど、楽観的になる条件が揃っていたことも付け加えるべきかもしれません。

 

■2449  Re: 金解禁について 
□投稿者/ ゴローウニン 新参(10回)-(2013/06/30(Sun) 10:31:28) [ID:Zmq5IY53]

なるほど、やはり大幅な円の切り下げ
を行わなければ結局は不況を招いてし
まうことになったんですね。
浜口内閣が世界恐慌を甘く見ていたこ
とは致命的でしたよね。

ありがとうございました。

 

■2450  Re: 金解禁について 
□投稿者/ 作左衛門 新参(9回)-(2013/07/01(Mon) 08:52:37) [ID:1L2ZlvLA]

旧平価に対して20〜25%まで引き下げるというのは、極端なインフレをもたらし、これはこれで経済を混乱させること必定でしょう。さらに金解金からも撤退するような展開になれば、史実以上に深い爪跡を残す事態に陥りかねません。
経済政策に完全な正解などは存在しないとも換言できます。

これに加え、浜口が凶弾に倒れ、相対的に力量不足の若槻内閣が成立した影響も考慮すべきかもしれません。

 

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■2442   大鳥圭介は戦下手なのか? 
□投稿者/ 作左衛門 新参(6回)-(2013/06/23(Sun) 10:21:08) [ID:JtjecnVr]

「八重の桜」に出してもらえない人。もっとも、まだ出番はあるかもしれませんが。

戊辰戦争が西郷・勝会談で幕とならず、北関東から奥羽・蝦夷地へと戦火が拡大していった一因として、大鳥圭介などが洋式部隊を率いて江戸から脱走し、抗戦を継続したことをあげられます。
その是非は措いておくとして、大鳥圭介は動乱を生き残ったこともあり、壮絶に散った土方歳三・古屋佐久左衛門あたりと比し、芳しくない評価・描写が回ってくる場合も少なくありません。

それは軍事手腕にも及び、しばしば「戦下手」のレッテルを貼られてしまいます。
ですが、江戸を脱走してから、満足な補給を受けることもなく、箱館まで戦い抜いた力量は、そう悪くはないようにも感じられます。
はたして、将帥としての大鳥はどのように評価すべきなのでしょうか。


■2443  Re: 大鳥圭介は戦下手なのか? 
□投稿者/ 大黒屋介左衛門@管理人なのか? 新参(6回)-(2013/06/24(Mon) 23:01:12) [ID:1KYOMVwD]

肝の据わった人物というエピソードがいくつか残っているようで劣勢にあってもどっしりと構えてて動揺を悟らせなかったという描写が散見されますので、参謀役がしっかりしていれば将帥として名を残したやもしれませんね。

維新後は軍人というより軍官僚、もっと言ってしまえば技術者としての業績が挙げられます。早くから英語をたしなみそれを武器に海外技術の紹介に尽力していたようなので軍人よりこちらが本質ではないかと。

 

■2444  Re: 大鳥圭介は戦下手なのか? 
□投稿者/ 作左衛門 新参(7回)-(2013/06/25(Tue) 08:30:54) [ID:JtjecnVr]

概して、旧幕陣営抗戦派の軍人は、明治期は別分野に転出していますね。
榎本武揚は海軍中将になっていますが、これは対ロシア交渉にあたって、地位の底上げをはかった措置ですし。

 

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■2439   テマ制とプロノイア制 
□投稿者/ ゴローウニン 新参(7回)-(2013/06/18(Tue) 20:30:33) [ID:XLPGbDhq]

ビザンツ帝国における土地制度で、
テマ制とプロノイア制がありますが、
なぜテマ制からプロノイア制へ変更
されるようになったんですか?


■2440  Re: テマ制とプロノイア制 
□投稿者/ 裏辺金好@管理人 新参(4回)-(2013/06/18(Tue) 22:07:29) [ID:mZKENaB6]
http://www.uraken.net/

ビサンツ帝国は時代によって、ローマ時代の中央集権体制から、貴族の連合体のような形に変わっていきますが、
これは中央政府の権力が低下し、軍事貴族の連合国家のような形に変質したことによるものです。
つまり、中央政府が行政官を地方に派遣し、統治を行えるほどの軍事力・財政力がなくなったわけですね。

ですからプロノイア制によって、日本で言う御恩と奉公じゃないですが、皇帝は貴族の権利を認め、貴族は皇帝に奉仕する
という関係性を構築することで、国家を安定させたわけです。

それにしても、テマ制(軍管区制)なんて、なんて懐かしい言葉・・・。
ヨーロッパ史も復習せねば。

 

■2441  Re: テマ制とプロノイア制 
□投稿者/ ゴローウニン 新参(8回)-(2013/06/19(Wed) 21:00:46) [ID:XLPGbDhq]

この辺りからビザンツ帝国の衰退が始ま
ったんですよね。

ありがとうございました!

 

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■2434   足利尊氏の将軍任官と北畠顕家・新田義貞 
□投稿者/ 作左衛門 新参(4回)-(2013/06/16(Sun) 11:10:59) [ID:JtjecnVr]

鎌倉幕府の成立を源頼朝の将軍任官に求めるかどうか、というのはよくある議論ですが、室町幕府の成立を足利尊氏の将軍任官に設定する、という話はあまり聞きません。

尊氏が征夷大将軍となるのは、延元3年(1338)にまず北畠顕家、次いで新田義貞が戦死し、南朝に対する軍事的優位が確立して間もない時期のことです。
ところが、尊氏は新田義貞討滅の功績は弟の直義に譲り、自らは北畠顕家討滅の功績という名目で将軍に任じられています。

尊氏は建武政権から離脱するにあたり、新田義貞の打倒を掲げたはずで、いつの間にか北畠顕家を主敵に切り替えていたとも解せます。

新田義貞は南朝成立前に後醍醐天皇から切り捨てられており、その後も越前金ヶ崎合戦に敗れて、政治的地位や軍事力を低下させていた故か。
あるいは、主敵は依然として新田義貞であったが、事実上の副将軍である直義に箔を付けるために、敢えて義貞討滅の功を直義に譲ったのか。
それとも、征夷大将軍の本義を考えると、早い段階で関東から離れた新田義貞よりも、奥羽をおさえていた北畠顕家の撃滅こそ、任官の名目に相応しかったのか。

色々な解釈ができるでしょうが、最大公約数を出すには、いかなる解とすべきでしょう?


■2435  Re: 足利尊氏の将軍任官と北畠顕家・新田義貞 
□投稿者/ 裏辺金好@管理人 新参(3回)-(2013/06/16(Sun) 13:12:43) [ID:wfS05GGn]
http://www.uraken.net/

鎌倉幕府がいつ出来たか論争との最大の違いは、尊氏政権は1336年に建武式目を発表し、施政方針を明確に打ち出したことがあると思います。このため、征夷大将軍に任命された=幕府の成立とは、あまり言われないのだと思います。

最近こそ鎌倉幕府の成立も守護・地頭の設置という政治体制の変化を幕府の成立とみなすようになりましたが、征夷大将軍はあくまで官職の1つであって、幕府を開きなさいという、錦の御旗ではないですし・・・。

北畠顕家討滅の功績という名目で将軍に任じられたのは官位の本質上の話で、北畠顕家が奥州を押さえていたためと思います。あとは、新田義貞と北畠顕家、どちらが足利尊氏にとって倒すべき敵として重要だったか、ということもあるのでしょうかね。

それにしても、北畠顕家は21歳で戦死していますが、見事な猛将っぷりを発揮していますね。凄いものです。だいたい、北畠氏は公卿の家柄ですし・・・。

 

■2436  Re: 足利尊氏の将軍任官と北畠顕家・新田義貞 
□投稿者/ 大黒屋介左衛門@管理人なのか? 新参(5回)-(2013/06/16(Sun) 20:42:50) [ID:1KYOMVwD]

>北畠顕家討滅の功績
これをもって征夷大将軍として任命されたというなら相当皮肉に富んだなんとも婆娑羅な時代を象徴した出来事だと思いますよ。ただ奥州を抑えていたというだけでなく、かりにも高位の貴族たる北畠をまつろわぬ『夷』としてなぞらえたというなら。
帝の位を僭称し国を乱す南朝方を貶めるとすればこれ以上ない話ではあるでしょうけど。

>だいたい、北畠氏は公卿の家柄ですし・・・。
この時代珍しくもなんともないというのが・・・。
南北朝は史料が揃わないという欠点こそありますけど、戦国や源平合戦よりはるかにカオスでグダグダで面白い時代ですよね。革命マニアにオカルト宗教に脳筋にやることなすことド派手なバサラ共の蠢く日本史で最もファンタジーな時代ではなかろうかと。

 

■2437  Re: 足利尊氏の将軍任官と北畠顕家・新田義貞 
□投稿者/ 作左衛門 新参(5回)-(2013/06/16(Sun) 22:11:50) [ID:JtjecnVr]

北畠家は、まさに太く短く生きた顕家、ほとんど妖怪じみた親房と、この父子だけでも南北朝時代のファンタジーかつカオスな世相を体現していますね。

また、顕家討死の同年には、親房が関東に再度下向し、常陸国で南朝方の軍事勢力を再編しております。結城氏との交渉で見せた頑迷さを揶揄されることもありますが、ともかくも数年は戦線を維持しており、一時の南北朝動乱は、常陸国を主戦場としていました。
足利将軍家にとっては、父子揃って「東夷」とすべき存在でしょう。

 

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■2430   明帝国の「陸禁」? 
□投稿者/ 作左衛門 新参(2回)-(2013/06/13(Thu) 09:37:18) [ID:JtjecnVr]

大明帝国を考えるキーワードとして、「海禁」という概念があります。
大雑把に理解するならば、海外諸国との交流を朝貢体制の枠内に抑えるという路線であって、豊臣秀吉の大陸侵攻も、これを打破して、強制的に門戸開放を実現しようという構想でしょう。

しかしながら、こうした対外政策は、何も海に限定したモノではありません。明は北方のモンゴルやジュシェン(女真)などにも同様の態度でのぞんでおります。これが北方民族との紛争、やがてヌルハチの決起を経て、明から清への「華夷変態」を招いたとも言えます。

この北向きの政策は、何と呼称すべきなのでしょうか?
そのまま「陸禁」と称すべきか。
南方と包括して「」付の「海禁」とすべきか。
いっそ「鎖国」とでも呼ぶべきでしょうか。


■2431  Re: 明帝国の「陸禁」? 
□投稿者/ 大黒屋介左衛門@管理人なのか? 新参(4回)-(2013/06/13(Thu) 20:17:02) [ID:1KYOMVwD]

明代の対外政策の苦労は「北虜南倭」の言葉が残ってます。

渡航に関しては某切れ一本見逃さないとの意気込みで遮断を第一としたことから海禁で呼ばれたわけですが、それに対し、北方政策は軍事上さらに特に拠点を設けずに移動を続ける遊牧民に対し望む望まないにかかわらず常に攻勢をかけることを第一としてますから色合いの違いからいって、同じ対外政策とはいえいと括りにすることもないのではないかと。


あと遅れましたが、お久しぶりです。

 

■2432  Re: 明帝国の「陸禁」? 
□投稿者/ 裏辺金好@管理人 新参(2回)-(2013/06/13(Thu) 21:41:34) [ID:mZKENaB6]
http://www.uraken.net/

どうもお久しぶりです。これから以前のペースでガンガン盛り上がっていきましょう!

明の対外政策については、北向きと南向きで同じであるか、別であるか難しいところですね。

もちろん日本を含めて海側は、ある程度の国家があるのに対し、北は北元やオイラートと緊張関係にあるわけで、明は南方と異なり(一時はベトナム支配もありましたけど)、
北方に対しては遠征も行っていますし、逆に攻め込まれてもいますので、こうした点では政策は異なるものといえるでしょう。

その一方で、平時にはオイラートとも朝貢体制の枠内で交易を行っており、その意味では南方との外交政策と同じであるとも言えます。

結果的には朝貢貿易で、何だかんだ言いながらも周辺諸国や民族と経済的な結びつきを深め、意外と平和な時代が長かったからこそ、女真族の体制変化と勃興に対する対応に甘さが出たことも否定できないと思います。

北方に対して強攻策や領土拡大等の政策とをっていれば、間違いなく女真族の不穏な動きも叩き潰していたはずですし。まあ、当時は国力としてそんな余裕もなかったのかもしれませんが・・・。

 

■2433  Re: 明帝国の「陸禁」? 
□投稿者/ 作左衛門 新参(3回)-(2013/06/14(Fri) 09:11:48) [ID:1L2ZlvLA]

お二方とも、ご健勝でなによりです。

最近読んだ岡田英弘氏の『中国文明の歴史』によると、明の軍戸(軍事負担層)はその大半がモンゴルなどの北方民族をルーツとしていたようです。
たしかに、明関連の文献をチェックすると、明は元を打倒して成立した帝国ながら、同時にフビライ=ハンの偉業を継承するという姿勢をとっておりますが、軍事基盤が北方民族の子孫であったとすると、相応に納得のいく路線です。

また、16世紀後半に入り、明はアルタン=ハンと講和し、長城の南北は一大交易時代を迎えるのですが、それでも明はアルタンの一族を「蒙古国王」に封ずるのではなく、「順義王」の称号を与えるにとどまっています。
アルタンが北元の正統ではない、という事情も絡んでいるのかもしれませんが(嫡流のトゥメン=ハンは遼東方面で活動、その与党勢力が女真)、南方とは違い、北方に対して、国家としては認めず、基本的に統合して、皇帝本人が君臨すべき対象と認識しているとも解せます。

 

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■2424   鎌倉時代の御家人について 
□投稿者/ ゴローウニン 新参(4回)-(2013/06/11(Tue) 07:54:47) [ID:XLPGbDhq]

さっそく質問させてください。

鎌倉時代後期の御家人が窮乏した
理由ですが、

元寇の戦費
分割相続による所領の細分化
貨幣経済の浸透

の三つが主なものだと思うのですが、三つめ
の「貨幣経済の浸透」は、なぜ御家人の窮乏を
招いたのでしょうか?


■2425  Re: 鎌倉時代の御家人について 
□投稿者/ 大黒屋介左衛門@管理人なのか? 新参(2回)-(2013/06/11(Tue) 19:23:24) [ID:eCBWQDqw]

 まず日本国内においては皇統十二銭以来国産の貨幣が途絶えて久しい状態でこの時代多くは宋銭を輸入することによって需要をまかなっていました。言ってしまえばその程度の経済規模だったわけですが、鎌倉も後期になると土蔵、問丸、馬借といった商売が主に寺社の庇護の下勃興しはじめてました。
 瀬戸内航路を利用できる西日本は京都を中心に多くの寺社がある意味公家や武家よりも強固に所領を支配しており座のような同業者組合の後ろ盾となって商業の新工作を図っていた関係で長らくその中心となっていきます。

 こういった商人に対しわずかな所領から上がる生産物を現物で徴収するスタイルの御家人は無力であり、何よりそもそも生活のために彼らからの借入でなんとか生活を工面する御家人がほとんどだったわけで、自給自足でその土地に根ざすことを前提とした支配体制では貨幣経済の浸透はその体制を崩壊させる要因として十分なわけです。
 その上窮乏する御家人の救済策として発令された徳政令は焼け石に水どころかさらに御家人を追い詰める結果となりました。一方的に借金を棒引きされれば貸し渋りや貸しはがしが多発するのは自明の理です。

穴だらけですが、ま、こんなとこかと。

 

■2426  Re: 鎌倉時代の御家人について 
□投稿者/ ゴローウニン 新参(5回)-(2013/06/12(Wed) 00:13:56) [ID:XLPGbDhq]

なるほど、鎌倉時代の御家人の間では
まだ貨幣を使う習慣が一般的でなかっ
たんですね。納得です(^-^)

あと、地頭についてなんですが、
地頭=荘官
という理解で良いでしょうか?
荘官のなかにも預所や下司などいますが、
その中での地頭の位置づけがよく分かり
ません汗
なぜ地頭が大きな力を持つようになったん
ですか?

 

■2427  Re: 鎌倉時代の御家人について 
□投稿者/ 作左衛門 新参(1回)-(2013/06/12(Wed) 09:54:23) [ID:1L2ZlvLA]

良い機会ですから、復帰したいと思います。


地頭は「地の頭」という語義から分かるように、各所領の責任者であって、最大公約数的には、公権力(幕府や朝廷)から現地の支配・管理を委託された存在です。
よって、荘官が地頭になることもあれば、他所の人間が下向してくることもあり、そのまた代理人が立てられることもあります。

何故に大きな力を持つかといえば、やはり現地を実際におさえていることであり、管理者権限を糸口として、地域権力化していくケースが多く、そうして日本列島各地に成立した無数の地域権力を、朝廷も幕府も満足にコントロールできなくなった結果が、南北朝動乱であり、戦国争乱であったということかと存じます。

 

■2428  Re: 鎌倉時代の御家人について 
□投稿者/ 大黒屋介左衛門@管理人なのか? 新参(3回)-(2013/06/12(Wed) 19:26:10) [ID:1KYOMVwD]

>なるほど、鎌倉時代の御家人の間ではまだ貨幣を使う習慣が一般的でなかったんですね
そういうわけでもないんですけどね。
如何に自給自足が進んでても日本国内では鉄の産地などは限られてますし、完全に他地域と遮断されている地域というのもないわけではないですがそこまで極端な例は少ないです。ただ、よそとの交易において物々交換も少なからずあったでしょうから貨幣経済の浸透というのもある程度限定的であったのではなかろうかと考えられます、その理由として最大の要因が貨幣そのものの供給を輸入に頼っていたという事実です。

>地頭
 このへんは実のところ荘園の成立、武士団の形成といったものから流れで理解する必要があったりしますので一口に説明するのが大変難しかったりします。
 武家政権の成立と公家の凋落なんかも関わってきますしね。
 時代も平安末期から鎌倉、南北朝そして戦国まで長い時間をかけて変化するものですし。
 公地公民制の崩壊により墾田永年資材法によって荘園の時代が幕を開けた頃、中央政権の意を組んだもの以外に在地勢力による新規開墾の動きもあったのですが開墾地を守り抜くのに自力だけで解決できる勢力などほぼなかったわけでそういった土地を中央の息がかかった土地とすることで解決を図るのが多かったようです。これを寄進というわけですが、中央の誰それに土地を寄進し一定額を貢納することで自身は荘官として現地を差配するわけです。それでも土地を守るには不安があるわけでこういった豪族たちは武装もしていました。
また貢納するのは何も収穫物だけとは限らず軍事力そのものを荘園主に納めることもありました。
 こういった武装勢力は律令体制の軍団制が崩壊していた当時臨時の軍事力として組み入れられて次第に公のものとなっていきます。その行程として地方行政組織の在庁官人に組み入れられていくことになるのですが、その流れで数年の年季で地方を持ち回りで収めていく受領層と呼ばれる下級貴族たちと件の地方豪族が血縁を結ぶようになり組織化されていくのが武士団の起こりと考えられています。
 やがて任期明けと共に消えていく、時には顔も見せずに中央から指図だけする受領に反発も強まり、ときには任期を終えてもなお現地にとどまって土着するような者たちも出てくるようになった平安の末期、全国規模の動乱、やがては源平合戦によって彼らは地頭として再編成されるようになります。

非常に長々と文章を垂れ流しましたがそんなわけで、地頭にして荘官ある時は在庁官人という人々が出てくるのです。また地頭たちがこの後やがて地方国府の権限に介入するようになって律令体制が完全に崩壊する要因ともなってくともいえます。

こんな感じです。

 

■2429  Re: 鎌倉時代の御家人について 
□投稿者/ ゴローウニン 新参(6回)-(2013/06/12(Wed) 23:39:12) [ID:XLPGbDhq]

作左衛門様、大黒屋介左衛門様、
丁寧な解答ありがとうございました。

荘園ってやっぱり奥が深いですね笑

まだまだ勉強不足です汗

 

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