[127] 謎の・・・ 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/10/26(Sun) 21:49
今日特命を受けてなにやらリサーチする番組を見ていたのですが、それで取り上げられていた「オーパーツ」これについて皆さんどう思っているのでしょうか?
[127へのレス] う〜ん 投稿者:裏辺金好 投稿日:2003/10/28(Tue) 12:07 <HOME>
オーバーツって何ですか?と言うレベルなので・・・。
私は解らないです。
[127へのレス] Re: 謎の・・・ 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/10/28(Tue) 16:59
オーパーツとは主に考古発掘品でその時代にはありえない技術が使われている品のことです。
とはいえ、実際に現物があるわけですしこういう表現が正しいかどうか・・。それにこれに関するものはどうしてもトンデモ科学の類が多いので、なんともいいがたいものがあるんですよ。
有名なのは中南米の「水晶のどくろ」です。
ま、たとえ優れた技術、技法、理論なんかがあっても様々な理由で歴史に埋もれていくことは間々あることですからこれらもそういった部類のものであるというのが私の見解です。
本気で信じてる人には悪いんですがこれらを超古代文明だの、異星人の痕跡だの、タイムスリップだのと関連付けるのは人間の可能性とか、当時の人間たちを馬鹿にしてるようにしかおもえないんですよね〜。
[127へのレス] Re: 謎の・・・ 投稿者:裏辺金好 投稿日:2003/10/28(Tue) 18:54 <HOME>
ほうほうほう、俗に言う「トンデモ」世界の代物・・ですな。
文明が、必ずしも先に進むとは限らず、
何らかの理由で、退化してしまう事って、十分に考えられると思います。
実際、ヨーロッパでは古代ローマ帝国滅亡後、ある程度衰退し、
あの素晴らしいローマの建築物も放置状態になりましたからねえ。
ローマ文明、それからギリシャ文明は、記録も含めてイスラムに伝わったから、トンデモ化を免れましたが
誰も注目せず歴史に埋もれたら、ストーンヘンジ的な扱いになっていたかも。
ともあれ、惜しむらくは、記録し残す技術・習慣が無いと、いくら優れた文明でも、
一度消えてしまったら、なかなか時代背景とか、前々からの技術の歴史が解らなくなってしまい
結果として、「トンデモ」的な扱いにされてしまうと言うのは、何とも残念な話です。
前にも話題に出したと思いますが、沖縄から太平洋一帯にかけての巨石文明(だったかな)とか、
アトランティス大陸だとか(もちろん、一般に言われているのはプラトンの作り話ですが)
色々な古代文明、少しでも解明できたらなあと、思いますね。
ちなみに、最も有名なオーパーツといえば、インカ・・あれ?アステカだったかな?
ともあれ、あの辺の隙間1つ無い石組みでしょうね。
あ、いやいや、ナスカの地上絵もそうだなあ。
どんな時代、どんな地域にも、独創的な頭のいい人っていたんですね。
レオナルド・ダ・ヴィンチだって飛行機を考案していますし・・。
[127へのレス] Re: 謎の・・・ 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/10/29(Wed) 10:17
オーパーツ・・「Out of place artifacts」を縮めて造った造語だそうです。意味は‘場違いな遺物”。
[127へのレス] Re: 謎の・・・ 投稿者:カリウス 投稿日:2003/11/13(Thu) 13:33
特命を受けてリサーチする番組・・・最近みてないなあ。仕事の終わる時間が不定期なのと、休みが不定期なので曜日感覚が麻痺してるせいか・・・。
あの番組ではオーパーツは古代の人がつくったということになってますね。
そもそも現代の文明がこういう形で発展したといだけのことで、古代のある地域では現代とは異なった文明の発展の仕方をしたというだけのことではないでしょうか? 例えば世界史においても三大発明という「羅針盤」「火薬」・・・あと一つはなんだっかな? とかも、シルクロード等を通じて世界に広まったために普遍性を持ちえただけで、もしかしたらオーパーツとして扱われていたいた可能性もあるのではと思います。
価値観などにおいても大きな違いがあったと思われます。水晶ドクロを作るには当時の技術では二十年以上の年月が必要とかいっていましたが、当時は「水晶ドクロ作りに従事する」ということが、名門の証であったり誇り高い仕事であったため根気よく取り組みつくりあげたのではないかとかですね。
[127へのレス] Re: 謎の・・・ 投稿者:美鈴ちん@岳飛 投稿日:2003/11/13(Thu) 23:27 <HOME>
でも、ハッキリ言えば、
我々の知る科学は全部ヨーロッパ原産と思われがちですが、
これが間違い。
つまり、元になる技術はあったと解釈した方がいいんですよ。
例えば、乾電池を発明したボルタですが、
これはイスラムの文献資料を吟味して、
その中に書かれていたパルティア時代の電気メッキ技術を
再現させたと見るべきだと思うんです。
無論、ボルタが当時のヨーロッパでそれを再実験し、
成功させ、大成学論に持っていった功績は偉大です。
これは努力の賜物だと思います。
でも、そのように考えると、
我々がオーパーツとして考える物の多くが、
自然界で起こりうる現象を技術転嫁させたものだと解ります。
ただ、問題なのはそれらの技術が非効率の極みの上になりたっていた為に、失われ、
現代人の想像の外に置かれているために、
解明が難しい物が多い、と思われるんですね。
学者は常に難しく考えようとする悪い癖がありますから、
その辺りも問題ですね。
[127へのレス] Re: 謎の・・・ 投稿者:蕭月(しょうげつ) 投稿日:2003/11/17(Mon) 14:12
そういや、メルカトルが書いた地図には「南極大陸が描かれている」そうです。
いまでも残っているんですよね。
学者とか、無視してるようですが。
[127へのレス] Re: 謎の・・・ 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/11/18(Tue) 21:46 <HOME>
学者はそれを、オーストラリア大陸であると言っているんでしたっけ?
この地図を書いたとき、どこまでが推測で、どこまでが確証があったのか。
本人に訊いてみないと解らないところですが、
しかし、頭のいい人だったら、そう言う場所があるはずだ、と考えても不思議ではないですよねえ。
[127へのレス] Re: 謎の・・・ 投稿者:美鈴ちん@岳飛 投稿日:2003/11/18(Tue) 22:59 <HOME>
いや、先住民文化に理解のある人間なら、
彼らの証言を聞くと思いますよ。
南の果てに氷に覆われた大陸がある、と。
[127へのレス] Re: 謎の・・・ 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/11/18(Tue) 23:48
たしかピリ=レイスという人の書いた世界地図にも南極大陸があったとか・・・。
[127へのレス] Re: 謎の・・・ 投稿者:カリウス 投稿日:2003/11/19(Wed) 01:09
オスマントルコの軍人も南極の地図をもっていたような・・・。しかも、正確な南極の形をした。
ただ、どうやってあの土地を測量したかはわかりませんが。
まあ、砂漠にも人は住んでいるわけですから、南極に住んでた・・・とまではいんかないまでも、南極を冒険していた人がいたとしても不思議ではないかもしれません。
[127へのレス] Re: 謎の・・・ 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/11/19(Wed) 06:51 <HOME>
>南極を冒険していた人がいたとしても
あ、なるほど。
考えてみれば、アメリカ大陸も1000年前にヴァイキングが訪れているわけですし
そもそも、南極大陸に到達した人の記録が文書として残らなければ
そう言うことも出てくるでしょうね。
ただ、確かに測量方法は・・・う〜む。
[161] 質問いいでしょうか 投稿者:歴史の楽しさが分かってきた人 投稿日:2003/11/12(Wed) 07:47
インターネットを放浪していたらこのサイトに着きました。いろいろ読んでたら、すごいためになることが書かれてて、質問しようと思いました。
とある試験問題についてなんですが、
「源頼朝によって開かれた鎌倉の幕府と朝廷との関係は、その当初における様相としては、次のどのように見るのが正しいか。
@幕府に裁判を取り扱う問注所を置いて司法権のみ執行し、その他は実際はともあれ、名目的には朝廷の権限として残した。
A朝廷には院政が依然行われ、国司の行政権、荘園の支配権が存在し、幕府は武士の統制機関であった。
B朝廷が政治上、経済上有していた権力を、ことごとく幕府に移して、朝廷を儀礼上、名目上の存在とした。
C朝廷には経済上の権力を与え、幕府は行政権を手中におさめて、権限の分割をはかった。
D制度上は朝廷が行政権、経済上の権限を有するように見せかけ、幕府はその蔭の実力者として影響するに止めた。」
問題文は以上でいちおう答えはDとなっていたのですが、その問題集には解説がついていませんでした。。
自分でも今まであいまいだった封建制のこと等色々調べてみたのですが、どうも歴史の全体的な流れとでもいうべき何かが欠落しているようで・・・。例えば、そもそも鎌倉幕府で初めて「幕府」って名前が出てきたけど、何故鎌倉時代で初めて誕生して今は無いのか、つまり幕府って何?みたいなところからぬけてる気がします。今は21歳で高校時代は日本史を取っていたのですが、その頃は語句の暗記に走ってた気がしないでもありません。
初めてですごく図々しい気がしないでもありませんが、出来れば上記の解説に加えて幕府の解説なんてして頂けたら幸いです。
[161へのレス] Re: 質問いいでしょうか 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/11/12(Wed) 19:15
はじめまして、大黒屋といいます、よろしくお願いします。
『幕府』ですが、これは元は将軍の在所、陣営をさすものでした。将軍つまり征夷大将軍ですが、これも元々は字の表すとおり「夷」を征討する将軍を示す言葉でした、「夷」とは平安以前東北地方に在住したびたび朝廷に反乱を起こしていた人々を指します、「蝦夷」などと呼ばれますね。この職は臨時職で常に誰かが任命されるものではありませんでしたが、この源頼朝以降は武家の頂点を指す職として続いていくこととなります、徳川慶喜が大政奉還するまで。
『幕府』の話にもどしましょう。源頼朝以降その職務も大きく様変わりした征夷大将軍、つられて幕府もその意味を広げ将軍が政務を執り行う場所、将軍の統治機構を指すようになります。平家追討、弟義経追討にかこつけた奥州征伐を経て、武家による天下統一を果たした頼朝ですがまだ当時の日本にはもうひとつの勢力がありました。朝廷です。平安中期以降登場しどんどん勢力を広げた武家ですがこの当時はまだ朝廷も衰えたとはいえ確固とした勢力があったんですね。ですから幕府も全国統治機構とはいえず「武家の」という枕詞が必要だったのです。この力関係に一応の変化が訪れるのはまだ先、少なくとも承久の乱以降ということになります。ですから、この試験問題の答えもDということになることと思われます。
とりあえずこんなところですが、足りないところは管理人さんはじめとした方々が補足してくれるでしょう、わたしのまちがいの指摘もふくめて。
[161へのレス] Re: 質問いいでしょうか 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/11/12(Wed) 22:18 <HOME>
初めまして、管理人の裏辺です。
基本は大黒屋さんが解説してくれていますが、私も私なりに書いておきます。
鎌倉時代になって成立したのは、やはり時代の流れを見る必要があります。
すなわち、「武士」の登場です。
武士が登場したことによって、ここに貴族に変わる勢力、今で言えば新党が誕生したようなものです。
武士は、当然勢力を拡大し、一方、貴族側は最初は武士が武力があって便利なので、召使いとしてあごで使っていたのですが、次第に立場が逆転します。
ところが力関係では、逆転したものの、伝統のある貴族の支配システムからの脱却は難しく
特に、まさか天皇制の廃止なんて、思いつきも出来なかったのでしょう。
そこで、貴族の支配システムの枠内で、武士は独自の権力・政治体制を確立することにします。
それが、「征夷大将軍」と「幕府」です。
平氏は、結局の所、貴族という枠に取って代わることは出来ませんでしたが
源頼朝は、この征夷大将軍という特別な存在の役職に就くことで、いわば超法規的な立場を獲得。
そして、征夷を実行するための組織として、幕府を樹立。つまり、制度を上手く利用し、武家政権を樹立することに成功します。
で、問題の答えは、大黒屋さんが最後に解説したようにDになるわけで。
でも、ちょっと難しい問題ですね〜。
今幕府がないのは、当然、武士がいなくなったからです。
では、何で武士が登場したのか?という疑問が当然出てくると思います。
武士の出自は色々ありますが、一番の例は、貴族が任地などで土着するようになり、代を重ねていったもの。
彼らは地元の領主になり、有力な在地勢力として、それなりの力を持つようになってきます。
ところが、当然、新しく中央から派遣されてくる役人に土地を奪われるわけにはいかないので
軍事的な強化を開始し、ここに今で言う武士が誕生していくのです。
繰り返しになりますが、初めは役人側も経たに手を出すよりは、むしろ彼らの力を利用して、色々な反乱の鎮圧時に利用したり、衛兵などとして使っていったのですが
そのうちに、貴族と武士の力が逆転していくわけですねえ。
[161へのレス] Re: 質問いいでしょうか 投稿者:歴史の楽しさが分かってきた人 投稿日:2003/11/15(Sat) 06:04
返信ありがとうございました。大変幕府の成立の流れが分かって感謝しています。
あと、最初の書き込み時に載せた問題でDが正答ということですが、@〜Cの間違った部分というのはどの部分か教えていただけませんか?お手数かけさせてすいません。。
[161へのレス] Re: 質問いいでしょうか 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/11/15(Sat) 07:40 <HOME>
@司法権のみ執行し
A国司の行政権
Bことごとく幕府に移して
C朝廷には経済上の権力を与え
たぶん、ここが違うんじゃないかと。
・・・あっていますよね?>皆さん
[161へのレス] Re: 質問いいでしょうか 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/11/15(Sat) 16:51
多分そうだとおもいますが・・・。
改めて問題文を読むとAはそれほど間違ってる部分は少ないですね。ま〜それというのも鎌倉時代のはじめというのは新時代の始まりではありますが非常に混乱しております。それも当然、今までの権力移譲、政権交代と言うのは都での話で地方には関係のないことでした、都というのはここでは奈良も京都も両方はいります。
日本史上初とはいえないまでも少なくとも数百年ぶりに地方に政治の中心が移る過渡期なわけでしょうがないことですね。武力統一でしたし・・。実際頼朝死後、彼の子孫は北条氏により殺され断絶しますし、御家人たちは御家人たちで権力争いもしくは実際に武力衝突を繰り返します。混乱が収まるのは執権北条氏による政権が確立して以降ですからね〜。
歴史というのは初級数学とは違いますからね。歴史的事件が起こったからといってその後すべて横滑り的に社会が変わるなんてそんなことはありえません。
この問題は混乱期の社会状況といういくらでも例外が発生しうる背景があるわけですから、もう少し限定したほうがいいんじゃないかなと思います。難しいというより出題方法が悪いですね、これ。
[161へのレス] Re: 質問いいでしょうか 投稿者:美鈴ちん@岳飛 投稿日:2003/11/15(Sat) 23:59 <HOME>
んー、問題的には悪い問題じゃないと思います。
というのも、この文面は教科書丸覚えで対応が聞く問題だからですね。
理屈で考えると、多分、混乱するんですが、
丸覚えだと100%解ける、そんな問題です。
この問題の要点は、『文章読解力』と『鎌倉幕府と朝廷の初期関係についての概念的把握』ですよね。
で、年代的には1185−1192年。
この幕府と朝廷の関係で、押さえておく要点は、
『幕府は朝廷に何の事実上権限も与えていない』と言う事なんですね。
上記文章例題は、1−4までは権限の分割委譲が明確にされてしまっている為、これだと実質、朝廷にも権力が存在してしまいます。
つまり、直接的に朝廷に権力がない事を『暗』に指し示す5番目が回答に対してもっとも近い位置にいることになります。
よってこの場合、問題集にもよけいな回答は不要だと思われたのでしょう。
さて、幕府とはなんぞや?
これは正確には臨時行政機関という意味です。
昔の言い方だと大本営。
『府』と言うのは行政機関を意味します。
そこに『幕』という言葉に隠された臨時という意味が付与されると、臨時行政機関という意味になります。
今だと、現地軍政支部かな?
或いは現地総督府(仮 と言う感じですね。
臨時機関ですから、用が無くなれば消滅しますね。
[172] ありがとうございました。 投稿者:角田彰男 投稿日:2003/11/14(Fri) 23:20 <HOME>
掲示板をお貸し頂きましてありがとうございました。貴サイトのご発展をお祈り致します。
[165] 初めまして。 投稿者:草木 楊 投稿日:2003/11/13(Thu) 01:24
初めまして、草木 楊といいます。
あの、ついこの前学校の地理で習ったことなのですが、
●サハラ砂漠より南・・・黒色人種の人がほとんどで:ブラックアフリカ
・このうち、ギニア湾に面したセネガル〜カメルーンまでの
地域を西アフリカとして区別することも多い。
人種的には黒色人種だが、古代から北アフリカとの交流が盛んで宗教もイスラム教だった。(南アフリカ)
と、プリントに書いてあったのですが・・・。
先生が前に言っていた事によると、「昔エジプトで栄えていた文明(民族)が、途中でヨーロッパ人に侵略されたので南下した。
なので現在エジプト文明とされているのはヨーロッパ人の侵略後のもの」ということなのですが、
上の説明の「古代から来たアフリカとの交流が盛んで」と「イスラム教」というのはどういうことなのでしょう?
なんだか分かりにくいこと聴いてすみません;
ではでは。
[165へのレス] Re: 初めまして。 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/11/13(Thu) 10:00 <HOME>
どうも初めまして。一応、学校の授業に関することは、先生に訊くのが一番だと思いますよ。
とはいえ、もちろん書き込んで下さったことは感謝感激なので解答しておきます。
え〜っとですね、北アフリカというのは、だいたいエジプトなんかを想像して頂ければいいのです。
ここの人たちは、イスラム教徒なので、南アフリカの人たちが交流をすると、
もちろんイスラム教が伝わっていきます。
また、北アフリカや中東アラブ社会のイスラム商人達は
貿易のために南アフリカに住むことも多く、同時にイスラム教を布教していったのです。
で、あるからにして。
古代から北アフリカとの交流が盛んで宗教もイスラム教だった
というのは、表現としては足りない部分があり
古代から北アフリカとの交流が盛んで、イスラム教が誕生すると、北アフリカ同様、次第に宗教もイスラム教になった
こう書けば、解りやすくなるのではないかと思います。
[165へのレス] Re: 初めまして。 投稿者:カリウス 投稿日:2003/11/13(Thu) 14:12
私も裏辺氏と同様に学校の先生に確認を取っていただいたほうがいいと思いますが、私が思いますに・・・
>「昔エジプトで栄えていた文明(民族)が、途中でヨーロッパ人に侵略されたので南下した。
なので現在エジプト文明とされているのはヨーロッパ人の侵略後のもの」
ここにでてくる「ヨーロッパ人」が、いつごろエジプトに侵入してきたどの集団なのかがイマイチわかりませんが、これが古代の話であるならば、何ら問題はありません。現代の観点からいくとヨーロッパ人=キリスト教的なイメージがありますが、古代エジプト文明の時期にキリスト教は誕生しておりません。つまり、やってきたヨーロッパ人はキリスト教徒ではないわけです(イスラム教はキリストが誕生してから数百年後に誕生するのでこの時点には存在していません)。
あとは裏辺さんの説明して下さっている通りのことだと思います。
現代の思考パターンだと、ヨーロッパ世界と北アフリカは別の文明の世界のように思えますが、古代から中世にかけては南ヨーロッパと北アフリカは地中海を通じて強い結びつきがあり、「地中海世界」といえる文明を形成しておりました。
この地中海世界を支配したローマ帝国がキリスト教を国教に定めると帝国内にキリスト教が広まっていきます。エジプトにもキリスト教は広まります。
そして、数世紀の後、イスラム教が現代のサウジアラビアに誕生し、イスラム教を教義においたアラブ帝国が領土を拡張し、エジプトを支配するようになると、エジプトにイスラム教が今度は普及するようになります(イスラム教では無理な改宗をさせることはありませんが、税制面でイスラム教徒だと優遇されるのです)。
そして、北アフリカのイスラム教が南アフリカに伝わっていきます。
草木 楊さんの疑問は結局、「世界史の授業」ではなく「地理の授業」であったことからでてきたと思われます。地理の授業は歴史ではないですから、現時点から見たその土地の文化と簡単な歴史という構成になっているので、文明が入り混じっていた地域のことがわかりにくくなってしまうかと思います。
あと、キリスト教やイスラム教がいつ誕生したのか? というのもポイントですね。地理の授業とかだと現代の構図、ヨーロッパ=キリスト教・中東=イスラム教といったものを教えますからね。
[165へのレス] Re: 初めまして。 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/11/13(Thu) 18:18
>侵略したヨーロッパ人
何をさすんでしょう?
海の民?
それともアレクサンドロスかな?
アレクサンドロスなら確かにエジプトを征服しましたね。そしてナイル河口付近にアレキサンドリアを建設した。アレキサンドリアはオリエント世界にたくさん建設されたそうですが現在もこの名が残るのはこのエジプトだけですね。
>アフリカとイスラム教
イスラム教といえば中東地域を思い出しがちですがアフリカでも広い地域に浸透してます。かつてのイスラム帝国の支配下にあった北アフリカはもちろんですが、アフリカ東部沿岸地域にもかなり広がっています。
なぜか?それはこの地域で活躍したアラブ商人たちによるところがおおきいです。彼らは非常に航海術に長けていました。そしてそれは砂漠のキャラバンとも密接につながっています。砂漠と海まるで正反対のようですがとても似ているんですね。どこかというと自分たちが今どこにいるのか、どこへ向かっているのかを知るのに特殊な技術が必要ということです。砂漠も海もどんどん進むと目印となるものが何もなくなります。そしていったん方向を失うとその場にとどまっては生きていけません(砂漠なら脱水症状で、海なら当然溺死)。そこで彼らは非常に高度な天測技術を身に着けたのです。その道具の例を挙げるとアストロラーべなどがそうですね。
らくだを砂漠の舟と呼ぶこともあります。「砂漠」という字も砂の海という意味だそうで(これはうろ覚えなので間違っているかも)似ても似つかぬようで実はそっくりなんですね〜。
話はだいぶそれましたが、アラブ商人にとって砂漠を渡るのも海を進むのもこれといった障害にもならず、彼らの痕跡はイスラム圏の広がりを持って知ることが可能です。北アフリカ、アフリカ東部海岸、インド北部、マレーシア、インドネシア・・・。
交流の歴史は古く、そして互いに交わったのは人、物、金、そして宗教。
[141] 大英博物館展に行ってきました 投稿者:t。t 投稿日:2003/11/03(Mon) 04:10
コメントと追加、ありがとうございます。
昨日、今秋、東京都美術館で開催中の大英博物展に行ってきましたエジプトではラムセス4世が生きた時代の像・ロゼッタストーンなど、古代中国では太公望が生きた時代の貨幣、など、生で見てきました。(とっても、良かったです!)
『このとき、日本では、弥生か縄文時代だったんだなー』
家帰って、再び、こちらを訪れ、年表を再確認し、喜んでいます。
詰め込みすぎると流れが見づらくなるとの見解ですが、同感です。
ご配慮、ちゃんと伝わって来るところが、こちらの素晴らしい所なのでしょうね。
[141へのレス] Re: 大英博物館展に行ってきました 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/11/04(Tue) 21:28
はじめましてt。tさん、いきなりで不躾ですが大黒屋といいます。よろしく。
大英博物館展か〜、東京にいれば間違いなく行ってたな〜。
大英博物館・・・、植民地主義と西欧至上主義の下世界各国から買い叩く、盗み出す、などして集められた魅惑の秘宝の数々・・、と言えなくもないのが悲しい現実。
いってみたい、みてみたい、でも遠い。いなかぐらしのデメリットだな〜。
[141へのレス] Re: 大英博物館展に行ってきました 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/11/06(Thu) 21:14 <HOME>
はい、どうもです。
最近、美鈴ちん&海苔さんの書き込みがないのが気になりますが・・。
大英博物館展、いいですねえ。私も週末に行ってこようと思います。
まあ、簡単に言えば略奪品なわけですが、略奪されなければ散逸されていた可能性もありますし
う〜ん、ひとえに批判は出来ず・・・。難しい。
ただ、大英博物館に限らず、多くの博物館は写真撮影が可能とのことで
ぜひ、現地に行った際には訪問してみたいですね。
日本も、フラッシュ撮影は文化財保護の観点から禁止するのは解りますが、
そうでないのであれば、写真の撮影を認めて欲しいです。
ちなみに本日は、実家のある広島で開催中のモネ・ルノワール展に行って参りました。
モネなどだけでなく、同時代の画家の作品も同時に展示されていたわけですが、
当時のヨーロッパの雰囲気を楽しむことが出来るわけで、カラー写真もなかった時代、
歴史マニアとしては、なかなか良いカラーの資料になります。
さて、ヨーロッパ史の後半部分と西アジア史では、同時代他の地域はどうなっていたのかも含めて
1つの年表に書いているのは、我ながらなかなか面白い企画をしたと自負しております。
今後、他のページにも適用していこうと思っておりますが、
たしかに、日本で○○時代の時には、中国ではこうで、インドではこうで・・・
と、面白いですね。
>いってみたい、みてみたい
いやあ、東京が羨ましいですよね。
ただ、こういう展示は東京だけでなく、大阪・広島・福岡などを経由し、札幌でもそのうち巡回してくる可能性がありますので、
情報を要チェックされておくことをお勧めします〜。
[141へのレス] Re: 大英博物館展に行ってきました 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/11/06(Thu) 22:12
札幌って、割とこういう展覧会ってイベントは開催されないんですよね〜。
理由は簡単、設備がないんです。
国宝、重要文化財は定められた設備のあるところじゃないと展示の許可が下りないようになってます(例外はある)。以外でしょ、札幌ってこういう金のかかる文化施設って割とないんですよ。ま〜地下鉄、札幌ドームなど巨額の赤字を抱える札幌市にそんな余裕はないってことですね〜。
[141へのレス] Re: 大英博物館展に行ってきました 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/11/06(Thu) 22:32 <HOME>
あんなに人口がいるのに、それは残念ですね。
たしかに、例えば広島市ではクラシック音楽の出来る立派なホールがないですので
どうしても「足りないモノ」は出てくるのでしょうな。ううむ、残念。
なんだか楽しんでくるのが申し訳ないですが、私もいつまで東京にいられるか解らないので
・・・楽しんで来ちゃいます。
しかし最近は、こういう企画をなるべく見に行くことにしていますが
昔は、せっかくこうした企画があっても、色々理由を付けては見に行かないことが多々ありました。
非常に勿体なかったと、今では反省しております。
[141へのレス] Re: 大英博物館展に行ってきました 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/11/08(Sat) 20:39
前のレスだと誤解を招きそうなので
文化施設はないわけではありません。
北海道開拓の村記念館、道立近代美術館、ほかいわゆる「はこもの」は結構あります。
ただ○○展などといったイベントの巡回って来ないんです意外と・・。
一番不思議なのは文化庁主催の『発掘された日本列島』という発掘速報展が行われないこと、ほぼ毎年北海道の遺跡出土の資料が展示されるのに・・・。
[141へのレス] Re: 大英博物館展に行ってきました 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/11/08(Sat) 21:35 <HOME>
ちょっと言葉が足りませんでしたね、申し訳ありません。
○○展などのイベントを呼べる施設がないというわけで・・。
・・・
本当にないんですかねえ? そのハコ物でも機能しそうな気がしますが・・・。
な〜んとなく、市や道の担当者に、イベント誘致に対する危害がないだけ、と言う気もしますが・・。
現地のハコ物を見ていないので、何とも言えません〜。
北海道出土の展示品ぐらい、東京だけでなく地元でもやって欲しいですよねえ。
ちなみに発掘された日本列島』は、去年の展示は見てきました。
[141へのレス] Re: 大英博物館展に行ってきました 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/11/09(Sun) 12:10
輸送の問題ですかね〜?
内地の大都市ならすべてトラック輸送が可能ですが、北海道は空か、海か、鉄道輸送に切り替えないといけませんから・・。
展示物の輸送はほぼ日本○運の美術梱包部門が担当してますから・・(たま〜に猫ちゃんの美術梱包事業本部もやってるけど)、あそこはすごいです、個人的なことですがエントリーシートではじかれたことが・・・。
[141へのレス] Re: 大英博物館展に行ってきました 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/11/10(Mon) 07:16 <HOME>
しかし海外から来る物は、どうせ空路で来るんだから北海道を経由させても良いような・・。
う〜ん、なんでだろう?
>美術梱包部門
音楽の楽器運送屋もそうですが、相当細心の注意を必要とするわけで
さぞかし緊張感が凄い職業なんでしょうね。
なかなか、採用されないんでしょうなあ。
[148] 大黒屋さん 投稿者:t。t 投稿日:2003/11/07(Fri) 23:41
こんばんは、大黒屋さん
なにげ、、、に・・・付けていただいてました、すいません。
ありがとうございます。
私も、過去、関東圏とは程遠い所に住んでいましたので
展覧会などの、情報への渇望エネルギーは、かなり、あり
ました。
わかります。
話は、変わりますが…。
先日、今更ながらの、「ワイルドスワン」を読み終え
歴史について、考えさせられました。
毛沢東の政策であった、中国歴史遺産の破壊運動の様子
が、書かれています。
残念で、なりません。
[148へのレス] Re: 大黒屋さん 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/11/08(Sat) 17:32
>中国歴史遺産の破壊運動
プロレタリア文化大革命ですな。
近代中国史の汚点とでも言いましょうか。これにより破壊された歴史遺産、追放、処刑、侮辱された有識者は数知れず、まさに蛮行としか言いようがないですね。外国人から見れば。
歴史においてこのような蛮行は枚挙に暇がないのが悲しい現実です。
中国史なら最初に来るのは「焚書坑儒」かな?(実際はお話に出てくるほどの規模ではなかったようですが)
そして最近なら「バーミヤンの石仏爆破」「バグダット陥落後の略奪騒ぎ」と紀元前から現代のついこの間ですらおきている。悲しいです。残念です。
[148へのレス] Re: 大黒屋さん 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/11/08(Sat) 21:33 <HOME>
私もワイルドスワン読みました〜。
毛沢東や江青などに対し、怒りが沸々と・・・・・。
長く悠久の歴を刻んだ中国の文化財も、あの時に多くが破壊されたわけで、実に残念です。
言われ無きことで勝手に人民の敵と決めつけられ、反論してもいっこうに訊いてもらえず
ただひたすら弾劾され、拷問され、処刑されるというわけで、あまりにも酷い話です。
>焚書坑儒
あれは、儒教が大きく誇張しているみたいですけどね。
いずれにせよ、中国において言論弾圧と宗教反乱は、特に多く発生し、今に続いております・・。
[140] お知らせ 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/11/01(Sat) 22:00 <HOME>
歴史研究所では管理人
歴史共有放送局では管理人の1人をやっております小生ですが
11月2日〜5日は、旅行と帰省のため、お休みさせて頂きます。
まあ、この掲示板は他にも管理人がいますので、そちらに任せられると思いますが・・・。
[137] すばらしい 投稿者:t。t 投稿日:2003/10/30(Thu) 13:33
世界史を、トータルで見聞できるこちら。私好みのsiteです!よくぞ、よくぞ(涙)どーも、お疲れ様、ありがとうございます。出合えて嬉しいです。
私毎ではございますが、、、、、すいません。
古代中国史、古代エジプトの文化比較に興味を覚えているものの、年代の記憶力が伴わず、小説を読んでは、後戻り、ページを繰りなおす作業が続いて、苦労していました。
こちらでは、親切に、時代を世界の動きにあわせて表記して下さいますので、大変分かりやすく、嬉しい事です。ありがとうございます。
御礼と共に、感謝の足跡を残させて頂きました〜。
[137へのレス] Re: すばらしい 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/10/31(Fri) 09:36 <HOME>
へい、どうも。歴史研究所管理人の裏辺金好です。
これでも、まだまだ現代史になると未執筆部分だらけで、
まだまだ書き足さないことが山ほどあるのが心苦しいのですが
せっせと執筆中なので、ご期待下さい。
古代中国史ですが、2000年もある歴史を
いくらなんでも省きすぎましたので、昨日の夜に増補いたしました。
あまり詰め込みすぎると、流れが見えづらくなるのが難点ですが
適度な範囲で、これからも増補・改訂をおこなってまいります。
引き続き、よろしくお願いします。
[116] 上杉謙信は強かったか? 投稿者:裏辺金好@管理人の片割れ 投稿日:2003/10/17(Fri) 21:58 <HOME>
一度投稿が無くなると、なかなか新規投稿が来ない物です。
管理人=ネタふりの役目もありますので、特に管理人の方は活性化にご協力を。
あ、さてさて。
信長の野望を初代のマイコン時代からやっているのですが、
気になるのが、上杉謙信の破格の強さです。
ライバル・武田信玄が強いのは認めますが、上杉謙信=戦上手というと、イマイチピンと来ません。実際はどうだったんでしょう。
というわけで、上杉ネタいきましょう。よろしくお願いします。
[116へのレス] Re: 上杉謙信は強かったか 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/10/18(Sat) 06:04
長尾家の家督を継ぐや、各豪族によって分裂状態だった越後を統一し、上杉家を継ぐや、ほぼ毎年関東に進撃し関東管領のかつての栄光を取り戻すべく戦った・・みたいですね。
個人的には自分を毘沙門天の生まれ変わりと嘯き(どうやら後半は本気で思い込んでいた様子)生涯女性には手をつけなかったとか。
義理と職責のため数多の戦を繰り返した為、配下の豪族の中にはあまりよく思っていないものも多かったとか・・、結局関東制圧はかなわなかったですし、国内も一向一揆で混乱するしどうなんでしょうね?
とにかく後北条氏、武田氏、織田家、一向一揆といった強敵達を、明日には裏切るかもしれない中小豪族を率いて戦い、生き延びたのですから戦上手だったのは間違いないでしょう。しかし、あくまで戦術レベルでの話であって、戦略的にはどうなのかな?と疑問符をつけたくなりますね。
[116へのレス] Re: 上杉謙信は強かったか? 投稿者:裏辺金好@管理人の片割れ 投稿日:2003/10/18(Sat) 11:19 <HOME>
たしかに、戦術レベルと戦略レベルで比べると、大きく異なってきますね。な〜るほど。
非常にわかりやすい解説、サンクスです。
あれだけ戦争を繰り返した上に、生き延びたのは凄い凄い。
領民は可哀想ですが・・・・。
>生涯女性には手をつけなかったとか
つまらない信仰と言っては失礼ですが、ある意味で凄い信念ですよね。
それでも全く女性に縁がなかったかというと・・そうではないらしいです。
一目惚れして危ないときがあったらしいです。
1度目は、敵であった平井城という城の主の娘・伊勢姫に惚れて熱愛し、側室にしようとして止められたこと。
(肉体関係はあったかも)
それから、重臣・直江実綱の娘に身の回りの世話をさせていたこともあったそうです。
>配下の豪族の中には
北条(きたじょう)高広なんか、2回も裏切ったあげくに謙信に攻められて降伏して許されていますね。
1回目は武田信玄に、2回目は北条氏康に内通しています。
ちなみにこの人物、大江広元の末裔で毛利元就と同族らしいです。
余談ですが、彼の本拠である北条城は新潟県柏崎市にあり、今もお寺の門として、当時の門が残っています。
・・・柏崎というと、殆ど謙信のお膝元・・・。
[116へのレス] Re: 上杉謙信は強かったか? 投稿者:TYIM1983 投稿日:2003/10/25(Sat) 02:07
お久しぶりのTYIM1983です。
というかあの強烈なパラメーターの根拠はどこから来てるのでしょう…?
やはり第四回川中島決戦の一騎討ち、その後の退却成功の逸話からでしょうか。あとはやはり神が憑いているというイメージからか。
来年春発売予定の「戦国無双」ではどうなるのかもチェックしたいところです。
[116へのレス] Re: 上杉謙信は強かったか? 投稿者:裏辺金好 投稿日:2003/10/25(Sat) 19:05 <HOME>
お久しぶりです。
やっぱり不思議ですよねえ、あの数値。
強かったのは認めますが、統率「100」というのは・・。
ん〜、何を持って「統率」と表すのかってのも難しいです。
戦術的に見れば、毛利元就の方が凄かったと思うんですが(笑)。
ホントに田舎の1城から中国地方全域を支配したのですから。
[116へのレス] Re: 上杉謙信は強かったか? 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/10/25(Sat) 23:00
上杉謙信にはいろんな逸話がたくさんありますからね〜。
本当かよと疑いたくなるような、定石を無視した勝利の逸話がありますからこんな扱いなんでしょう。
たとえば下野唐沢山城の戦い
後北条氏の軍勢35000に囲まれた唐沢山城の救援に手勢8000で駆けつけた謙信は本隊を残し、選りすぐりの精鋭わずか23騎で35000の包囲軍を突破し堂々と唐沢山城に入城したなんて話とか。
手取川の戦い
畿内を制圧し飛ぶ鳥を落とす勢いで勢力を拡大していた織田家の軍勢50000を37000で蹴散らした話とか。
こういう桁外れな戦場での活躍があるから「100」という数値が出るんじゃないでしょうか?
あと脇を固める存在がなく、すべてが謙信一人の双肩にかかっていたのも理由かも知れませんね。
>毛利元就
彼の場合、戦場での活躍以上に権謀術数の限りを尽くした高等謀略戦術が有名だからじゃないですかね?実際知謀「100」ですし。
[116へのレス] Re: 上杉謙信は強かったか? 投稿者:裏辺金好 投稿日:2003/10/28(Tue) 18:57 <HOME>
こっちもレスレス。
23騎で35000を破ったんですか・・・。
う〜ん・・・・
マジか〜〜〜?
こういう芸当が出来ると、たしかに統率「100」ですね。
でも、考えてみれば「統率」という表現の方が、なんだかしっくり来ないな、と言う気がします。
昔は「武力」だったのですが・・・・。
[119] 福島県の名前の由来 投稿者:まさと 投稿日:2003/10/21(Tue) 22:51
福島県に住んでいますがふと気が付いたんです
なんで福島と言う名前なのか何方か知りませんか
[119へのレス] Re: 福島県の名前の由来 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/10/22(Wed) 12:49
はじめましてまさとさん。
私、大黒屋と申します、よろしく。
え〜お尋ねの件ですが・・・
福島県ホームページより抜粋
●県名の由来
(1) 明治9年に、当時の若松県、磐前(いわさき)県、福島県が合併して、現在とほぼ同じ姿の福島県が誕生しました。
「福島」の名称は、そのころの県庁所在地だった福島町から取ったものですが、文禄2年(1593年)ごろ、木村吉清によって、福島城として使われたのが初めてだといわれています。
なお、詳細な由来は不明とされています。
「福島県史」「図説福島市史」より
(2) 信夫(しのぶ)郡は昔、見渡す限りの湖で真ん中に信夫山(しのぶやま)があった。この山には吾妻おろしが吹きつけていたため、吹島(ふくしま)と呼ばれるようになった。
その後、長い歳月を経て、湖が干上がり陸地ができ、次々と集落が生まれた。吹島は風が吹きつけることをきらって、吹を福とし、福島と呼ぶようになった。
「伊達風土記」より
(3) 福島の中心街一帯はかつて信夫の里の杉目(すぎのめ)郷と呼ばれた地域にあたり、目の前に阿武隈川をのぞんだ土地。ここに応永20年(1413年)ころ、当時の伊達盆地の支配者である伊達持宗が杉目城(大仏城=だいぶつじょう)を築き、福島が町になる転機をつくった。
伊達氏はこのあと、独眼竜政宗の時代に、中通りと会津の全域を支配するまでに育ったものの、天正18年(1590年)天下を握った豊臣秀吉に追われ、さらに北方の土地へと移っていく。
新しく中通りと会津の支配者となったのは秀吉の信任厚い蒲生氏郷(がもううじさと)である。氏郷は会津黒川城を本拠とし、伊達盆地の杉目城をその支城としていたが、城の名を縁起のいいものにするため、黒川を若松に、杉目を福島にしたと伝えられている。福島の名は福にあやかったもののようである。
「ふるさと再発見20」より
とのことです。
地名の由来に関しては地名事典や福島県史などを調べるとよろしいかと思われます。それなりの規模の図書館までお出かけになればおそらく見つかるでしょう。
それでは。
[119へのレス] Re: 福島県の名前の由来 投稿者:裏辺金好@管理人の片割れ 投稿日:2003/10/22(Wed) 17:25 <HOME>
手持ちの地名辞典では、見事に論点をはぐらかされていました(笑)。
大黒屋さん、情報サンクスです。
んで、福島県というのは福島市から名前をとった物なので
源流を調べるには、「福島市」の由来を調べる必要があります。
福島市のHPには、単純に蒲生氏郷時代、
家臣の木村吉清によって「福島」と改められたとなっています。
この時期、福井なんかも北ノ庄から解明されていますので
おそらく、縁起の良い名前をつけるのがブームだったのではないかと思います。
ちなみに福井は、当時「北」ということばが不吉だと思われ、改名されたものです。
こんな感じでしょうか。
地名の由来を調べるのは面白いですね。
[119へのレス] Re: 福島県の名前の由来 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/10/24(Fri) 21:56
>北ノ庄
北ノ庄は秀吉によって滅ぼされた柴田勝家の居城だったのも理由に挙げられるでしょうね。もともと同じ織田家の重臣であったこと、さらに新たにそこに配置されたのがともに秀吉と戦った前田利家だったことなど事情は複雑で、領民たちへの配慮、呪いたたりなど精神的なもの、改名の背後にはいろいろ想像されるものがあります。
>地名の由来
地元ねたですが、ご存知のとおり北海道の地名の由来のほとんどはアイヌ語が起源です。アイヌ語は現在ほとんど死語であるためネットで「アイヌ語」を検索にかけるとほとんど地名の由来のHPがかかります。内地の地名由来とはかなり違うでしょ。
[119へのレス] Re: 福島県の名前の由来 投稿者:裏辺金好 投稿日:2003/10/25(Sat) 19:03 <HOME>
たしかに。ただ縁起が良いから変えただけではなさそうですね。
ともあれ、安土桃山時代〜江戸時代初期にかけて地名の変更がブームでございました。
その代表は、織田信長の「岐阜」。井ノ口からの改名ですね。
きっと、自分の息のかかった地名にしたかったんでしょうねぇ。
[115] おしらせ 投稿者:裏辺金好@管理人の片割れ 投稿日:2003/10/11(Sat) 20:26 <HOME>
え〜、常連さんの方々には申し訳ないほど
見事なぐらい更新のないサイトでございました。
私が管理する裏辺研究所・歴史研究所が毎日更新しているのに比べて・・。
そんな状況を打破すべく!
相互リンクも1つ頂きましたこともあり、
各部に大幅なコンテンツ増加を実施致しました。
面白い・役に立つ歴史ページを沢山見つけたので、
ぜひ訪問してみてください。
以下業務連絡。
掲示板に投稿できなかったみたいですね。
復旧しまして、今まで色々問題が起こる掲示板でしたが
もうこれ以上トラブルは起こらないと思いますので、安心してご利用下さい。
中央線の線路工事みたいだな。
[92] もともとの場所よ? 投稿者:明倫北斗 投稿日:2003/09/25(Thu) 00:31
初の参加です。ノータリン男です。宜しくね
西アジア、セルジュク・トルコやオスマン・トルコらを統括した、
Oguz族(オグズ)部族の勃興は、古来より「カルルクに走る」と
伝えられたごとく、アルタイ山脈の西南、東部天山山脈の西北の
ジュンガル盆地から、バルハシ湖の東方にいた、Kulruk族(カルルク
族、ハンガイ山脈の東方から来た、丁零高車の末といわれる)が、
西暦744年のToquz Oguz族(ウイグル族)の成立時に、この支配下に入ることを嫌い、西に走った三部族の一つが中核となり、アラル海北方にいたチュルク系諸部族を糾合して、オグズ族をおこしたとの説が
ありますね。 カルルク西遷説という奴です。
これとは別に、西暦2世紀頃より、カスピ北方のウラル川、ヴォルガ川
間の草原地帯にいたハザール族(最初はイランスキタイ系であったが、
後に突厥の支配を受けて、チュルク系に変化する)の支配下にあった
あるYapghu(ヤブグ 代官、指揮官を意味)が、ハザール汗国の勢い
が衰えるに際して、この支配を脱し、東方のカザフ草原に入り、この地にいたチュルク系の諸部族を糾合して、オグズ族を建てたとの説も
あります。
西暦922年、この地に入ったアラブの使節、イブン・ファドランの
旅行記「リサラ」の記事をもとに、現代のトルコの史家、Z・V・Togan
氏は、どちらかといえば、このハザール東遷説に近いですね
ならばですよ、ならば、オグズ族は西遷でも東遷でもなく、もともとこの地にいたKangli族(康里 康居族)と考えてもいいと思いますよ、
匈奴が強ければその支配下に入り、月氏(クシャン朝)の力が強い時は、その支配下に入り、エフタルが強い時はその支配下に入る。
そして西暦659年に西突厥政権が崩壊したために、この地でオグズとして独立しただけのことじゃーないですかね
Kuz族(クズ オグズ族のこと)もKarrap族(ペチェネグ族)
Kuman族(クマン ボロヴェツ族のこと)らKazakh3K族
(カザフ3K族)は、西暦前2世紀よりこの地にいたKangli族
(康居国を構成したチュルク系遊牧民)と考えれば、
答えはすごく簡単と思うんですがねー・・・
どうもこれピント外れかな?
[92へのレス] Re: もともとの場所よ? 投稿者:さくらもち 投稿日:2003/10/09(Thu) 23:39
す、すごい・・・。
初めまして、明倫北斗さん。ぼくはさくらもちといいます。
ぼくはカスピ海やアラル海やカザフスタンなどにいた遊牧民族やその歴史については、あまり良く知らないんです。オグズ族、カルルク族、ハザール族・・・。恥ずかしながら、今初めてその名前を聞きました。
まだまだ日本人に馴染みの薄い地方の歴史やその群像を改めて知る。これだから歴史というのは、とても奥が深くて面白いんですよね。
ぼくの知らないことが、まだまだたくさんあるので、ここでいろいろ知ることができればいいなと思っています。
これからも、よろしくお願いします。
[91] 義政は豪胆?それとも・・・。 投稿者:さくらもち 投稿日:2003/09/24(Wed) 14:36
皆さんこんばんは、そして初めまして、さくらもちです。今回は、応仁の乱の将軍義政のエピソードについてお話をします。
応仁の乱は最初は東軍が優勢でしたが、中国地方の大名の大内政弘が2万(あるいは3万)の大軍で京に上洛すると形勢は逆転しました。
西軍は花の御所と細川邸を分断し、天皇や将軍を取り返す作戦に出ました。大内政弘、土岐成頼軍を主力とする西軍は、まず花の御所の隣にある相国寺を攻撃しました。
相国寺の僧の中から西軍の内応者が出て、これを合図にして西軍は総攻撃を行い、東軍は松田次郎左衛門、安冨元綱、細川六郎などの武将が戦死しましたが、その後は替わって赤松政則や武田国信が相国寺を守り、西軍に対し、一歩も引かずに防戦しました。
これが応仁の乱最大の激戦といわれている相国寺合戦の簡単な経緯ですが、この時将軍義政は、花の御所でいつも通り宴会を開いていたのです。隣の相国寺が戦火に見舞われているにもかかわらずです。
この義政の行動を見て、「実は義政は、肝っ玉のある豪胆な大物だ」と見るか「何もかもあきらめた上での行動」とみるかは人それぞれですが、ぼく個人としては、やはり義政は「もはやこれまでか」と全てあきらめてしまい、「せめて宴会を楽しみながら最後を迎えようじゃないか」という気分だったんじゃないかなと思うのです。
それでは、失礼いたします。さくらもちでした。
[91へのレス] Re: 義政は豪胆?それとも・・・。 投稿者:裏辺金好@管理人の片割れ 投稿日:2003/09/25(Thu) 10:26 <HOME>
戦国時代の幕開けとなった応仁の乱。
私は、人気が爆発的に悪かったNHK大河ドラマ「花の乱」ですっかり応仁の乱の魅力(・・?)にとりつかれています。
野村萬斎の細川勝元が格好良かったなあ。と、話がずれました。
将軍義政は剛胆と言うよりも、貴族にありがちな現実離れした性格なのではないのでしょうか?
つまり、目の前で起こっていることが目の中に入ってこない。
目に入れたくないのか、本当に入ってこないのかは難しいところですが
私はそう解釈しております。
または、まさか将軍である自分には手をかけないだろう、ここは聖域であると考えていたか。
もしくは、さくらもちさんの意見ともかぶりますが
諸行無常というか、なるようになるさ的か・・・。
[91へのレス] Re: 義政は豪胆?それとも・・・。 投稿者:美鈴@岳飛(一応、管理人らしい) 投稿日:2003/10/05(Sun) 21:27 <HOME>
義政のあれは現実逃避でしょう。
応仁の乱のそもそもの原因が『自分』ですからね。
[82] 直江兼継の前立 投稿者:地欠王 投稿日:2003/09/20(Sat) 17:24
直江兼継の愛の前立に関する質問です。その愛の前立の甲冑が現存し、山形県米沢の「上杉神社」に在るそうですが、実際の写真などを載せているPH、が無ければ本などあれば教えていただきたいのですが宜しくお願いします。
ちなみに愛の前立は「愛染明王」と「愛宕権現(愛宕山の)」にあやかるために「愛」を前立てにしていたそうです。両方とも戦勝祈願をかなえてくれます。もちろん愛が示す通り恋愛の成功も。しかし両方の神様とも愛とは無縁な程恐ろしい不動様ですが…まあ、欲=愛もという信仰だそうです。ちょっと誤解を招く書き方か?
[82へのレス] Re: 直江兼継の前立 投稿者:裏辺金好@管理人の片割れ 投稿日:2003/09/20(Sat) 20:22 <HOME>
お祭りの時に紙で作った物みたいですが
http://www9.plala.or.jp/takedagun/siseki/Yamagata/Yonezawa/Yozan-f/Yozan-f.htm
これでしょうかね?
何とも変わった兜をお作りになったもんです。
こんのがあるとは、知りませんでした。
[82へのレス] Re: 直江兼継の前立 投稿者:羽州探題最上氏 投稿日:2003/09/26(Fri) 16:58
久しぶりのカキコです。
地欠王さんのおっしゃるように、直江兼続の甲冑は「上杉神社」の稽照殿に展示されてます。実際に見たことがあるので、間違いありません。
しかしながら、稽照殿に展示されているものは撮影禁止になっているため、本物はおそらくHP上で見ることはできないと考えられます。
本についてはちょっと分からないのですが、上杉神社の近くにある「上杉博物館」の図録などにあるのではないでしょうか。
[82へのレス] Re: 直江兼継の前立 投稿者:地欠王 投稿日:2003/09/27(Sat) 16:50
裏辺金好@管理人の片割れ さん
羽州探題最上氏 さん
ありがとうございます。
写真見て思いましたが、某マンガの愛の前立の絵は、実物を忠実に再現したもののようですね?あの絵を見たときは、こんな現代受けするビジュアルの兜(←人それぞれですが)本当に在ったのかと疑問に思いましたが、あるんですね。
上杉神社と上杉博物館には、必ずゆくゆくは行ってみたいと考えておりますが、何時になることやら…。
お二方ともどうもありがとうございました。
[82へのレス] Re: 直江兼継の前立 投稿者:裏辺金好@管理人の片割れ 投稿日:2003/09/28(Sun) 09:41 <HOME>
羽州探題最上氏さん、どうもです。
たしかに、こういう物は地元の博物館の図録がお勧めですよね。
ネット上って、文章では結構マニアックな物まで出てくるのですが
写真ともなると、大半の文化財は撮影禁止であるため、所蔵する博物館が公開していない限り、見つけるのは至難の業ですね・・。
[82へのレス] Re: 直江兼継の前立 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/10/01(Wed) 00:21
手持ちの資料によると戦国期には奇抜な形をした兜がたくさん生まれたようです。神仏(三宝荒神など)、動物・魚介(向熊、鶏尾、ムカデなど)や、異国風(唐冠、唐人笠など)などや、烏帽子形、長烏帽子形、さらに変わったものでは野郎頭という額から上をかたどった兜など多種多彩です。これらは集団戦の中で人目を引き自分をアピールする目的で使われたようです。ほかにも銃弾をそらしやすいようにすることを目的に形を工夫したものなど本当にいろいろだったんですね。
>、大半の文化財は撮影禁止であるため
この間訪れた博物館で撮影禁止と注意書きがなされているにもかかわらず展示資料を撮影してるおっさんがいました。このおっさんはただ撮影してるだけでもとんでもないことなのにご丁寧にもフラッシュまでたいている始末で本当に頭にきたので注意してやりました。
博物館の展示資料は公共の文化財でありみんなのものでさらに子々孫々に伝えねばならないものであります。撮影禁止なのは何も意地悪や写真がほしけりゃ図録を買えというのではありません。撮影特にフラッシュのような強い光は資料の劣化を招く危険があります。中でも色彩の施された資料は特に光による劣化の危険性が高く年間積算光量が定められた値を超えないよう展示されるのが普通です。博物館や歴史的建造物などでこういう蛮行に及んでいる人が絶滅してくれることを祈ります。
[82へのレス] Re: 直江兼継の前立 投稿者:裏辺金好@管理人の片割れ 投稿日:2003/10/01(Wed) 07:20 <HOME>
おお、そういえば数タイプぐらいしかない平安時代なんかと比べ、戦国時代は変わった形の兜が沢山登場しますね。
伊達政宗や加藤清正の兜は特に有名ですな。
大正のカリスマ性が要求されることもあり、「個性的」が尊重された時代になったのかもしれません。
でも、私は平安時代の兜・鎧が好きなんですけどね。
>大半の文化財は撮影禁止であるため
1人が撮影始めると、他の人も撮影始めちゃうことがあるので
そして撮影しまいと決まりを厳守する閲覧者が「私もしたいのに・・・」と不快な気持ちになるのでやめて欲しいです。
ただ、HPの資料を必要とする私としては、せめて目録からの転載を許可してもらいたいなあ、と思います。
というか、どうなんでしょう?
転載ってどこまでやって良いのか、良く悩んでします。
完全な無断転載はダメとしても、出典元を明記した場合は常識の範囲内の量の転載なら、良いのだろうか???
[82へのレス] 転載について 投稿者:海苔 投稿日:2003/10/03(Fri) 17:13 <HOME>
よく言われるのは「引用を越える用途での転載を禁じる」ということですね。
そういったことを法律的な部分から引用するなどしてわかりやすく記事にしているサイトもありますから、探してみるとよろしいかと。
>大黒屋さん
>撮影禁止のわけ
それなりの理由があるのは想像がついていたんですが、そういった理由だったんですね。ためになりました。
[82へのレス] Re: 直江兼継の前立 投稿者:美鈴@岳飛(一応、管理人らしい) 投稿日:2003/10/05(Sun) 21:24 <HOME>
前立はある程度の地位につかないと許されないんですよ。
身分毎にも様々な規制があるんです。
組頭程度だと、
小振りのモノですね。
侍大将くらいになると、
大将兜と呼ばれるくらい、立派な前立が付けられます。
平安時代の鎧>
平安時代は鎧も武器も大きく変化した時代です。
前半は古墳時代以来の赤鼈甲鎧に直刀ですね。
後半になると、大鎧に太刀、或いは腹巻きに長刀、が主流になります。
文化財の撮影禁止>
劣化もそうなんですけどね、偽物の複製防止も大切です。
でも、一番良いのは世に出さない事です。
門外不出。
そうしないと、本当にばらけます。
いや、マジで・・・・。
[96] 陽明学についての書籍 投稿者:地欠王 投稿日:2003/09/27(Sat) 17:05
幕末の志士たちに大きな影響を与えたと言う陽明学の本を読みたいんですが、中々無くて…。
えー、私的に陽明学を解説したような本はかなり有るんですが、「伝習録」「王文成公全書」などの王陽明の著書を「原文→書き下し→解説」という感じの本が見当たりません…。
単に私の情報収集力が無いだけなんでしょうが、何か良い本が有ればご教授ください。陽明学ならこれがお勧め!という物でもいっこうに構いません。宜しくお願いします。
[96へのレス] Re: 陽明学についての書籍 投稿者:裏辺金好@管理人の片割れ 投稿日:2003/09/28(Sun) 09:43 <HOME>
ごめんなさい、陽明学については知識がないもので。
東京や大阪の大きな書店、東京神田の古書街で探してみる他はないと思います。
[96へのレス] Re: 陽明学についての書籍 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/09/28(Sun) 17:04
陽明学で思い浮かぶのは大塩平八郎ですね、わたしは。
漢籍をおさがしならう〜ん、国会図書館か東洋文庫かな。
ためしに国会図書館で検索かけてみたら結構ヒットしましたからこちらでお探ししてはどうでしょう。
[96へのレス] Re: 陽明学についての書籍 投稿者:地欠王 投稿日:2003/09/28(Sun) 22:36
>裏辺金好@管理人の片割れ さん
>大黒屋介左衛門 さん
ありがとうございます。国会図書館で検索したら良さそうなのが出た来ました。ほんとうにありがとうございます。
>陽明学で思い浮かぶのは大塩平八郎ですね、わたしは。
私は、大塩平八郎と乃木希典、松田松陰ですかな。皆さん苛烈な亡くなり方をしてらっしゃいますな。
[80] ヘレニズム 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/09/19(Fri) 21:02
天動説を提唱したプトレマイオス
確か彼と同時代に地動説を提唱した学者がいた様な覚えがあるんですが・・・?
だれかご存知の方いらっしゃいます?
もっとも私の記憶違いというのもないとは言い切れないんですけど・・・。
[80へのレス] Re: ヘレニズム 投稿者:さくらもち 投稿日:2003/09/20(Sat) 15:07
初めまして、大黒屋介左衛門さん。ぼくはさくらもちといいます。
プトレマイオスより400年ほど前のフィロラオスは、「宇宙の中心には、目には見えない中心火というのがあり、このまわりを全ての天体が回っている」という地動説の原型といえる説を発表しています。
そしてプトレマイオスより100年ほど前のギリシャの天文学者であるアリスタルコスが、初めて「地球は太陽の周りを、円軌道を描いて回る」という地動説を唱えました。
けれどもこの説は、周知のように長い間受け入れられませんでした。地動説が認められるのは、千年以上の歳月を経てからになります。
これからも、よろしくお願いします。
[80へのレス] Re: ヘレニズム 投稿者:裏辺金好@管理人の片割れ 投稿日:2003/09/20(Sat) 20:26 <HOME>
さくらもちさんのおかげで、調べやすくなりました。
で、百科事典にはこう書いてありました。
アリスタルコス Aristarchus of Samos 前310?〜前230? ギリシャの天文学者。ピタゴラス派の地球回転説(地動説)を支持し、地球が自転しながら太陽の周りを公転しているという説を最初にとなえた。この説について書かれたアリスタルコスの著書は現在うしなわれ、ギリシャの数学者であり発明家でもあるアルキメデスの著書をとおしてのみ知られている。現存する彼の唯一の著書「太陽および月の大きさと距離について」の中で、アリスタルコスは地球から太陽、そして月までの相対的な距離と、それぞれの大きさを概算する方法をしるした。地球から月および太陽までの距離の比を1:18〜20(ただしくは1:389)、月の大きさを地球の約3分の1(約4分の1)、太陽の大きさを地球の約7倍(約109倍)と算定した。アリスタルコスの観測にもとづく説はのちのコペルニクスの地動説のヒントになった。
"アリスタルコス" Microsoft(R) Encarta(R) Encyclopedia 2001. (C) 1993-2000 Microsoft Corporation. All rights reserved.
そうですか、そんな人物がいたんですか。
私の執筆しているヨーロッパ史にも追加しておかないとっ。
[80へのレス] Re: ヘレニズム 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/09/20(Sat) 21:01
そうでしたか!いやあ勘違いじゃなくてよかった。
でもフィロラオスという人は知りませんでした。ふ〜ん。
いま『ソフィーの世界』と『ローマ人の物語』を読んでまして、ふと思い出して気になってたんですよ。
『ソフィーの世界』は哲学史、哲学入門としては最適な本なので読んでない方はぜひお勧めします。『ローマ人の物語』は読んでらっしゃる方は多いでしょうから。読書の秋ですしね。
さくらもちさん始めまして、そしてありがとうございます。今後ともよろしく。
[80へのレス] Re: ヘレニズム 投稿者:裏辺金好@管理人の片割れ 投稿日:2003/09/20(Sat) 21:17 <HOME>
読みましたよぉ、ソフィーの世界。ローマ人の物語は、
親父が持っている物を、たまにかじる程度しか読んでいませんが・・。
現在はソフィーの世界は、上下2分冊で丁度読みやすい大きさになって発売されていますが
私が読んだときは、クソ分厚い1冊の本でした。
あれは、寝転がって読むのも不便、手に持って普通に読むのも不便
何とも腹立たしい書物でしたが、内容が素晴らしかったで許します。
倫理の授業なんてやらないで、あの本を生徒に与えて読ませても全然問題ないでしょう。
[80へのレス] Re: ヘレニズム 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/09/20(Sat) 22:45
>『ソフィーの世界』
私、大学の哲学の講義でこの本のレポート書きました。
今読んでるのもそのとき買ったそのくそ分厚い本です。
私としては中学生あたりに落ちついてよんでほしいですね。犯罪起こしてる暇があるなら。もっとも、そういうガキは本なんて読まないだろうけど・・・、哲学書なんて特に。
>ヘレニズム
ギリシャの〜ってな感じで紹介される人物にはシラクサや、アレキサンドリアでかつやくした人も結構いるんですよね。ま、そういう人たちはみなギリシャ人であることが多いし、シラクサも、アレキサンドリアもギリシャ人の植民都市だからいいのかな?
[43] 三国志ネタ 投稿者:カリウス 投稿日:2003/08/27(Wed) 23:58
最近、真・三国無双3がやっと手元に戻ってきたので、ちょっと三国志について考えました。
呉の国に周泰という武将はおりますが、彼は孫権を庇ってできた傷が体中にあるといいますが、いったいどうなのでしょう?
というのは、孫権は呉の大将の息子であり、三国志の描写の中で実際に軍を率いて戦ったりすることは左程みうけられず、ましてや前線で戦うというところはなかったと思います。
しかも、無数にあるというとは孫権が敵兵に襲撃されたことが一度や二度ではないということになります。
周泰の傷のエピソードは、話を誇張するためだけのエピソードなのでしょうか(演技の話だし)?
しかし、何度も身を挺して庇って、ピンピンしてるとは・・・。たいがい一を庇う場合って、庇った本人は重傷をおうのではないでしょうか?
飛んでくる弓矢から守ったとすれば、合点がいきますかね?
[43へのレス] Re: 三国志ネタ 投稿者:裏辺金好@管理人の片割れ 投稿日:2003/08/28(Thu) 20:09 <HOME>
まあ、そこは中国のお得意技でしょうね。
孫権のために奮戦して、体中に切り傷があったと言うことでしょうか。
まして三国志演技。脚色は相当入っております。
それとも、暗殺者が随分いたのかなぁ。
そういや孫策と違って孫権は確かに前線で戦うことはほとんど無かったですね。
それにしても、戦の傷が体中にあるという逸話がよく登場しますが
そんなにあるならとっくに死んでいるのでは?と思いますよ、まったく。
今と違って、そんなに筋肉が分厚いわけでも無かろうのに。
[43へのレス] Re: 三国志ネタ 投稿者:さくらもち 投稿日:2003/08/30(Sat) 04:29
こんばんは、カリウスさん。さくらもちです。
周泰の体の傷についてですが、このことは演義だけではなく、正史にも載っています。
呉書周泰伝によると、孫策の時代、孫権が山越の不服従の人々を討伐した時、山越が孫権軍に攻めてきて、孫権は絶体絶命のピンチになりましたが、周泰は身を持って孫権を守り、山越が逃げ出した時は、周泰は12カ所に傷を負い、しばらく人事不省でした。
また後に、孫権が濡須(じゅしゅ)で諸将を集めて宴会を開くと、孫権自ら酒を酌して回り、周泰の前に来ると、周泰に命じて上着を脱がせ、孫権がどのようにして傷を受けたかと訪ねると、周泰は昔の戦いを一つ一つ思い浮かべながら、自分の受けた傷について答えたといいます。
そしてこの後、孫権は周泰にこう言いました。
「そなたは兄や私のために、熊や虎のように勇敢に戦い、数十の傷を負って肌は切り刻んだようだ」
一つの戦いで12カ所も傷を受けたというのは、さすがに誇張だと思いますが、多くの傷を受けて孫権を守ったんだということが、この逸話でもわかります。
そして孫権もまた、多くの臣下に敬慕される立派な主君だったのです。
ただ、皇帝の位についてからは、傲慢で残酷な振る舞いが目立つようになり、晩年は後継者争いで国を二分してしまったのですが、このことは、また後日ということで・・・。
[43へのレス] Re: 三国志ネタ 投稿者:裏辺金好@管理人の片割れ 投稿日:2003/08/31(Sun) 10:32 <HOME>
うおっ、正史にのっておりますか。
そうかあ、孫権も陣頭指揮とったことはあったんですね。
いやあ、どうも情報有り難うございます。
ところで三国無双の影響で「呉」の人気が急上昇中だとか。
たしかに、呉も孫権の晩年を除けば、なかなか良いエピソードや逸話も多く
今後、もっと取り上げられてしかるべきかと存じます。
書きたいことも色々ありますが、9月2日にネット環境の良い下宿先に帰ってから、
三国志トークを本格的に仕掛けます(笑)
[43へのレス] Re: 三国志ネタ 投稿者:美鈴ちん@岳飛 投稿日:2003/09/02(Tue) 11:37 <HOME>
傷の受け方にもよりますね。
残る傷でも致命的なモノと、
刀傷の中ではかすり傷に分類されるモノと、
有りますからね。
特にこの時代は、些細な傷でも治療法が原因で、
普通より大きな傷痕として残りますから、
致命的でない大小12カ所の傷を負ったとしたら、
それなりに大きな傷痕が出来たと思いますよ。
[43へのレス] Re: 三国志ネタ 投稿者:美鈴ちん@岳飛 投稿日:2003/09/02(Tue) 11:44 <HOME>
あと、傷に関する認識の違いも重要ですね。
傷、と一言で言っても、今は様々に有りますが、
この頃の常識には、
『かすり傷、負えば一瞬、命取り』
という戦場訓辞がもっぱらですから、
傷を負う事に対する怖さが良くわかります。
平成の世と違い、昭和の初めの頃までは、
傷を少しでも負うと破傷風に繋がったりしましたから、
かすり傷でも、非常に怖かったんですよ。
確かに消毒として焼酎や火を使えるんですけどね、
抗生物質と違い、何処までも一時的措置なんですよ。
だから、戦で死ななくても、
戦場から帰還して半年後にその傷が元で死んだりするんですね。
[43へのレス] Re: 三国志ネタ 投稿者:カリウス 投稿日:2003/09/04(Thu) 00:29
さくらもちさん、情報ありがとうございます。
私、呉好きなんですよね。ヤローで呉が好きっていうのは珍しいといわれますが・・・。
呉のいいところというか好きなところはは、どんどん名将達が死んでいってしまうのに、後任にまた優れた名将が登場するところですな。軍師も周ユ、魯粛、呂蒙、陸ソンとどんどん世代交代していきますが、みなタイプが違うので戦略に幅がでて、版図の拡大と防衛を可能にしていたと思いますし。
三国無双の呉のキャラはビジュアル系周ユを筆頭に若々しい連中が多いですからね。人気がでるのも頷けますな。
破傷風といえば、張飛の息子で劉備なきあとの蜀を支えた張ホウも、落馬したときの傷が原因で破傷風になり死亡してしまいましたな。
[43へのレス] Re: 三国志ネタ 投稿者:美鈴ちん@岳飛 投稿日:2003/09/04(Thu) 01:27 <HOME>
破傷風>
ついでに言えば、
呉将でいくと・・・孫策や周喩も破傷風の悪化と思われる症状で死んでますね。
[43へのレス] Re: 三国志ネタ 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/09/05(Fri) 20:03
>私、呉好きなんですよね
私も呉好きですよ。
というか、長江流域の文化が好きです。
最近その全容が明らかになりだした長江流域の古代文明。世界最古の米の栽培が確認されたりと興味を引くものが多々ありで。
もちろん孫一族や美周朗(字あってたかな?)もですけどね。
[43へのレス] Re: 三国志ネタ 投稿者:裏辺金好@管理人の片割れ 投稿日:2003/09/06(Sat) 16:18 <HOME>
そうですねえ、破傷風は特に怖いですね。
数多くの武将・兵士が、アレで死んでいったんでしょうね。
呉ではやはり陸遜が好きですね。
呉のためにあれだけ奮戦して、その最後はボケ老人と化した
孫権に殺されたも同然という最期も悲劇で・・・。
そして三国志をプレイすると、いつも苦しめられる上
折角捕まえても登用できない!(笑)
ちなみにその子孫は、文人画の画家として名高かったはず。
・・・文人画でよかったかな?
[43へのレス] Re: 三国志ネタ 投稿者:美鈴ちん@岳飛 投稿日:2003/09/06(Sat) 17:15 <HOME>
三洞説の創始者 陸修静も子孫だった様な。
まぁ、八王の乱の時にも子孫は出てくるし、
あっちゃこっちゃで活躍はしているらしい。
[43へのレス] Re: 三国志ネタ 投稿者:名古屋市民 投稿日:2003/09/14(Sun) 10:17
>破傷風といえば、張飛の息子で劉備なきあとの蜀を支えた張ホウも
張苞は正史では名前だけの登場でした。
後孫権の弁護をしますと、二宮事件は呉の名士の勢力を削ごうとした為に起きた側面もあるんです。結局名士の勢力削減には失敗し呉の君主権はどんどん弱くなっていきます。孫皓が暴君になったのもそこいら変に原因があるんですよね。
[43へのレス] Re: 三国志ネタ 投稿者:カリウス 投稿日:2003/09/15(Mon) 18:12
>張苞は正史では名前だけの登場でした。
そうなのですか。演技は蜀を中心にかいてるから孔明の北伐を支えた名将として、あえて活躍させたということですな。
>陸遜
横山光輝三国志では小太りのおっさんなのに、コーエーの三国志ではある時期からビジュアル系キャラクターになってますな。
三国志2のころは、呂蒙系の面をしていたのに・・・。
[43へのレス] Re: 三国志ネタ 投稿者:裏辺金好@管理人の片割れ 投稿日:2003/09/16(Tue) 00:12 <HOME>
そうですね〜、張苞は正史だけでは名前だけの人間です。
多分、大した働きが出来ないまま、早く病死か戦死しちゃったんでしょうね。
演技は無理矢理、蜀を持ち上げるあまりサブキャラクターを充実させすぎです(笑)。
>陸遜
いやあ、きっと若い頃はハンサムだったんですよ。
30過ぎてから、小太りのオッサンにみるみる変身〜。
などと、くっだらないことを書いておきます。
[43へのレス] Re: 三国志ネタ 投稿者:さくらもち 投稿日:2003/09/16(Tue) 14:58
若死にしてしまった張苞にも、張遵という息子がいて、彼は蜀漢滅亡の時に、ケ艾軍と戦って戦死しました。
また張飛の跡を継いだのは、次男の張紹です。
陸遜の妻は孫策の娘で、孫権とは姻戚関係にありました。また孫策には、孫紹という息子がいたのですが、孫策が死んだ時、まだ幼少(おそらく3、4歳くらい)なので、自分の息子ではなく、弟に後を継がせたのでしょう。
その後孫紹については、少なくとも孫権が皇帝になった時点までは生存していることがわかっているのですが、その後はわかりません。恐らく孫紹は、ずば抜けた才能はないけれど、無能でもないから、史書に記録されず、資料に乏しいのではと思います。
陸遜の息子の陸抗は、陸遜より多少劣った面があるとはいえ、呉の最後の名将といわれている人です。また、晋の将軍である羊叔子との間には、敵でありながら互いに信頼し、尊敬し合ったという話があります。
[43へのレス] Re: 三国志ネタ 投稿者:裏辺金好@管理人の片割れ 投稿日:2003/09/18(Thu) 11:33 <HOME>
張紹は、劉禅を調べたら出てきますね。
親父とは似ても似つかぬ文人です。
ちなみに張飛の娘は、劉禅の皇后となって敬哀皇后と呼ばています。さらに、その妹の張皇后は貴人(女官)として宮中に入り、後に敬哀皇后が亡くなったため皇后となっています。
このことから、当然張飛の娘は美人だったというわけで
となると、親の張飛もゲームなどにある猪武者の顔つきではなく
ハンサムだったのではないかと言われています。
もちろん、今の美人とかハンサムの基準とは違いますけどね。
孫策に息子がいたのはしりませんでした。
泣かずとばずの一生だったか、あっさり若死にしたかでしょうね。
[57] お勧めの日本の城を語る 投稿者:裏辺金好@管理人の片割れ 投稿日:2003/09/07(Sun) 21:33 <HOME>
三国志ネタを仕掛けると言いながら
変化球を投げて、日本の城を語ろうかなと。
みなさん、色々な城を訪問されたことがあると思いますが
ぜひここで、時代を問わず、お勧めの日本の城を語りましょう。
まずは私から。
色々とお勧めの城はありますが、私は白河小峰城(福島県)を推薦します。
松平定信などが城主を務めたこの城。
まず魅力の1つとしては、駅の直ぐ後ろにあること。
ゆえに、行きやすいのが特徴です。
そして三重櫓と前御門が木造で復元されていて
まだ、出来てそんなに経っていないため、外観の塗装も内部綺麗で、立派です。
詳しくは、
http://uraken98.cool.ne.jp/rail/travel-urabe43.html
[57へのレス] Re: お勧めの日本の城を語る 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/09/08(Mon) 12:58
五稜郭よかったですよ。
城の構図と説明を見るとなぜか中国の城壁を思い出すんですよ(変でよね)。昔読んだ墨子の防御理論とかなぜか思い浮かぶんです。
あの独特の星形はいうなれば城壁すべてを虎口にしているといったところなんでしょうか?後で城の入り口の写真を送ります。
あと私のお勧めは信州松本城です。黒壁の重厚な城です。元は信州小笠原家の深志城、それから松本城になりまして江戸時代は何度も城主が変わったようです。ドラマ「白線○し」の舞台となった松本
ぜひおでかけになられては?
[57へのレス] Re: お勧めの日本の城を語る 投稿者:美鈴ちん@岳飛 投稿日:2003/09/08(Mon) 14:32 <HOME>
お奨めの城なら犬山城ですね。
日本で現存する城では唯一、大幅な改修はされていない、
本物の巨大な木造家屋です。
そして、本当に個人所有の城です。
持ち主は当然、鳴瀬氏。
城門を降りた所の道沿いに今でも住んでいらっしゃいますね。
現存していたら、広島城を間違いなく推したんですけどね。
日本の城は99.9%神柱からいじり直しをしていたり、
大幅な作り替えをしてしまっていたり、
大体、郭が存在しないのが多すぎるので、
正直、どーなんだろうと、
キビシイ目を向けています。
郭としては、
八王子城や滝山城は美しいですね。
[57へのレス] Re: お勧めの日本の城を語る 投稿者:裏辺金好@管理人の片割れ 投稿日:2003/09/09(Tue) 00:23 <HOME>
こんなネタ振ったのは、本日(と言っても日付が代わりましたが)
掛川城・浜松城・引馬城に行ってきたからであります。
掛川城は木造で復元されているので、
天守閣内部の木の香りが非常に素敵でした。
>五稜郭
是非行ってみたいですよねえ。
日本では非常に珍しい、たしか長野県のどこかと、ここの2つしかない
要塞型の城なんですよね。このタイプの城の正式名称は忘れましたが。
星形の城というのもそそられますね。
>犬山城
そうですね、城に入ったら今でも成瀬さんの家がありましたよ。
*鳴瀬ではありません。成瀬です(笑)。
>広島城
実家が広島城の目の前なので、毎日のように眺めています。
城の中にある模型を撮影しましたので紹介します。
往時の城の雰囲気をお楽しみ下さい。
http://uraken98.cool.ne.jp/hiroshima.jpg
今の広島城は、本来あるはずの小天守2棟が無くて貧相で寂しいですね。
色も、黒塗りで美しいはずが、色あせて木材の色そのままになっていますし・・・。
[57へのレス] Re: お勧めの日本の城を語る 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/09/09(Tue) 20:17
>要塞型の城
市立函館博物館五稜郭分館常設展示図録より抜粋・・・
この城は稜保式という風に分類されているようです。
長野県の例は南佐久郡臼田町竜岡城跡五稜郭のことでしょうか?
五稜郭はもともと「亀田御役所土塁」とよばれていたらしい。ださっ!
さてこの博物館入り口でいきなり開陽に搭載されていたクルップ砲、ブラッケリー砲が出迎えてくれます。そして玄関脇では旧箱館奉行所(五稜郭内にあった)の部材が箱館戦争当時の弾痕を無残に残し無造作に置かれています。
函館市内では数多くの近代建築物が残っており北海道では珍しく歴史を感じさせる街並みです。
[57へのレス] Re: お勧めの日本の城を語る 投稿者:美鈴ちん@岳飛 投稿日:2003/09/09(Tue) 21:07 <HOME>
ああ、いかん、友人の実名誤植しちゃった・・・・(笑。
そうですよね、殿様は『成瀬』さんですよね。
稜保式はフランスに結構残ってますよ。
長野のも函館のもフランス様式で作成されてます。
この方式は、大砲での砲撃戦を考慮して、
どの位置から敵が押し寄せても、
中央、右左翼から、十字砲火を浴びせられる様になっています。
ただ、五稜郭の欠点は稜保式としては規模が小さすぎるんです。
稜保式はもともと城塞都市の発展型ですから、
内部に都市を置き、自力生産拠点を配し、
中央にダンジョンを配する事で完成されるんですね。
そして、一辺の距離を採る事で、十字砲火の意味合いを与えます。
中央、右左翼があんまり近いと、十字砲火になりませんからね。
大砲と言えば、
函館タワーの横だか中にも、
模型ですが、何門か鎮座してますよね?
ブラッケリー砲は艦載砲じゃなくて台場の奴ですよね、確か?
[57へのレス] Re: お勧めの日本の城を語る 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/09/09(Tue) 22:26
>ブラッケリー砲
前述資料より抜粋・・・
昭和36年函館市豊川町にて発見。旧幕府軍が湾内防衛のため築島台場に設置したものと推定。
>クルップ砲
同資料より抜粋・・・
昭和7年七重浜埋め立て工事の際発見。新政府軍朝陽艦載砲と推定。
以上訂正します。
なお開陽搭載砲と推定されるものが江差町にて引き上げられています。
12ポンドカノン砲
16サンチクルップ砲
9インチダルグレン砲
開陽搭載砲は26門だったはず。全部引き上げられてるんでしょうか?
[57へのレス] Re: お勧めの日本の城を語る 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/09/09(Tue) 22:33
>大砲と言えば、
函館タワーの横だか中にも、
模型ですが、何門か鎮座してますよね?
五稜郭公園入り口近くの蕎麦屋さんのまえにありました。
計3門。
でもなんて砲だったか?形から見てアームストロング砲ではなかったのは確かなんですが。
[57へのレス] Re: お勧めの日本の城を語る 投稿者:裏辺金好@管理人の片割れ 投稿日:2003/09/09(Tue) 23:10 <HOME>
そう、それです。竜岡城です。
五稜郭とは形のことで、亀田御役所土塁と呼ばれていた物が
いつの頃なんでしょうね?五稜郭って言われるようになったのは。
しかし、たしかにダサっ。
函館観光の目玉「亀田御役所土塁」。
亀に田んぼに、しかもお役所に土塁。
>稜保式はフランスに結構残ってますよ
ぜひ本式を一度見てみたいですね。
でも、その前に函館の五稜郭を見ておかないと。
本場から見てしまうと、さぞかしつまらないでしょうね。
とはいえ、日本にもあんな形の城(要塞?)があると言うことだけでも
そして、幕末に作ってしまったという点で大きく評価したいです。
ところで、函館の五稜郭って、敷地の中には何があるんですか?
>大砲
蕎麦屋さん防衛のために配備っ?
増え続ける窃盗団に対抗するため、蕎麦屋では幕末製の大砲3門を配備。
話はずれまして
大砲と言えば、探すと結構日本各地に残っていますね。
東京では江戸東京たてもの園。
大阪だと大阪城、北九州だと小倉城・・・。
何気なく、大砲がある〜程度にしか思いませんが
当然違いがあるわけで、是非それを調べてみたいですね。
あと、今見つけたんですが
函館には1902年に函館要塞というのも造られているんですね。
日露戦争に備えた物だとか。
詳しくは、http://hokkaido.yomiuri.co.jp/tanken/tanken_t020511.htm
[57へのレス] Re: お勧めの日本の城を語る 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/09/10(Wed) 12:51
>いつの頃なんでしょうね?
亀田御役所は後箱館奉行所に名称が変わったようです。
1609年松前藩亀田番所設置→亀田奉行所(正式には亀田御役所)
1799年箱館含む東蝦夷地を幕府直轄下に
1802年蝦夷奉行設置→箱館奉行に名称変更
ってな流れ、で、1864年五稜郭内に新奉行所が完成しそこに移ります。
正式名称の亀田御役所土塁もしくは箱館奉行所土塁てのはひょっとしたら、はなっから誰も使わなかったのかもしれませんね。
>規模が小さすぎるんです
もともと箱館防衛の役を担うつもりではなかったのかもしれませんね。その役は規模は五稜郭に劣るものの石造りで強固に作られた弁天岬台場が担っていたのかも。現在の函館どっくのあたりにあったらしいです。五稜郭はあくまで行政府としての役割で作られた城ではなかったか?というのが私の見解です。
で五稜郭公園内には市立函館博物館五稜郭分館、軽食売り場、公園遊具などが設置されてます。ここは北海道内指折りの桜の名所なんですよ。
[57へのレス] Re: お勧めの日本の城を語る 投稿者:裏辺金好@管理人の片割れ 投稿日:2003/09/12(Fri) 22:59 <HOME>
情報サンクスです。
なるほど、そのような歴史だったんですね。
正式名称は、流石に当時から格好悪かったのか!?(笑)
五稜郭は今では桜の名所なんですね。なるほど。
個人的には、木を植えずに、もっと要塞らしくシャンとして欲しいのですが
そう言うわけには、いかんのだろうなあ・・・。
[57へのレス] Re: お勧めの日本の城を語る 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/09/13(Sat) 13:03
五稜郭内には箱館奉行所のほかたてものがいくつかあったようですが、開拓史の札幌移転などに伴いすべて撤去されたようです。したがって当時の建物は一切残っていません。
>要塞らしく
城が城としての役目を終え、家族づれなんかがのんびり桜を眺めるというのもまたそれはそれでよしとおもいます。
土方も、城の設計者の武田斐三郎も、きっとそう思ってくれてると思います。
[57へのレス] Re: お勧めの日本の城を語る 投稿者:名古屋市民 投稿日:2003/09/14(Sun) 10:17
>日本の城は99.9%神柱からいじり直しをしていたり、大幅な作り替えをしてしまっていたり
名古屋城なんて天守閣は鉄筋コンクリートで作り直しましたから。いつでも中に入れるのはいいんだけど、ある意味開き直ってます。
そういえば今、東京湾を防衛していた台場(関東大震災で壊れていまいただの廃墟になっています)の取り壊し作業をやっていますが、なかなか大変みたいです。陸にある要塞と違って海上に作ってある台場なんかは要らなくなると邪魔にしかなりませんし撤去するのも大変です
[57へのレス] Re: お勧めの日本の城を語る 投稿者:裏辺金好@管理人の片割れ 投稿日:2003/09/14(Sun) 16:54 <HOME>
>のんびり桜を眺めるというのもまたそれはそれでよしとおもいます
たしかに、そりゃそうでございますよね。
多くの人に親しまれるって、とても良いことだと思います。
>東京湾を防衛していた台場
今のお台場とは別の奴ですよね。
つい一昨日、日本の要塞とかいう本を読んで初めて存在を知りました。
海面からちょ〜っと出ているだけのような状況になっているので
船舶の邪魔でございますね。
ああいうのは、容赦なくさっさと撤去すべきなのでしょうが
造るのは簡単でも、撤去は大変そう・・・。
>名古屋城
大阪城もそうですが、身体障害者のためのエレベーターを
天守閣の横に大きく設置したために、
そもそもがコンクリートで見た目が悪いのに、
さらに格好が悪くなっていますね・・・。
でも、自分が身体障害者になったときのことを考えると
バリアフリーの観点からやむを得ず・・・。
難しい。
そういえば、名古屋城の本丸御殿の復元工事は
少しは計画が進展しているのでしょうか。
名古屋城に行ったときに、募金を集めていたので
100円募金してきましたが・・・。
・・・100円かよ! ごめんなさいっ。
[59] 歴史共有放送局活性化問題 投稿者:裏辺金好@管理人の片割れ 投稿日:2003/09/08(Mon) 05:31 <HOME>
以前から私が直接管理する歴史研究所と比べ
大幅にアクセス数が少ない
そして掲示板が活性化していないと言う問題狩り
歴史共有放送局の問題には頭を悩ませていたのですが
このたび、海苔さんから、この問題にメスを入れてみようという発案がありました。
http://moto0629.hp.infoseek.co.jp/cgi-bin/bbs/wforum.cgi
こちらで議論を交わしていこうと思いますので
ぜひ利用者の方、管理人の方はご参加下さいませ。
[59へのレス] Re: 歴史共有放送局活性化問題 投稿者:美鈴ちん@岳飛 投稿日:2003/09/08(Mon) 14:32 <HOME>
アクセス出来ない、そーです。
[59へのレス] Re: 歴史共有放送局活性化問題 投稿者:海苔 投稿日:2003/09/09(Tue) 02:57 <HOME>
裏研の方にもかきましたが、infoseekは外部から直接CGIプログラムを呼び出そうとするとエラーが出て弾かれます。
http://moto0629.hp.infoseek.co.jp/k_t.htm
こちらからどうぞ
[1] たまにはネタ振り 投稿者:裏辺金好@管理人の片割れ 投稿日:2003/08/15(Fri) 19:28 <HOME>
モーツァルトの国籍は? 隣国同士で大論争
モーツァルトはドイツ人?現在のオーストリア・ザルツブルクで生まれた18世紀の世界的な音楽家の“国籍”をめぐり、ドイツとオーストリアの間で大論争が起きている。
きっかけはドイツのテレビ局ZDFが今月7日から始めた「だれが最も偉大なドイツ人か」の視聴者投票。300人の候補者リストにモーツァルトの名を見つけた在ドイツのオーストリア大使館が「モーツァルトは生粋のオーストリア人だ」と抗議したことから、両国のメディアが取り上げる騒ぎに。
モーツァルト(1756−91年)は、生涯の多くをザルツブルクやウィーンなど現在のオーストリア領内で過ごし「歴史的にはオーストリア人とするのが普通」(ウィーンの歴史家)。しかし、ZDF側は「当時は神聖ローマ帝国の時代で、オーストリアは存在していなかった」と主張、一歩も引かない構え。
これに対し、オーストリアの各メディアは「その論理なら、(同様に神聖ローマ帝国の統治下で)ドイツが存在しなかった時代に活躍したゲーテもドイツ人ではない」と反発しているが、最終的な決着は9月15日に締め切られる投票結果に委ねられそうだ。(共同通信)
歴史的に見れば、ドイツもオーストリアも存在しないわけで
一体、ドイツ人・オーストリア人はどうやって、この辺のあたりを説明しているのだろうと疑問だったわけですが
なるほど、彼らの間でも曖昧だったんだなと言うことがよく解りました。
てなわけで、
・神聖ローマ帝国に関するネタ
・作曲家に関するネタ
このどちらからか、最初にレスる人が決めて盛り上がっていきましょう。
[1へのレス] Re: たまにはネタ振り 投稿者:海苔@管理人 投稿日:2003/08/15(Fri) 19:43
ローマ帝国関連は色々と既に出ていた覚えがありますので、作曲家ネタで。
ベートーベンが耳悪くした理由は、有害物質を含んだ魚を食いすぎたためだった―――らしい。
すんません、一発ネタしかないや(汗
[1へのレス] Re: たまにはネタ振り 投稿者:名古屋市民 投稿日:2003/08/15(Fri) 19:44
お久しぶりです。
ZDF側の言う事は無理がありますね。そんな事いったらイタリア北部はどうなるんでしょうてことになりますし、神聖ローマ皇帝はオーストリアなんだからゲーテもオーストリア人だといってしまえばそれまででしょう。モーツァルトはオーストリアで活躍したのならオーストリア人でしょうね。
[1へのレス] Re: たまにはネタ振り 投稿者:裏辺金好@管理人の片割れ 投稿日:2003/08/15(Fri) 19:44
ごめんなさい、どうもネタが悪かったみたいです。
>ベートーベンが耳悪くした理由は、有害物質を含んだ魚を食いすぎたためだった
へえへえへえへえへえへえへえへえへえへえへえへえ
へえへえへえへえへえへえへえへえへえへえ
(トリビア風)
知りませんでした。そうだったんですか!。
>オーストリアで活躍したのならオーストリア人でしょうね
お久しぶりです。
そうでしょうねえ、私もそう思います。
それにしても、今ある国なんて、つい最近出来た枠組みや概念だというのがよく解りますねえ。
[1へのレス] Re: たまにはネタ振り 投稿者:海苔@管理人 投稿日:2003/08/15(Fri) 19:45
>ベートーベン
いや、先日とある本を図書館で見付け、彼が使ってた補聴器についての説明があり、その中に彼が耳を悪くした原因について各種の説を取り上げていた中、これが最も可能性が高いとか注釈がついてました。本の名前なんだったかなぁ。
>〜人
〜民族とか人種とかに拘るならまだしも、国境でしか洗わせない国の所属について論争すること自体ナンセンスだとは私も思いますがね。
そういえば、ジプシー(ロマニー)は、通説で言われているようなユダヤ系エジプト人ではない、とかいうので論争になってたな。どこぞの研究会で。
うわ、関係ない(汗)
[1へのレス] Re: たまにはネタ振り 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/08/15(Fri) 19:50
>ジプシー(ロマニー)
私はインドのドラヴィダ系と聞きました。そしてジプシーと呼ばれるようになったのはローマ帝国内を自由に移動できるように自分たちがエジプト人であると偽証したためだという。エジプシャン〜転じてジプシー。
>ベートーベン
耳が完全に聞こえないわけじゃなかったと聞いたことがありますけど。それにしたって作曲家にとっては耳に障害があるのはとんでもないハンデだろうな。
>作曲家
どこかのHPで、メンデルスゾーンは自分が裕福な家に生まれたことをずっと悔やんでいたと書いてあった。
[1へのレス] Re: たまにはネタ振り 投稿者:海苔@管理人 投稿日:2003/08/15(Fri) 19:51
>エジプシャンが訛ってジプシーに
これは結構有名な話ですけど、実際のところどうなんでしょうかね。この手の奴というのは後からいくらでも作れそうでいて、それでいて納得しやすいような書き方しててちと困る。
>作曲家にとってのハンデ
うーん、耳がよく聞こえなくなった結果、想像力がかきたてられたからこそ、後期の名作が出た、っつー話もありますから、結局、生きるということそのものが、芸術家を芸術化として存在させているのかもしれません。
>裕福な家に生まれたことを悔やんでいた
その手のエピソードは結構ありますね。女性に恋ができなくて自殺した作曲家だったり、彫刻家だったり、金が無くて奥さん困らせたり、放蕩生活だったり……よくよく考えたら、特筆するエピソードが出やすいですね、芸術家ってのは(苦笑)
[1へのレス] Re: たまにはネタ振り 投稿者:裏辺金好@管理人の片割れ 投稿日:2003/08/15(Fri) 19:51 <HOME>
芸術家というのは、概して精神が繊細で孤独だったりすることが多いですね。
一方で、芸術家仲間みたいなサロンを作って切磋琢磨しているグループもありますが。
>耳が完全に聞こえないわけじゃなかったと
確か直接ピアノに耳をつけて音を出せば、ある程度は振動で聞こえたといわれています。
・・ちなみにベートヴェンの耳は聞こえた!という本があったと思いますが、私は読んでいません。どんな本だったんだろう?
>裕福な家に生まれたことを悔やんでいた
他の作曲家が軒並み貧乏と戦っていたのに、贅沢な悩みです。
もっとも、実際に彼の立場になってみたいと悩みは解らずじまいですが・・・。
[1へのレス] Re: たまにはネタ振り 投稿者:美鈴ちん@岳飛(超無責任管理人) 投稿日:2003/08/17(Sun) 22:51 <HOME>
作曲家といえば、アマデウスの怪死は些か興味のある事で。
ヨーロッパ史の一代ミステリーの一つだとおもったり。
と言う事で、このまま世界史ミステリーにスポット当てませう。
[1へのレス] Re: たまにはネタ振り 投稿者:海苔@緊急時以外不役立管理人 投稿日:2003/08/18(Mon) 20:36 <HOME>
>ミステリー
岳さんがそのアイコンを使っていること(爆)
[1へのレス] (No Subject) 投稿者:D 投稿日:2003/08/19(Tue) 11:48
>モーツァルトの国籍は? 隣国同士で大論争
関係ないですが、今度はマザー・テレサを巡ってマケドニア政府とアルバニア政府が論争を開始したとか。歴史は同じ事を繰り返しますね・・・。
>ミステリー
世界史最大のミステリーって皆さん何だと思いますか?
[1へのレス] Re: たまにはネタ振り 投稿者:さくらもち 投稿日:2003/08/20(Wed) 04:01
こんばんは、裏辺金好さん。さくらもちです。
神聖ローマ帝国については、勉強不足であまりよくわからないので、作曲家についてのエピソードを・・・。
フランツ・シューベルトという有名な音楽家は実は二人いて、一人は歌曲王と呼ばれたシューベルト。もう一人は、ドレスデンに住む、コントラバス奏者で作曲家のシューベルトです。
もっとも厳密に言えば、二人のファーストネームと苗字は同じですが、ミドルネームが違います。前者は「ベーター」、後者は「アントン」です。
現在有名なのは、言うまでもなく前者の方です。後者の方は、前者と区別するために、フランツの仏語読みである、フランソワ・シューベルトと呼ばれることがあるとのことです(ちなみに彼の子供も、名前はフランソワです)。
ちなみにフランツ・ベーターは、死後ベートーヴェンの隣に埋葬され、後にウィーン中央墓地に改葬された時も、ベートーヴェンの隣に埋葬されました。
さくらもちでした。
[1へのレス] Re: たまにはネタ振り 投稿者:裏辺金好@管理人の片割れ 投稿日:2003/08/20(Wed) 09:20 <HOME>
へえ〜シューベルト2人いたんですか。それは全く知らなかったです。
外人は名前が少ないですが、しかしまさか同姓同名で作曲家とは。
ミドルネームが同じだったら、余計に紛らわしかったですね。
アントン氏の曲って、CDで市販されているんですかね?
ぜひ一度聴いてみたいですね。
いやあ、面白い情報でした。有り難うございます。
[1へのレス] Re: たまにはネタ振り 投稿者:さくらもち 投稿日:2003/08/28(Thu) 03:55
こんばんは、裏辺金好さん。さくらもちです。
フランツ・ペーターの曲は、未完成交響曲を始め多数出ていますが、フランツ・アントンの曲は、少なくともぼくの知る限りでは、出ていないと思います。
話は変わって、二人のシューベルトの逸話を紹介します。
ペーターが「魔王」を作曲した時、友人が「魔王」の手稿を出版社に送ったところ、出版社は「出版に値しない」とボツにしたんですが、この手稿を間違えてアントンの所に送ってしまうのです。
この手稿を見たアントンは激怒しました。
「私の名をかたり、「魔王」などというくだらん曲を書いた奴は誰だ!!」
現在と違い、当時はアントンの方が有名でした。
「魔王」もそうですが、斬新な作品というのは、多くの人が理解することができず、受け入れられるのに時間がかかるものなんでしょうね。
ブルックナーやマーラーの音楽然り、ワーグナーの歌劇も然りです。
アントンのことを、また調べてみたいと思います。
[1へのレス] Re: たまにはネタ振り 投稿者:裏辺金好@管理人の片割れ 投稿日:2003/08/28(Thu) 20:10 <HOME>
ちなみに私はシューベルトの曲はほとんど聴きません(笑)。
歌曲好きじゃないこんで・・・。
当時有名でも、後世にはさほど名前が残らず、
当時有名じゃない方が有名になる例は結構ありますね。
例えば、サリエリとモーツアルト。
サリエリの方が圧倒的に売れっ子でしたが、結果的にモーツアルトが残りました。
それでもサリエリの曲集は出版されていますが。
それからバッハ。
今では音楽の父と言われ、ジャズ界にも信奉者が多い人ですが
彼の没後、ベートーヴェンが発見するまでは無名であり、
しかもベートーヴェン以後はまた忘れ去られ、
その後メンデルスゾーンだったか、ワーグナーだったか
誰かが見つけてようやく一般に広まっていますよね。
そのベートーヴェンも彼が死ぬと一時、イタリア音楽界に取って代わられていますし
シューマンも、奥さんのクララとかブラームスがいないと埋もれていくところでした。
と、色々書いてみて最近音楽家の歴史に関することを全く勉強していないことに気が付く。
よし、これも勉強してみよう。
それにしてもバッハからワーグナーまで(もしくは武光まで)、
クラシックなどと一括りにされますが、
その当時では、若手作曲家の音楽は、今まで全く違う斬新な音楽として
人々に受け入れられ、また拒絶されていたんですねえ。
ところでモーツアルトといえば、もちろん色々な貴族や富豪に作曲したものを献呈して
生活をしていたんですけど、何分、CDやDVDが無い時代。
以前に作曲した曲も、ちょこっと編曲したり
Aという曲の2楽章をBという曲の3楽章にしたりして、曲を売っていたそうです。
なかなかあくどいこと考えますねえ(笑)。
[33] はじめまして 投稿者:蛸壺 投稿日:2003/08/20(Wed) 11:46
新書館の「中国が海を支配したとき」に鄭和がオーストラリアを発見した可能性について指摘していますが、はたして義経=チンギスハーン説とどっこいどっこいなような気もします。実際のところはどうなんですかね?宜しく願いします。
[33へのレス] Re: はじめまして 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/08/20(Wed) 13:09
始めまして蛸壺さん、大黒屋と申します。別に管理人でもなんでもないのですがしょっちゅうここに書き込んでる暇人です。よろしく。
さてお尋ねの鄭和ですが、彼は明初期に活躍した回教徒の宦官で艦隊を率いて東南アジア諸国を明の冊封体制化に収め最終的に東アフリカにまで到達しています。彼がオーストラリアに向かったかどうかについてなのですがわたしとしては可能性は低いと思います。理由は彼がこれだけの大航海を成功させた理由のひとつに彼が回教徒であったことが挙げられます。回教徒であったために彼は当時インド洋を自由に航海したアラビア商人という水先案内人を得ることができました、ですから当然行き先は彼らが活躍したインド、アラビア、東アフリカになります。したがってアラビア商人の取引相手となる国も人もいないオーストラリアには向かわないのではと考えます。また彼の遠征の目的は諸国を明ノ冊封体制化に組み込むことにあり、先ほどと同様の理由で考えにくいと思われます。
あとちょっとしたことなんですが『発見』という表現は使わないほうがいいかと思います。当時にはすでにこの大陸でアボリジニーの人々が暮らしていたわけですし、発見者というのであれば彼らの祖先のことをさすでしょう。同様にアメリカ大陸を発見したのもレイフ=エリクソンでも、コロンブスでも、アメリゴ=ヴェスプッチでも無くグレートジャーニーを成功させたネイティブアメリカンの先祖達ですから。歴史的にそういった人たちの功績について述べるなら○○人初の到達者とするべきだと思います。
[33へのレス] Re: はじめまして 投稿者:裏辺金好@管理人の片割れ 投稿日:2003/08/20(Wed) 14:33 <HOME>
鄭和がオーストラリアねえ。
鄭和に関する記録は、彼の没後随分消却されてしまったので
義経=チンギスハーン説よりは可能性はあるとは思いますが
彼は大黒屋さんが言うように回教徒であり、その縁で西に行っているわけで、わざわざ遠くオーストラリアまで行ったかどうか。
宜しければ、その「中国が海を支配したとき」という本に書かれている内容を教えていただけませんか?
>『発見』
言葉って難しいですが、これについては明らかに使わない方が妥当ですね。
○○人初の到達者か、○○人として初の発見とした方が良いと思うんですが
なかなか改められないですね。
[33へのレス] ありがとうございます 投稿者:蛸壺 投稿日:2003/08/20(Wed) 14:53
>大黒屋介左衛門 さん
>彼がオーストラリアに向かったかどうかについてなのですがわたしとしては可能性は低いと思います。理由は彼がこれだけの大航海を成功させた理由のひとつに彼が回教徒であったことが挙げられます。回教徒であったために彼は当時インド洋を自由に航海したアラビア商人という水先案内人を得ることができました、〜オーストラリアには向かわないのではと考えます。
なるほどやはりそうですか。
>また彼の遠征の目的は諸国を明ノ冊封体制化に組み込むことにあり、先ほどと同様の理由で考えにくいと思われます。
私的に疑問に思ったのはココの部分です。陸続きでもないのに航海能力低い原住民をわざわざ朝貢国にしたてるかということと、人がいるのか以前に島があるとも知れないのに、賢い鄭和がわざわざ危険を冒して何万人もの人を引き連れてゾロゾロ行くのかと?私的には遭難でもしなければオーストラリアに行く事はないんじゃない?と漠然と思いました。
>『発見』という表現は使わないほうがいいかと思います。
この事については最もです。言い訳させてもらえば、出版社まで書いて本の名前を出したから表現原文のまま書いただけです。
そう言えば、人気SF作家の田中芳樹は日本でも誰も信じていない「義経=チンギスハーン説」を全日本人の無知としてぼろ糞に言い罵ってた割りに、安易な推測で「鄭和=オーストラリア到達」を十分在り得る話だと太鼓判押してましたね。まあ彼は中国史至上主義者で中国史以外は全てかすんで見えるようですから仕方ありませんねが(笑)
[33へのレス] ありがとうございます2 投稿者:蛸壺 投稿日:2003/08/20(Wed) 15:17
>裏辺金好@管理人の片割れ さん
>宜しければ、その「中国が海を支配したとき」という本に書かれている内容を教えていただけませんか?
話題振っといて、まことに申し訳ありませんが三、四年前に友人から借りた本で流し読みしたのを今ごろ勇気を出して掲示板に書いた次第で…覚えているのは、私的に一番インパクトの強かった鄭和=オーストラリア、行った?←ぐらいです。本当にすみません。
何も書かないのも何なんで、ネット出版社調べたときに本屋のページで目次と多少のレビューが載ってるので、それをかいつまんで写しと来ます。
レビュー
大航海時代に先立つこと数十年前に、ヨーロッパ艦隊とは比較にならないほどの大艦隊が世界の海を牛耳っていた。中国に出現した鄭和の艦隊の大航海と、蜃気楼のように歴史の舞台から姿を消すまでを描く。
目次
プロローグ 絹を着た怪人
1 海へ騎りゆく人々―「夷人」と航海の伝統
2 儒者vs好寄心―唐から元まで
3 皇子と宦官の友情
4 宝船の誕生
5 めざすはカリカット
6 王国でのvs好奇心きごと―マラッカとセイロン
7 皇帝の使いたち―モンゴル・チベット・朝鮮
8 麒麟、帝都にあらわる
9 紫禁城炎上
10 最後の航海
11 サルタンの花嫁
エピローグ バイジニとよばれた人々
[33へのレス] Re: はじめまして 投稿者:美鈴ちん@岳飛(超無責任管理人) 投稿日:2003/08/20(Wed) 18:02 <HOME>
オイラも鄭和がオーストラリアの存在を明の廷臣として始めて目撃した、と言うのには結構、疑わしい点があるとは思うんですが、
ただ、まったく確証のない事ではないんですよ。
と言うのも、当時、琉球諸国(台湾・沖縄・フィリピン等を含む)
は南の大陸(パプワニューギニア)やミクロネシア諸島と交易をしていた痕跡はあるんですね。
とすると、ニューギニア人経由で大陸の話はある程度、
海の男達には伝わっていたハズなんですよ。
となると、当然、海洋航路学者でもあった鄭和も興味をもたない訳はなく、なるほど、実際に目にしたかはともかくも、
何らかの調査隊は派遣している確率はあるんですね。
だから、現実的に即して言うなら、
明帝国の廷臣では始めてオーストラリアに興味を持ち、調査団を派遣して、見聞を知った人、という肩書きくらいは持っているのかもしれませんね。
田中芳樹>
田中芳樹は自分の願望と知識が混在して執筆する方ですから、
文面を全て真に受けると、襖に書いた饅頭を本物だと錯覚するかの如き結果になりますね。
まぁ、小説家は『嘘吐き』ですから(笑、
話半分で拝聴するのが礼儀なんでしょうね。
中国至上主義>
まぁ、文化は中国と斯波で生まれたと言っても良いですからね。
そう言いたくなるのもわからんではないですが。
[33へのレス] Re: はじめまして 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/08/20(Wed) 18:09
ま、この本の意図するところはともかく、鄭和はオーストラリアに行けるだけの航海能力はあったと思いますよ。でも水先案内人も、海図もなしに数万人を乗せた大艦隊を冒険航海には連れてけないでしょう、コロンブスなんかとは規模がぜんぜん違いますからね〜。
元をはさんで南宋、明初の中国の航海技術は他国に比べずば抜けていたそうです。鄭和艦隊の宝船に関する資料は鄭和没後宦官の党争にまきこまれ大量に破棄され、さらに明は解禁策を取り航海技術が後退の憂き目にさらされます。残された資料には、この宝船、コロンブスのサンタマリア号がスワンボートに見えるようなすさまじいものです。ま、中国の史料にありがちな大げさな誇張はあるでしょうが、どんな船だったかぜひ知りたいものです。ちなみに帆船模型の愛好家の方の中に中国のジャンク船に並々ならぬ興味を持たれている方がいらして、自分なりの解釈を加えた上ではありますが史料に忠実に再現されていました(縮尺がほかの模型よりはるかにでかい)。
南宋の航海技術は国土の多くを異民族に支配されはじき出されるように海に漕ぎ出した中で培われていったもの。追い詰められた中国人民のパワーには恐れ入ります。また、失われた技術というのは考古学を学んだ私にはロマンをかきたたせるものがあり興味がわいてくるんですよね〜。
[33へのレス] Re: はじめまして 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/08/20(Wed) 18:50
解禁策→海禁策でした。失礼しました。
>当時、琉球諸国(台湾・沖縄・フィリピン等を含む)は南の大陸(パプワニューギニア)やミクロネシア諸島と交易をしていた痕跡
知りませんでした。考古資料とかあるんですかね。
[27] はじめまして 投稿者:欠地王 投稿日:2003/08/19(Tue) 22:24
プランタジネット朝のリチャード1世(獅子心王)は男色家?で、家系図などを見ると実子がいませんが、夭折した子供または、庶子や養子などはいなかったんですか?
[27へのレス] Re: はじめまして 投稿者:美鈴ちん@岳飛(超無責任管理人) 投稿日:2003/08/20(Wed) 02:14 <HOME>
系図を見れば周知とは思いますが、
リチャード一世はフランス製のフランス育ちで、
もともと英王国にご縁が深い人では無いんですね。
母様があまりにも強烈だった余波で王になれたと言えなくもないんです。
ま、そこら辺は異論も出そうですが・・・。
そう言う方ですからね、庶子が居ても認知はされません。
もし実施が居て影響が出そうなら、生まれる前に処理されるでしょうし、もともと英国の王座には殆ど座った事もない人ですから、
そもそも余人を国に入れる事も無いでしょう。
そんな訳で、実子が居ないとは言い切れないものの、
決して系譜には載らないんですよ。
[27へのレス] ありがとうございます 投稿者:地欠王 投稿日:2003/08/20(Wed) 15:03
美鈴ちん@岳飛(超無責任管理人)さん
お答えありがとうございます。確かにヨーロッパは庶子への扱いが基本的に酷いですからね。やはり系図には載りませんか。ありがとうございました。
[4] スターリンについて 投稿者:ヒングリ 投稿日:2003/08/15(Fri) 19:42
初めまして。今高校生なのですが宿題でスターリンについて調べることになりました。そこでネットで検索(google,yahoo)してみたのですがまだ分からない事があります。それをここで聞いても良いでしょうか?(もしダメなら削除しますので)
質問
@スターリンが登場した時のソ連の状況
A日ソ関係(スターリンがいたときの)
B神格化とは
Cヒトラーとの関係
ちなみに私は歴史が好きですが、特に三国志・日本の戦国時代が好きです。
[4へのレス] Re: スターリンについて 投稿者:海苔@管理人 投稿日:2003/08/15(Fri) 19:43
私が覚えている範疇で書くと―――
農民出身で、都市部の大学(法学部だったかなぁ)にいって、政治活動し始めて、(この間を忘れているのが致命的ですが)国家元首になった、だったか。
スターリンが元首になった頃のソ連の状況や日ソの関係は私よりも詳しい方がいるのでそちらに流すとして……
神格化に関しては、毛沢東の影響を受けて元首になり、ソ連の工業的改革を目指した結果カリスマ性を民衆から見出されてという流れだったように記憶しています。指摘大歓迎。
ヒトラーとの関係。スターリンの第二次大戦時のスタンスでいえば、ヨーロッパ開戦当初は完全に黙認決め込んでませんでしたっけか。中立宣言もしていた覚えが。
抵抗らしい抵抗といえば、バルマムッサ作戦とかベルリン攻防戦とかぐらいじゃないかなぁ。
とりあえず、固有名詞は間違っていないはずなので、そういったのを使って検索しなおしてみてください。
こんな頼りない管理人の端くれですが、ヒングリさん、今後ともよろしくお願いします。
レス忘れ&age
>それをここで聞いても良いでしょうか?
聞いてばかりで感想を言わないと、気を悪くする人もいたりしますが、今までの流れではそういった事例はありませんね。
ですから、まぁ、節度というものもありますけれど、まずいことやった時に誠意を持って対応できるだけの常識があれば、気がね無く聞いてくださって結構だと私は思いますよ。
>三国志、日本の戦国時代
ああ、私も高校のときそういうの好きでしたよ。江戸時代あたりがウロ覚えになってますが(汗)。
三国志ですが、史実の方ですか、それともフィクションの方ですか?字面だけで判断すると後者のようですが。
あー、レス読み返してると本当に私のレスが役に立ちそうもないですね……。キリスト教・十字軍・吸血鬼伝承・両性具有伝承・時事しか考えてないのが自他共に立証された罠。
ああ、そうそう、裏辺さん、アイコンなんですけど、辺り障り無いの見付けまして、私のサイトで「管理人専用」と書いてある奴を使いたいのですけど、よろしいでしょうか?
よろしければ、サイトの方からイメージ保存してUPしていただきたいのですけど。
[4へのレス] Re: スターリンについて 投稿者:海苔@管理人 投稿日:2003/08/15(Fri) 19:43
どうもです。夏休みと言うことで、ぜひ中学生・高校生の方には歴史共有放送局を大いに活用してください。
そう言うのは特に大歓迎です。
面倒な宿題じゃなくて、楽しい宿題になるように、歴史に興味を持ってくださいね。
ちなみにその辺の話については私が書いておりますので
ぜひ
http://uraken98.cool.ne.jp/rekishi/rekieu.html
をご覧下さい。
>三国志、日本の戦国時代
私も大好きで、今でもたまに本を読むことがあります。
ゲームでも出ているので、この時代が学生の頃には一番なじみやすい分野ですね。
その後、三国志の後の時代だとか、江戸時代に興味は映ってくるようになります。
>アイコンなんですけど
了解です。実家なので思うようにネットに接続できないので夜になりますが、やっておきます。
管理人なのに専用アイコン無くてご免なさいです。
[4へのレス] Re: スターリンについて 投稿者:ヒングリ 投稿日:2003/08/16(Sat) 22:46
皆さんありがとうございます。
三国志は演義の方です。(PSのソフト有り)
今親の田舎から帰ってきたばかりで管理人さんのリンクを見れませんが数日中にでも見てレポートを完成させたいと思っています。
[4へのレス] Re: スターリンについて 投稿者:美鈴ちん@岳飛(超無責任管理人) 投稿日:2003/08/17(Sun) 23:21 <HOME>
スターリンはレーニンの教え子の1人ですね。
革命を経て倒閣をあらわします。
この人は奇妙にヒトラーなどと符号点がある人としても知られてますね。
元首になるまでの道のりには結構な胡散臭い風聞も聞かれますが、
とりあえずは、あの当時ロシアで一番マトモで熱心で有能な革命指導者だったのは確かなので、人選ミスと言う事はないですね。
スターリンが登極した当初のロシアはまだ、完全なソヴィエト組織を形成しているとは言えず、レーニン個人の才幹と人望に対して民衆が賛同し、軍隊が支持していたと言うのが現状ですから、
ここら辺は社会主義といえど、他の政体の初期段階と余り変わりませんね。だから、いつでも帝政に戻る可能性は有ったし、民主共和制に転向する確率もありました。
その結果、政治委員会なんかが生まれたりもするわけですが。
スターリンの神格化は、なるべくして行われた政治的作業ともいえます。
前述の通り、スターリンには支持母体となる力は余りに小さく、
比例して、前任者の影響は巨大に過ぎました。
従って、自らを神格化するに至らない限りは、
この生まれて未熟なる組織を維持する事は適わないと考えたわけです。
その為にスターリンには敵が必要でした。
敵を撃破し、祖国を守り、国民に利を与え、支持を取り付けつつ、
自らを絶対の指導者とする認識を刷り込ませる必要が不可欠だったのです。
ww2当初、スターリンはドイツと日本と不可侵条約を交わしますが、これはまだ、本格的に戦力をまとめる事が出来なかったからです。ソヴィエト軍は他民族であり、仕官ですら、共通語を完全理解できる者が少なかったのが現状なのです。
そうした軍隊は事実上の烏合であり、
破竹のドイツや日本と交戦しても勝てる見込みは低く、
また、国民感情的に戦争に倦んでいたわけですから、
開戦はよろしくない。
よって、不可侵条約を結ぶ事に益があったのです。
どのみち、ドイツとは東欧の利権で戦争をする事になるのは間違いないわけですし、そもそもスラブとゲルマンの諍いは今に始まったことではない、という観点から、
ドイツに襲わせるという大義名分は必要だったのかもしれませんね。
他方日本とは、モンゴルでノモンハン事件を起こしているわけで、
事情は似たようなことろがありました。
日露で得られなかった利権の問題もありますから、
やはり戦争は避けられない。
ただ、ドイツと日本を同時に相手をすると、
二正面作戦を強いられ、大変宜しくない。
先にどちらかを潰した上で、残りを潰す事にしたわけです。
無論、戦争を始めているイギリスやアメリカに恩を売りつけた上で。
こうした思惑が戦争開始直前のソヴィエトの基本国策です。
ヒトラーとスターリンは同じ性格である故に、油と油で相容れず、
元々の民族の諍いがありますから、
戦争開始を前提とした外交が行われた訳ですね。
と、そんな感じです。
演義>
日本には演義が好きな人が多いんですよ。
最初、正史は伝わらなかったので・・・
しかも、諸葛公明がヒーローな書かれ方しているので、
ウケが良いんですね。
日本人に馴染むというか。
機会があったら、正史をお読みになり、描写を見比べていただけると面白いですよ。
あと、中国ではポピュラーな通俗三国志系もいいですね。
関羽が呂不をブッたぎっていたりしますからね。
笑えるのは秦叔宝と関羽の一騎打ちかな。
日本史>
江戸時代が一番、勉強が楽だとおもうのはオイラだけだろうか。。。
[3] お詫び 投稿者:裏辺金好@管理人の片割れ 投稿日:2003/08/15(Fri) 19:40 <HOME>
よく解りませんが、掲示板がちと無無無な状態になってしまいましたので
結局このような形に復旧させて頂きました。
これまでの投稿は、無無無ですが
http://uraken98.cool.ne.jp/yybbs/yybbs.cgi
にありますので
宜しければ、どなたか記事を移転して頂けると大変助かります。
ADSL環境でないのが本当に痛い・・。
[3へのレス] ご苦労様です 投稿者:海苔@緊急時以外不役立管理人 投稿日:2003/08/15(Fri) 19:52 <HOME>
了解しました。記事の移転ですが、まぁ、急ぐ必要も無いように思えます。私もちとこの週末はたてこんでますので、無理かと……。
なんにせよ、帰省の間ぐらいはのんびりしていてください。ぼちぼちとやってきましょう。
[3へのレス] Re: お詫び 投稿者:海苔@緊急時以外不役立管理人 投稿日:2003/08/15(Fri) 19:54 <HOME>
というか、私の記憶だと、YYBBSのCGIログはhtmlのソースにすると、html上で違和感無く再現できた覚えが……。
過去ログ化していないものに関してならば、先ほど書いた通りでいきましょう。でわ
[3へのレス] あ、あれ? 投稿者:美鈴ちん@岳飛(超無責任管理人) 投稿日:2003/08/17(Sun) 01:09 <HOME>
オイラのアイコンないぞ・・・・
もしかして、無責任過ぎて管理人免職でつか?
了解しましたぁ。
[3へのレス] ぎゃあ 投稿者:裏辺金好@管理人の片割れ 投稿日:2003/08/17(Sun) 10:49 <HOME>
ごめんなさい、了解しないでください!
アイコンアップしておりましたが、「使用」マークにチェック入れていませんでした。
・・おかしいなあ・・。
[3へのレス] Re: お詫び 投稿者:美鈴ちん@岳飛(超無責任管理人) 投稿日:2003/08/17(Sun) 22:48 <HOME>
あい、了承。