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棒

■2442   大鳥圭介は戦下手なのか? 
□投稿者/ 作左衛門 新参(6回)-(2013/06/23(Sun) 10:21:08) [ID:JtjecnVr]

「八重の桜」に出してもらえない人。もっとも、まだ出番はあるかもしれませんが。

戊辰戦争が西郷・勝会談で幕とならず、北関東から奥羽・蝦夷地へと戦火が拡大していった一因として、大鳥圭介などが洋式部隊を率いて江戸から脱走し、抗戦を継続したことをあげられます。
その是非は措いておくとして、大鳥圭介は動乱を生き残ったこともあり、壮絶に散った土方歳三・古屋佐久左衛門あたりと比し、芳しくない評価・描写が回ってくる場合も少なくありません。

それは軍事手腕にも及び、しばしば「戦下手」のレッテルを貼られてしまいます。
ですが、江戸を脱走してから、満足な補給を受けることもなく、箱館まで戦い抜いた力量は、そう悪くはないようにも感じられます。
はたして、将帥としての大鳥はどのように評価すべきなのでしょうか。


■2443  Re: 大鳥圭介は戦下手なのか? 
□投稿者/ 大黒屋介左衛門@管理人なのか? 新参(6回)-(2013/06/24(Mon) 23:01:12) [ID:1KYOMVwD]

肝の据わった人物というエピソードがいくつか残っているようで劣勢にあってもどっしりと構えてて動揺を悟らせなかったという描写が散見されますので、参謀役がしっかりしていれば将帥として名を残したやもしれませんね。

維新後は軍人というより軍官僚、もっと言ってしまえば技術者としての業績が挙げられます。早くから英語をたしなみそれを武器に海外技術の紹介に尽力していたようなので軍人よりこちらが本質ではないかと。

 

■2444  Re: 大鳥圭介は戦下手なのか? 
□投稿者/ 作左衛門 新参(7回)-(2013/06/25(Tue) 08:30:54) [ID:JtjecnVr]

概して、旧幕陣営抗戦派の軍人は、明治期は別分野に転出していますね。
榎本武揚は海軍中将になっていますが、これは対ロシア交渉にあたって、地位の底上げをはかった措置ですし。

 

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棒

■2439   テマ制とプロノイア制 
□投稿者/ ゴローウニン 新参(7回)-(2013/06/18(Tue) 20:30:33) [ID:XLPGbDhq]

ビザンツ帝国における土地制度で、
テマ制とプロノイア制がありますが、
なぜテマ制からプロノイア制へ変更
されるようになったんですか?


■2440  Re: テマ制とプロノイア制 
□投稿者/ 裏辺金好@管理人 新参(4回)-(2013/06/18(Tue) 22:07:29) [ID:mZKENaB6]
http://www.uraken.net/

ビサンツ帝国は時代によって、ローマ時代の中央集権体制から、貴族の連合体のような形に変わっていきますが、
これは中央政府の権力が低下し、軍事貴族の連合国家のような形に変質したことによるものです。
つまり、中央政府が行政官を地方に派遣し、統治を行えるほどの軍事力・財政力がなくなったわけですね。

ですからプロノイア制によって、日本で言う御恩と奉公じゃないですが、皇帝は貴族の権利を認め、貴族は皇帝に奉仕する
という関係性を構築することで、国家を安定させたわけです。

それにしても、テマ制(軍管区制)なんて、なんて懐かしい言葉・・・。
ヨーロッパ史も復習せねば。

 

■2441  Re: テマ制とプロノイア制 
□投稿者/ ゴローウニン 新参(8回)-(2013/06/19(Wed) 21:00:46) [ID:XLPGbDhq]

この辺りからビザンツ帝国の衰退が始ま
ったんですよね。

ありがとうございました!

 

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棒

■2434   足利尊氏の将軍任官と北畠顕家・新田義貞 
□投稿者/ 作左衛門 新参(4回)-(2013/06/16(Sun) 11:10:59) [ID:JtjecnVr]

鎌倉幕府の成立を源頼朝の将軍任官に求めるかどうか、というのはよくある議論ですが、室町幕府の成立を足利尊氏の将軍任官に設定する、という話はあまり聞きません。

尊氏が征夷大将軍となるのは、延元3年(1338)にまず北畠顕家、次いで新田義貞が戦死し、南朝に対する軍事的優位が確立して間もない時期のことです。
ところが、尊氏は新田義貞討滅の功績は弟の直義に譲り、自らは北畠顕家討滅の功績という名目で将軍に任じられています。

尊氏は建武政権から離脱するにあたり、新田義貞の打倒を掲げたはずで、いつの間にか北畠顕家を主敵に切り替えていたとも解せます。

新田義貞は南朝成立前に後醍醐天皇から切り捨てられており、その後も越前金ヶ崎合戦に敗れて、政治的地位や軍事力を低下させていた故か。
あるいは、主敵は依然として新田義貞であったが、事実上の副将軍である直義に箔を付けるために、敢えて義貞討滅の功を直義に譲ったのか。
それとも、征夷大将軍の本義を考えると、早い段階で関東から離れた新田義貞よりも、奥羽をおさえていた北畠顕家の撃滅こそ、任官の名目に相応しかったのか。

色々な解釈ができるでしょうが、最大公約数を出すには、いかなる解とすべきでしょう?


■2435  Re: 足利尊氏の将軍任官と北畠顕家・新田義貞 
□投稿者/ 裏辺金好@管理人 新参(3回)-(2013/06/16(Sun) 13:12:43) [ID:wfS05GGn]
http://www.uraken.net/

鎌倉幕府がいつ出来たか論争との最大の違いは、尊氏政権は1336年に建武式目を発表し、施政方針を明確に打ち出したことがあると思います。このため、征夷大将軍に任命された=幕府の成立とは、あまり言われないのだと思います。

最近こそ鎌倉幕府の成立も守護・地頭の設置という政治体制の変化を幕府の成立とみなすようになりましたが、征夷大将軍はあくまで官職の1つであって、幕府を開きなさいという、錦の御旗ではないですし・・・。

北畠顕家討滅の功績という名目で将軍に任じられたのは官位の本質上の話で、北畠顕家が奥州を押さえていたためと思います。あとは、新田義貞と北畠顕家、どちらが足利尊氏にとって倒すべき敵として重要だったか、ということもあるのでしょうかね。

それにしても、北畠顕家は21歳で戦死していますが、見事な猛将っぷりを発揮していますね。凄いものです。だいたい、北畠氏は公卿の家柄ですし・・・。

 

■2436  Re: 足利尊氏の将軍任官と北畠顕家・新田義貞 
□投稿者/ 大黒屋介左衛門@管理人なのか? 新参(5回)-(2013/06/16(Sun) 20:42:50) [ID:1KYOMVwD]

>北畠顕家討滅の功績
これをもって征夷大将軍として任命されたというなら相当皮肉に富んだなんとも婆娑羅な時代を象徴した出来事だと思いますよ。ただ奥州を抑えていたというだけでなく、かりにも高位の貴族たる北畠をまつろわぬ『夷』としてなぞらえたというなら。
帝の位を僭称し国を乱す南朝方を貶めるとすればこれ以上ない話ではあるでしょうけど。

>だいたい、北畠氏は公卿の家柄ですし・・・。
この時代珍しくもなんともないというのが・・・。
南北朝は史料が揃わないという欠点こそありますけど、戦国や源平合戦よりはるかにカオスでグダグダで面白い時代ですよね。革命マニアにオカルト宗教に脳筋にやることなすことド派手なバサラ共の蠢く日本史で最もファンタジーな時代ではなかろうかと。

 

■2437  Re: 足利尊氏の将軍任官と北畠顕家・新田義貞 
□投稿者/ 作左衛門 新参(5回)-(2013/06/16(Sun) 22:11:50) [ID:JtjecnVr]

北畠家は、まさに太く短く生きた顕家、ほとんど妖怪じみた親房と、この父子だけでも南北朝時代のファンタジーかつカオスな世相を体現していますね。

また、顕家討死の同年には、親房が関東に再度下向し、常陸国で南朝方の軍事勢力を再編しております。結城氏との交渉で見せた頑迷さを揶揄されることもありますが、ともかくも数年は戦線を維持しており、一時の南北朝動乱は、常陸国を主戦場としていました。
足利将軍家にとっては、父子揃って「東夷」とすべき存在でしょう。

 

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棒

■2430   明帝国の「陸禁」? 
□投稿者/ 作左衛門 新参(2回)-(2013/06/13(Thu) 09:37:18) [ID:JtjecnVr]

大明帝国を考えるキーワードとして、「海禁」という概念があります。
大雑把に理解するならば、海外諸国との交流を朝貢体制の枠内に抑えるという路線であって、豊臣秀吉の大陸侵攻も、これを打破して、強制的に門戸開放を実現しようという構想でしょう。

しかしながら、こうした対外政策は、何も海に限定したモノではありません。明は北方のモンゴルやジュシェン(女真)などにも同様の態度でのぞんでおります。これが北方民族との紛争、やがてヌルハチの決起を経て、明から清への「華夷変態」を招いたとも言えます。

この北向きの政策は、何と呼称すべきなのでしょうか?
そのまま「陸禁」と称すべきか。
南方と包括して「」付の「海禁」とすべきか。
いっそ「鎖国」とでも呼ぶべきでしょうか。


■2431  Re: 明帝国の「陸禁」? 
□投稿者/ 大黒屋介左衛門@管理人なのか? 新参(4回)-(2013/06/13(Thu) 20:17:02) [ID:1KYOMVwD]

明代の対外政策の苦労は「北虜南倭」の言葉が残ってます。

渡航に関しては某切れ一本見逃さないとの意気込みで遮断を第一としたことから海禁で呼ばれたわけですが、それに対し、北方政策は軍事上さらに特に拠点を設けずに移動を続ける遊牧民に対し望む望まないにかかわらず常に攻勢をかけることを第一としてますから色合いの違いからいって、同じ対外政策とはいえいと括りにすることもないのではないかと。


あと遅れましたが、お久しぶりです。

 

■2432  Re: 明帝国の「陸禁」? 
□投稿者/ 裏辺金好@管理人 新参(2回)-(2013/06/13(Thu) 21:41:34) [ID:mZKENaB6]
http://www.uraken.net/

どうもお久しぶりです。これから以前のペースでガンガン盛り上がっていきましょう!

明の対外政策については、北向きと南向きで同じであるか、別であるか難しいところですね。

もちろん日本を含めて海側は、ある程度の国家があるのに対し、北は北元やオイラートと緊張関係にあるわけで、明は南方と異なり(一時はベトナム支配もありましたけど)、
北方に対しては遠征も行っていますし、逆に攻め込まれてもいますので、こうした点では政策は異なるものといえるでしょう。

その一方で、平時にはオイラートとも朝貢体制の枠内で交易を行っており、その意味では南方との外交政策と同じであるとも言えます。

結果的には朝貢貿易で、何だかんだ言いながらも周辺諸国や民族と経済的な結びつきを深め、意外と平和な時代が長かったからこそ、女真族の体制変化と勃興に対する対応に甘さが出たことも否定できないと思います。

北方に対して強攻策や領土拡大等の政策とをっていれば、間違いなく女真族の不穏な動きも叩き潰していたはずですし。まあ、当時は国力としてそんな余裕もなかったのかもしれませんが・・・。

 

■2433  Re: 明帝国の「陸禁」? 
□投稿者/ 作左衛門 新参(3回)-(2013/06/14(Fri) 09:11:48) [ID:1L2ZlvLA]

お二方とも、ご健勝でなによりです。

最近読んだ岡田英弘氏の『中国文明の歴史』によると、明の軍戸(軍事負担層)はその大半がモンゴルなどの北方民族をルーツとしていたようです。
たしかに、明関連の文献をチェックすると、明は元を打倒して成立した帝国ながら、同時にフビライ=ハンの偉業を継承するという姿勢をとっておりますが、軍事基盤が北方民族の子孫であったとすると、相応に納得のいく路線です。

また、16世紀後半に入り、明はアルタン=ハンと講和し、長城の南北は一大交易時代を迎えるのですが、それでも明はアルタンの一族を「蒙古国王」に封ずるのではなく、「順義王」の称号を与えるにとどまっています。
アルタンが北元の正統ではない、という事情も絡んでいるのかもしれませんが(嫡流のトゥメン=ハンは遼東方面で活動、その与党勢力が女真)、南方とは違い、北方に対して、国家としては認めず、基本的に統合して、皇帝本人が君臨すべき対象と認識しているとも解せます。

 

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棒

■2424   鎌倉時代の御家人について 
□投稿者/ ゴローウニン 新参(4回)-(2013/06/11(Tue) 07:54:47) [ID:XLPGbDhq]

さっそく質問させてください。

鎌倉時代後期の御家人が窮乏した
理由ですが、

元寇の戦費
分割相続による所領の細分化
貨幣経済の浸透

の三つが主なものだと思うのですが、三つめ
の「貨幣経済の浸透」は、なぜ御家人の窮乏を
招いたのでしょうか?


■2425  Re: 鎌倉時代の御家人について 
□投稿者/ 大黒屋介左衛門@管理人なのか? 新参(2回)-(2013/06/11(Tue) 19:23:24) [ID:eCBWQDqw]

 まず日本国内においては皇統十二銭以来国産の貨幣が途絶えて久しい状態でこの時代多くは宋銭を輸入することによって需要をまかなっていました。言ってしまえばその程度の経済規模だったわけですが、鎌倉も後期になると土蔵、問丸、馬借といった商売が主に寺社の庇護の下勃興しはじめてました。
 瀬戸内航路を利用できる西日本は京都を中心に多くの寺社がある意味公家や武家よりも強固に所領を支配しており座のような同業者組合の後ろ盾となって商業の新工作を図っていた関係で長らくその中心となっていきます。

 こういった商人に対しわずかな所領から上がる生産物を現物で徴収するスタイルの御家人は無力であり、何よりそもそも生活のために彼らからの借入でなんとか生活を工面する御家人がほとんどだったわけで、自給自足でその土地に根ざすことを前提とした支配体制では貨幣経済の浸透はその体制を崩壊させる要因として十分なわけです。
 その上窮乏する御家人の救済策として発令された徳政令は焼け石に水どころかさらに御家人を追い詰める結果となりました。一方的に借金を棒引きされれば貸し渋りや貸しはがしが多発するのは自明の理です。

穴だらけですが、ま、こんなとこかと。

 

■2426  Re: 鎌倉時代の御家人について 
□投稿者/ ゴローウニン 新参(5回)-(2013/06/12(Wed) 00:13:56) [ID:XLPGbDhq]

なるほど、鎌倉時代の御家人の間では
まだ貨幣を使う習慣が一般的でなかっ
たんですね。納得です(^-^)

あと、地頭についてなんですが、
地頭=荘官
という理解で良いでしょうか?
荘官のなかにも預所や下司などいますが、
その中での地頭の位置づけがよく分かり
ません汗
なぜ地頭が大きな力を持つようになったん
ですか?

 

■2427  Re: 鎌倉時代の御家人について 
□投稿者/ 作左衛門 新参(1回)-(2013/06/12(Wed) 09:54:23) [ID:1L2ZlvLA]

良い機会ですから、復帰したいと思います。


地頭は「地の頭」という語義から分かるように、各所領の責任者であって、最大公約数的には、公権力(幕府や朝廷)から現地の支配・管理を委託された存在です。
よって、荘官が地頭になることもあれば、他所の人間が下向してくることもあり、そのまた代理人が立てられることもあります。

何故に大きな力を持つかといえば、やはり現地を実際におさえていることであり、管理者権限を糸口として、地域権力化していくケースが多く、そうして日本列島各地に成立した無数の地域権力を、朝廷も幕府も満足にコントロールできなくなった結果が、南北朝動乱であり、戦国争乱であったということかと存じます。

 

■2428  Re: 鎌倉時代の御家人について 
□投稿者/ 大黒屋介左衛門@管理人なのか? 新参(3回)-(2013/06/12(Wed) 19:26:10) [ID:1KYOMVwD]

>なるほど、鎌倉時代の御家人の間ではまだ貨幣を使う習慣が一般的でなかったんですね
そういうわけでもないんですけどね。
如何に自給自足が進んでても日本国内では鉄の産地などは限られてますし、完全に他地域と遮断されている地域というのもないわけではないですがそこまで極端な例は少ないです。ただ、よそとの交易において物々交換も少なからずあったでしょうから貨幣経済の浸透というのもある程度限定的であったのではなかろうかと考えられます、その理由として最大の要因が貨幣そのものの供給を輸入に頼っていたという事実です。

>地頭
 このへんは実のところ荘園の成立、武士団の形成といったものから流れで理解する必要があったりしますので一口に説明するのが大変難しかったりします。
 武家政権の成立と公家の凋落なんかも関わってきますしね。
 時代も平安末期から鎌倉、南北朝そして戦国まで長い時間をかけて変化するものですし。
 公地公民制の崩壊により墾田永年資材法によって荘園の時代が幕を開けた頃、中央政権の意を組んだもの以外に在地勢力による新規開墾の動きもあったのですが開墾地を守り抜くのに自力だけで解決できる勢力などほぼなかったわけでそういった土地を中央の息がかかった土地とすることで解決を図るのが多かったようです。これを寄進というわけですが、中央の誰それに土地を寄進し一定額を貢納することで自身は荘官として現地を差配するわけです。それでも土地を守るには不安があるわけでこういった豪族たちは武装もしていました。
また貢納するのは何も収穫物だけとは限らず軍事力そのものを荘園主に納めることもありました。
 こういった武装勢力は律令体制の軍団制が崩壊していた当時臨時の軍事力として組み入れられて次第に公のものとなっていきます。その行程として地方行政組織の在庁官人に組み入れられていくことになるのですが、その流れで数年の年季で地方を持ち回りで収めていく受領層と呼ばれる下級貴族たちと件の地方豪族が血縁を結ぶようになり組織化されていくのが武士団の起こりと考えられています。
 やがて任期明けと共に消えていく、時には顔も見せずに中央から指図だけする受領に反発も強まり、ときには任期を終えてもなお現地にとどまって土着するような者たちも出てくるようになった平安の末期、全国規模の動乱、やがては源平合戦によって彼らは地頭として再編成されるようになります。

非常に長々と文章を垂れ流しましたがそんなわけで、地頭にして荘官ある時は在庁官人という人々が出てくるのです。また地頭たちがこの後やがて地方国府の権限に介入するようになって律令体制が完全に崩壊する要因ともなってくともいえます。

こんな感じです。

 

■2429  Re: 鎌倉時代の御家人について 
□投稿者/ ゴローウニン 新参(6回)-(2013/06/12(Wed) 23:39:12) [ID:XLPGbDhq]

作左衛門様、大黒屋介左衛門様、
丁寧な解答ありがとうございました。

荘園ってやっぱり奥が深いですね笑

まだまだ勉強不足です汗

 

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棒

■2419   はじめまして 
□投稿者/ ゴローウニン 新参(1回)-(2013/06/09(Sun) 18:58:10) [ID:XLPGbDhq]

どうもはじめまして。

世界史と日本史を勉強している浪人生です。

いきなりなんですが、こちらの掲示板で
分からないことなど質問してよろしい
でしょうか?

予備校にはいつも歴史の先生がいるとは
かぎらないもので汗


■2420  Re: はじめまして 
□投稿者/ 大黒屋介左衛門@管理人なのか? 新参(1回)-(2013/06/10(Mon) 02:08:27) [ID:eCBWQDqw]

はじめまして管理人らしいことは最近ほとんどしてない管理人です。

ここ最近は出入りする方もめっきり減ってご覧の有様ですが往時の状況は過去ログを見ていただければと思います。当時は独学なり、学を修めた人なり、その途中である人なりが活発に意見を交わしあったログであり参加者の一人としては手前味噌ながら素晴らしいものであると自負しております。

ご質問に関してですが是非どうぞ。
ただ、所長はじめ私も極力ここを覗くようにはしてますが昔と違ってタイムラグが出るのはご理解賜れば幸いです。
マナーを守ってという最低限のルールを踏まえてであればお仲間との歴史の討議の場としても活用していただければと思います。

 

■2421  Re: はじめまして 
□投稿者/ ゴローウニン 新参(2回)-(2013/06/10(Mon) 21:30:18) [ID:XLPGbDhq]

返信ありがとうございます!

ネットで世界史のことを調べていたら
こちらにたどり着きました。

返信ですが、管理人様のお時間がある時
に頂ければ全然大丈夫です!

僕自身普段あまり掲示板に書き込むことが
ないので、ルールが分からず失礼があるかも
しれませんが、よろしくお願いします(>_<)

 

■2422  Re: はじめまして 
□投稿者/ 裏辺金好@管理人 新参(1回)-(2013/06/10(Mon) 22:03:13) [ID:mZKENaB6]
http://www.uraken.net/

初めまして、所長です。
いやあ〜、随分長いこと閑古鳥が鳴きまくっている状態で、よくぞ書き込んでいただけました。
チェックだけは欠かさずしていたのですが、最近やブログやらフェイスブックの管理までやっていて
なかなか歴史掲示板まで手が回らなかったのですが、いよいよ本格再開したいですね。
ぜひ色々とお書き込みください。

 

■2423  Re: はじめまして 
□投稿者/ ゴローウニン 新参(3回)-(2013/06/10(Mon) 23:51:21) [ID:XLPGbDhq]

所長様、はじめまして(^-^)

ゴローウニンと申します。
その名の通りご浪人です笑

なにぶん知識が不十分で、高尚な質問は
できませんが、よろしくお願いします(>_<)

 

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