[357] 初めまして、こんにちは♪ 投稿者:JACK 投稿日:2003/12/11(Thu) 17:30
どうも歴史を将来専攻しようと試みているJACKと申す者です。好きな歴史上の人物は三国志なら劉邦、アメリカ合衆国ならリンカーン、日本なら当然伊達政宗と片倉子十郎です。
というか画像イメージに長宗部元親(確か四国の戦国大名で愛媛出身だったと思う)がいるとは・・・驚きと嬉しさ十分です。
そこでご質問があるのですが宜しいのでしょうか?
実は某州の短大に通っていて、アメリカの歴史について詳しい情報が欲しいのです。アラモの砦でメキシコ軍と戦った歴史上の人物について誰かご存知の方、レスお願いします。
それでは今後とも宜しくっス(^^

[357へのレス] Re: 初めまして、こんにちは♪ 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/12/11(Thu) 18:17 <HOME>
どうも初めまして。某州の短大ということはアメリカ在住ですか?
さて、アラモの砦の闘いですが・・。
メキシコ側はサンタ・アナ将軍ですが、「メキシコ軍と戦った・・」ということは、テキサス軍を指揮した方ですよね。

となると、ジム・ボウイ、J・B・トラビス大佐、デービー・クロケット大佐、となるのでしょうか。

このうち、クロケットについて書いておきますと本名はデービッド・クロケット。テネシー州グリーン郡の出身で、青年時代は開拓者として辺境の森林で狩猟をしてすごします。

1813年、ジャクソン将軍(のち第7代大統領)の指揮下でアメリカ先住民クリーク族との戦争に参加し、これがきっかけで政治への道を志します。

そして、21年にテネシー州議会議員に当選し(〜25年)、27年には連邦下院議員へ。31年の選挙で落選し、33年に再び議会へ。しかし、35年には再び落選し、テキサスへ向かいます。

このころ、メキシコの辺境であったテキサスにはアメリカからの移民が急増し、独立の動きがありました。クロケットもこれに参加します。そして、サンアントニオのアラモ砦にいたところ、メキシコのサンタ・アナ将軍が侵攻。わずか185人の守備隊でしたが(どこまで含めるかによって、数字は異なります)、7000人のメキシコ軍相手に奮戦。しかし、守備隊は全滅。クロケットも戦死しました。

死後は、主にホイッグ党が彼を英雄として利用し、クロケットの名前で、数多くの本が出版されました。今でも、愛国を訴える勢力には、利用されているようで、1960年には映画にもなっています。これは、アメリカの正義が主題ですが、一方で、サンタ・アナ将軍率いるメキシコ軍も、夜襲はしない、非戦闘員は一切殺さないなど、正々堂々と戦ったとして描かれているとか。

あと、長宗我部元親は、土佐の戦国大名ですね。4文字の名字とは本当に珍しい・・・。

[357へのレス] Re: 初めまして、こんにちは♪ 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/12/11(Thu) 20:07
アメリカ史はちょっとわからないので、長宗我部家についてレス。

長宗我部元親は岡豊城主国親の嫡男として生まれます。
幼名は弥三郎、色白でおとなしく家臣からは『姫若子』と馬鹿にされていたそうです。
長宗我部家は国親六歳のときに国親の父と居城を失いますが、公家大名一条氏の庇護下で旧領を復帰。その後「一領具足」の創始などを経て勢力を拡大、土佐の大部分を支配します。
元親も22歳で遅れながら初陣を終えます。これは当時としては非常に遅いようです。しかしながら、その後はまるで人が変わったように活躍し、国親が急死して家督を継いだ後も順調に支配地を広げます。かつての『姫若子』はどこへやらといったところでしょうか?
そうして、四国の大部分を統一するのですが、時はすでに遅く、豊臣家に降伏し、再び土佐一国の大名に戻ってしまいます。さらに期待していた嫡男信親を失っていたこともあり、元親は暴君と化します。そうして1599年死亡。
その後も長宗我部家は没落を続けます。家督は4男盛親が継いでいましたが、関が原、大坂の陣を経て長宗我部家はとりつぶしとなります。

土佐はその後内助の功で有名な山内家の領地になります。
土佐は武士身分の中でも上士、郷士で厳しく身分が分かれますが、これはもともとは山内家の譜代の家臣、長宗我部家の家臣の違いですね。郷士は一領具足の末裔ということになります(厳密には多少の違いもあるでしょうけど)。

一領具足というのは名主クラスの有力農民を組織化したもので、兵農兼業組織といったところ、屯田兵に近いかな?
有事には甲冑をまとい、被官を引き連れて馳せ参じた家臣のことだそうです。

[357へのレス] Re: 初めまして、こんにちは♪ 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2003/12/12(Fri) 00:42 <HOME>
長宗我部家はもともと宗我部家という家で、
それが分立して香宗我部家と長宗我部家に分かれます。

国親が当主となる過程は、
多少、九州の龍造寺隆信と似ている部分がありますね。

一領具足の制度に近いモノは全国に沢山ありまして、
代表的なのが、土佐一領具足と、
肥前鍋島の手明槍制度ですね。
手明槍制度は、
物成50石以下の武士の知行を召し上げて、
一律、切米15石で支給した制度です。

これらは、半農半士ではなくて、歴とした武士です。
一領具足も歴とした武士です。

これらの制度は、知行地の切り詰めの為に実施されています。

アメリカのメキシコ戦争での登場人物については、
オイラも裏辺さんがレスした程度しか知りません。

余談だとこのデービー・クロケット大佐は、
アメリカ先住民と深い親交があったとか。
先住民の立場を確保する為に軍組織からは、異端視されていたみたいですね。

このアラモの戦闘を契機に掲げられたスローガンが、
リメンバー・アラモ・・・・

百年くらいあとに同じ様な事をどっかの国に対しても、
言ってますね。

[357へのレス] Re: 初めまして、こんにちは♪ 投稿者:JACK 投稿日:2003/12/12(Fri) 04:10
裏辺金好@管理人さん、美鈴ちん@岳飛@無責任管理人さん>おおっ沢山の貴重な情報、本当にありがとうございまっス。そうか昔誰か冒険家だった人はクロケット大佐だったのか・・・・かなり謎が解けました。サンタ・アナ将軍が正々堂々と戦ったことは初耳ですね。ホストの話だと何百人も死んだことは知っていましたが。それとクロケットが先住民族とも親交があったことは全く知らなかったです。
大黒屋介左衛門さん>どうも長宗我部元親の情報を丁寧に教えていただき、感謝しまっス。元親の父親って幼年時代に武勇伝があって、よく「姫若」と比較されたとか。初陣の時に元親が真価を発揮したと某歴史本で読んだ事はありますがそれって弓矢での戦いで元親が弓の才能があったという事でしょうか?また宜しければ教えて欲しいっス。
皆さんへ>あとホストからテリー・ルーズベルトについて少し話を覚えているんですがキューバかスペイン軍のどっちかとパナマ運河に置いて自ら戦場へ飛び込むほど勇敢な大統領だったと聞きましたが本当にそんな事が起きたのでしょうか?

[357へのレス] Re: 初めまして、こんにちは♪ 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/12/12(Fri) 08:14
元親が初陣で真価を発揮したというのはそれまでの素行との因果関係によるものと思われます。前述のとおり元親は戦国大名家の嫡男にありながら、まるで女の子のような(セクハラ発言ですが戦国時代のことです)頼りない一面があったみたいなんですね、『姫若子』とはそんな意味です。「勇猛果敢な一領具足の頭目がこんなで大丈夫か?」と国親はやきもきしたでしょうな・・。かといって次男親貞は吉良家に、三男親泰は香宗我部家に行っていたわけです。
でも、実際はどうだったのか?急死した国親のあとを継いだときに弟たちと家督争いがあったわけでもなさそうだし(むしろ二人とも元親をよく支えています)、そんなに頼りないなら廃嫡しててもおかしくはないですからね〜。初陣の際の活躍はそれだけのインパクトを伴うものだったということでしょうか・・。

>国親の武勇伝
はて?
一条家の庇護下にあった際に、「高楼から飛び降りたら家を再興してやる」といわれ本当に飛び降りたとか言うやつかな?

[357へのレス] Re: 初めまして、こんにちは♪ 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2003/12/13(Sat) 19:14 <HOME>
姫若子>
なんとなく、これは世代交代を上手く行かせるための、
国親、元親親子の演出という気もしますね。
というのも、国親は一度、一族滅亡の憂き目にあっていて、
後継者がしばらくは凡庸を装っていてくれていた方が、
国親存命中は余計な波乱が発生しにくいんですね。

これが親も子も才能があると、
どうしても家臣団が分裂し、
国親派と元親派に分かれてしまい、
他国からの干渉をもろに喰らう事に成りかねません。
だから、国親が死期を悟るまでは、初陣をさせる気も無かったのでしょう。
このような形で初陣で華々しい戦果を挙げれば、
まず家臣の見る目が必然的に変わります。

あまり才能があると、家臣も『当然』という目で見ますから、
戦果の一つ二つでは、見る目はそれ以上変わらない。
でも、凡庸の豹変は、つまり、表裏の顔、と言う事で、
これはとても恐ろしい事なんです。
だから家臣の心に慄然とした畏怖と共に、
戦上手に対する信頼感を取り付ける事が容易になります。

このような観点から、これは演出だったのではないか、
と思うんですね。

高楼から〜>
これは飛び降りた国親以上に、
約束を守りきった一条兼房を評価したい逸話ですね。

幼少の武勇伝というのは、恐らく対国人衆連合を巧みな策略で片っ端から各個撃破して行って、豊岡をついに回復した事でしょう。

弓矢での戦いで元親が弓の才能があったという事でしょうか?>
この頃には既に弓矢の戦い所謂、
矢戦(やいくさ)は殆ど衰亡してますね。

これは応仁の乱で、矢戦から軽装歩兵(所謂、足軽)による、
直接戦闘が主流になってしまったからです。


[357へのレス] Re: 初めまして、こんにちは♪ 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2003/12/13(Sat) 19:36 <HOME>
テリー・ルーズベルトと言うのは・・・・
テディ(Teddy)・セオドアの事ですよね?
だとしたらセオドアの愛称に因んでいるので、
テリーじゃなくて、テディですね。

この人は海軍次官の出身なんですね。
で、文民でありながらやたらと海軍に肩入れし、
海軍によるアメリカの植民地増産計画を発案してます。
ただ、軍歴や軍人としての実績が無いので、やきもきしていたんでしょうね。
1898年にアメリカ・スペイン戦争が勃発すると、
次官を辞職した後、義勇隊『Rough Riders(じゃじゃうま連隊)』を率いて、参加します。

キューバの地、サンフアン・ヒルで行われた、
所謂、サンフアン・ヒル会戦で大戦果を挙げて、
ようやく、武人としての箔を付け、
さらに国民的ヒーローになってしまいます(プロパガンダ)。

この結果、
同じ年に行われたニューヨーク知事選挙に圧勝。
2年後の大統領選挙も勝利します。

[357へのレス] Re: 初めまして、こんにちは♪ 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/12/13(Sat) 22:07
>演出
非常に面白い意見だと思います。
あえて、反論させていただくと、嫡男が無能を装うと今度は家臣団の期待が弟たちのほうに向かうのではないかということです。国親派、元親派の分裂は避けられても、元親派、親貞派、親泰派の分裂の危険です。似た例としては織田家の例が挙げれると思います、信長派、信行派の。とはいえ国親急死時点ですでに3男親泰は香宗我部家に養子に行ってますが、それでも次男親貞とは2歳違い。

もしこれが演出だとすると、国親、元親のふたりだけでなく、ふたりの弟、おそらくは一部の重臣も含めた壮大な演出ということになるのではないでしょうか?
でもま〜、結局は長宗我部家は崩壊までは行かなかったわけですから演出は大成功していますね。元親の人心掌握術も評価できると思います。

>一条家
手持ちの史料だと国親を引き取ったのは房家になってますが同一人物でしょうか?

ともかくも、これは一条家にとっては家臣の内部対立ぐらいにしか感じていなかったのではと思います。国親の父兼序を討った本山家が勢力を伸ばすことに対するけん制もあったでしょう。また国親に対し恩を売ることで忠実な家臣になることを期待したとも取れると思います。
結局は国親は房家の予想をはるかに上回る勢力を得、さらに一条家の勢力を上回る勢力に成長したときはすでに遅く、安芸家との連合によって対立したときにはとうとう自家をほろぼすことになるのですが・・。


[357へのレス] Re: 初めまして、こんにちは♪ 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2003/12/13(Sat) 22:54 <HOME>
ご意見ありがとうございます。

そうですね、でもこの場合、
兄弟相克は考慮しなくても良いのです。
と言うのも、兄やその弟の家臣同士は、
もともと非協力的なのが常でして、
隙があれば潰し合うのは日常的なんですね。
でも、それは弱肉強食の論理に適う事で、戦国の跡継ぎの決め手としては、ある意味妥当な形です。

しかしながら、この場合、国親は跡継ぎを元親と早い段階で決めています。

織田家が信長派と信行派で分裂した経緯は、
まず、信長が嫡男であっても、長男ではなかった事。
信長や信行の御生母は、どこまでも信行についた事。
そして、奉行時代からの家臣派と新規召し抱えの家臣との抗争。
さらに清洲・岩倉・犬山・守山をはじめとした、本家や諸織田家の介入があり、分裂構造はより明確になったんですね。

所が長宗我部家の場合、
その対立構造に至る要素の多くが無いのです。
あるとすれば、周辺の国人と一条家の存在くらいですね。
しかし、一条家が国親を恐れてもその息子が凡庸なら、
安心したでしょうし、他国の国人も元親が当主になってからでも、
充分につけ込める隙が生じる算段をしたはずです。

そうなると、問題は家臣内部。
それも、兄弟の家臣の対立ですね。
ただ、この問題は、兄弟がどれだけお互いの本質を理解するか、
で成り立ちます。
なるほど、そうなると、あの国親が何故、凡庸な兄を嫡子としているのか、という疑問は持てるはずです。
持てない程度の理解力なら、それでその弟以下家臣団は、
もともと継ぐべき資格はないでしょう。
国親がそのような兄弟相克を望んでいたとは思いませんが、
しかし、計算に入れていない事も無いでしょう。
もし、頭の悪い家臣とそれに担がれる親貞、親泰はそれまで、
という事ですし、それに元親が破れるならば、
自分の見立ては間違っていたという程度の事でしょう。
国親は間違いなく「いくさ人」ですから、
この辺りはかなりシビアなはずです。

しかし、仮に自分と元親が争う場合は、話は別です。
というのも、自分に従う家臣団はいわば、世継ぎに残すべき家臣団であり、それが世継ぎと戦うと、いづれが勝っても負けても後々の禍根となる恐れがあります。

これは兄弟分裂以上の恐ろしさです。

ただ、先達の家臣は若輩の若殿を見くびりますし、
若輩の若殿は先達をうるさく思うのも常ですから、
ここに楔が必要なわけで、
そのような意味でも、この演出劇は意味があるのではないかと、
思うのです。

無論、親貞派、親泰派の家臣たちにも良い牽制となるでしょう。

一条兼房>
すみません、兼房は別人です。
この人は元親と争って家臣にぶっ殺された人です。

[357へのレス] Re: 初めまして、こんにちは♪ 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/12/14(Sun) 01:18
なるほど〜。

ともあれこの家督相続に際し重要なのはやはり重臣の意向ですな。
兄弟それぞれにどのような重臣が後見していたか?

次男親貞は私にはよくわかりません。そもそもこの家督相続時点で家臣団と呼べるほどのものがあったのか?彼は吉良家をついでいますがそれは元親の家督相続後のはずです。

三男親泰はこの時点ですでに香宗我部家に入ってますが確か15,6歳のはず。なによりこの香宗我部家は国親に恐れをなしてすでに入っていた養子を殺害してまで親泰を迎えていますから問題は長宗我部家内部ということになりますな〜。

では、元親の後見は誰だったか?
私は吉田孝頼という人物に着目します。
彼は「一領具足」の考案者とも目されている人物だそうで家臣団の中でも一目置かれる存在だったはずです、ちなみに国親より十歳ほど年長ですが国親の妹を娶っています。そんな彼が元親の後見ならば家臣団の結束は固くなったのではと思います。華々しい成果を初陣で上げ、それを一族の宿老が後見したのなら、この元親の変身を理解できるのではと考えます。

そして孝頼が世を去るのは元親の相続の三年後ですから疎ましく思われる前のちょうどよい頃合ではなかったでしょうか?


・・・JACKさん、話の本筋からそれてすいません。

[357へのレス] Re: 初めまして、こんにちは♪ 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2003/12/14(Sun) 22:05 <HOME>
そうですね、重臣の意向は重要ですね。

そうなると、家中でもっとも高名な吉田一族の意向はさらに重要になりますね。
なるほど、吉田高頼が後見人かぁ。

そう言えば、元親の母様は美濃斉藤の娘なんですよね。
ここら辺の兼ね合いも気になります。
というのも、どうやら元親の家臣として明智家の様な美濃出身や本州出身の家臣が早い段階で居るんですよね。

弟達の動向>
親貞ですが、守役を筆頭に股肱の家臣はいますし、また彼らの下にも家臣は居たはずですから、少数ながらも家臣団は存在していたでしょう。
ただ、親貞の場合がどうも、早い段階での元親の最大の家臣という気がするんですよね。

[357へのレス] Re: 初めまして、こんにちは♪ 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/12/15(Mon) 00:37
>後見人
孝頼が元親の後見というのはなんら史料に基づかない私の勝手な妄想ですんで・・。

>本州出身者
四国と本州の人の行き来を考える必要がありますな〜。
一条家の祖は自身が関白の位にあってなお、土佐に下向しています。その本拠地土佐中村は碁盤の目に整理され「小京都」の趣のある町並みだったそうです(もっとも、よく四万十川の氾濫に流されたそうですが)。そして歴代一条家当主は京とのつながりを絶やすことなく朝廷の高位高官についていることから、結構活発な往来があったのではないでしょうか?

国親はそんな一条家で幼少期を過ごしていますから、嫡男の将来の家臣に中央とのつながりのある人物をつけようとするのも想像に難くありません。

また商人の町須崎の存在や、隣国阿波、讃岐の大名細川氏ないし、三好氏は畿内に本拠地がありますから。

>親貞
兄の覇業を助ける血の分けた、年齢の近い弟。
勢力がある程度を越えると、それが血で血を争う抗争の素になるのはよくあることですな。幸か不幸か親貞はそうなる前に急逝しますが・・。

[372] フィナ殿 投稿者:SABANNA 投稿日:2003/12/14(Sun) 14:49
フィナ殿。
せっしゃは御主を気に入った。
イタリア ローマを気にいっとるようじゃのう。せっしゃは、最近までローマに住んでいた。
せっしゃの近くに歴史に詳しい人がいる。その人に、いろいろ聞いてフィナ殿が知らないことを教えよう。
だから、質問をどんどんしてくれー

[363] スエズ運河で 投稿者:JACK 投稿日:2003/12/12(Fri) 04:27
確か最初にナポレオンがフランス軍を率いて運河を確保し、
その後エジプトの手に渡り、今度はイギリス政府に売り、
今日七つの海を支配した大英帝国の基礎となったと小学校の時に図書館から借りた某歴史漫画からちょっこと学んだのですが記憶が間違っていたらごめんなさい。
もし誰か正確な金額を知っていたら是非レスお願いしまっス
。あと俺はカルフォルニア州在住ですが全然大した奴ではありません(^^これからも気軽に歴史のことで皆さんと盛り上がっていきたいっス。

[363へのレス] Re: スエズ運河で 投稿者:JACK 投稿日:2003/12/12(Fri) 04:36
下のスレで、三国志なら劉備元徳、四面楚歌で有名な項羽と戦った劉邦が好きっス。間違えてしまい、お恥ずかしいっス。

[352] 主役と脇役 投稿者:明倫北斗 投稿日:2003/12/09(Tue) 23:53
ごめんなさい。
私、特別に難しいことを書いた積りはないのです。
この投稿の原点になっているのは、NHKスペシャルの「文明の道}
なのです。
私たちが中央アジアの歴史を知ろうとすると、どうしても文献頼りと
なり、中国資料が基となるのが普通なのです。
とこらがこのNHK特別スペシャルは、これは私の錯覚かもしれませんが、西側(ギリシャ、ペルシャ ローマ)から見た、中央アジア史が
主題となっておるような気持ちがいたします。
まあ題名からいっても「アレキサンドロスの時代」
「ヘレニズムと仏教」ら、当然に西側から見る中央アジア史は、
当たり前かもしれません。
それにしてもこれを放映、また本にした「区別プロジェクトチーム」
すこし強引、独断的な所があるかもしれませんが、従来の中央アジア
史とは、ちょっと毛色のかわった歴史観察をしているように
思えるのです。
だが、これは私だけの感想ですから、断言はできません。
しかし常に中国資料しか知らない、私にとってはとても面白かった
だからこの投稿文はNHKスペシャルの焼き直でしかありません。
ただ内容のパクリになってはいけませんから、意識して内容点を
すこしズラし、私の空想も加えた為に、説明がくどくなり、
「ちんぷんかんぷんの独白文?」となりました。
作文能力の欠如を本当に恥ております。
また管理人さまに、ご不快な念を抱かせたことをお詫びします。
どうか恥かしい文、削除のほどお願いいたします。
もっともっと、皆さまと中央アジアの歴史について、お話しをした
かったのですが、私、勉強不足です。残念ながら退場いたします。
また勉強をしなおしてから、再度、お世話になります。
本当にお騒せいたしました。


[352へのレス] Re: 主役と脇役 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/12/10(Wed) 00:25 <HOME>
いや、勉強不足なのはむしろこちらなのですが、いきなり中央アジア史について語られたので、私たちに、どのようなレスを求めていらっしゃるのかが解らなかったのです。

また、今までの文にもレスをしていた人もいるのに、放置してあったので、「書き逃げか?」というような気に・・・。

初めから、きちんと「文明の道」をみて・・。
と書きだして頂ければ、理解できたのでありますよ。
なお、繰り返しになりますが、当サイトではHPを持たない人でも、
掲示板への投稿を文書化して、歴史共有放送局オリジナルコンテンツとして掲載することも可能なので、ぜひ、そちらの方もお考え下さいませ。

さて、NHKの歴史物ですが、文明の道に限らず、結構強引な切り込み方だったりすることは多いですね。
そこが面白くもあるのですが、さすがはNHK。非常に説得力があるので、それが通説であるように思えてしまうところが、ちょっと怖いところでもあります。

[352へのレス] Re: 主役と脇役 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2003/12/10(Wed) 03:29 <HOME>
一回で終わりそうにない書き込みでしたので、
あまりレスらなかったのですが・・・・・。

というか、一回目の書き込みでレスしたら板そのものが混乱しそうだったというか・・・・。


[335] 主役と脇役 投稿者:明倫北斗 投稿日:2003/12/08(Mon) 01:14
アケメネス朝ペルシャの遺跡、ペルセポリスの謁見の間の石階段の壁面
に大きな浮彫と碑文が刻まれており、ダレイオス大王に隷属した国々や
民族が記されております。
私は前回のレスにて、シル・ダリア北方の地は、大王朝が如何としても
制圧できなかった剽悍なる遊牧民の土地と書きましたが、実はアケメネ
ス朝のダレイオス大王の時に、武力ではなくその政治力により、これら
の遊牧民を帰属させたことがあるのです。
シル川の北方、ベトバクタラ草原からタラス川、フェルナガ地方を含む
一帯のサカ族が、アケメネス朝ペルシャの国民となったのです。
ナ・クシュイ・ロスタム碑文によれば、ここでサカ族は第15州の
(サトラップ)に組み入れられ、三種類のサカが紹介されている
 1 サカ・ティグラ・ハウダー(とんがり帽子のサカ)
 2 サカ・チヤイパラ・ダラヤー(海の向こうのサカ)
 3 サカ・ハウナ・ヴァルガー(ハウマ酒をつくるサカ)
        となっております。
彼らは前480年のペルシャ戦争では、クセルクセス1世に従軍して
ギリシャに遠征、スパルタ軍7000人が全滅した、テルモピライの
戦いにも参加、さらにアテネ市を攻略し、これを焼き払う際しては
その得意な騎馬戦術を展開したといわれております。
はて? これら三部族の故地はと言えば
サカ・ハウマ・ヴァルガーは、アルサケス朝パルチアの前身が、イランヒルカニア地方出身のダーバ系パルノイ族であり、このパルノイ族が
ペルセポリスのクセルクセスの国民リストのハウマ・ヴァルガーの前に登場していることから、
このハウマ・ヴァルガーは、ヒルカニア地方の奥地、今で言えば、
アラル海東岸のトウラン低地の草原を根拠地とした遊牧民であろうと
言われております。
サカ・ティグラ・ハウダーは、その順番からいけば、タラス川周辺の
ペトパクタラ草原と想定されております。
サカ・チャイバラ・ダラヤーは不明ということです
まあ、私なりにいい加減に想像するならば、海の向こうのサカですからアラル海北岸の地あたりかな?

天山山脈のイシククリ湖、この北方のアルマアタ市、その東方50キロイシック川周辺にて、1978年に発見された、イシック・クルガン
(高塚式古墳)に埋葬されていた黄金人間(全身が黄金で飾る)は、
ユーロポイド(白人アーリア)であり、その頭には、先の尖った
(ティグラ)帽子(ハウダー)をかぶっていた。
これを発掘したロシアの考古学者のアキシエフは
これこそペルシャ、ベビストウン碑文にあるティグラ・ハウダーだ! 
と断定したといわれています。
埋葬の年代は前5世紀上半期であり、まさしくクセルクセス1世に
従い、ギリシャ遠征に参加した御本人が、このアジアの一隅に葬られて
いるかもしれない?と思うだけで歴史はとてもロマンを感じますね

先の私の康居のレスについてですが、
ホラズム調査隊を組織してこの地方を調査した、ロシアの学者のトルス
トフは、前4世紀〜後1世紀の古代文化ホラズム国家を建てたのは
康居と想定しています。そしてこの康居をスキタイであると
勿論、歴史の仮説ですから、ロシア国内にもこの意見に異論はある。
だが、康居を前4世紀以前の部族と認定したことは、とても面白い
もはや漢書の資料がまるで通用しないからだ。

私も『史記』大宛伝の張騫の言葉は、ある程度に割り引きして聞かねば
ならぬ思っております。後世にこれほどの歴史的事実がありながら、
彼は大月氏の王庭にも行きながら、サカ族という名称を武帝に報告して
いないのです。
手抜きをしたのではなく、サカという名称を知らなかったのでしよう
サカ族という名称が登場するのは『後漢書』の西域都護の斑超による
「塞 ソク?」からです。
つまり張騫は康居がサカであり、歴史の表舞台に登場するがごとく
ギリシャ遠征にまで参軍した主演役者であることを、ただ知らな
かったのではないでしようか?
康居をとんがり帽子のスキタイ、サカ・ティグラ・ハウダーと
仮説すれば、これは仮の話しではありますが、
この部族の首長が、己の領域たるタラス川から目と鼻の先にある
イシック・クルガンに埋葬されることは、すこしも不思議なことでは
ないのです。
中国河西回廊の近く、祁連山の麓よりトルコマンが、延々タリム盆地を
踏破し、天山の山々を越え、カザフ草原を横切って、やっとシル川に
至ったことを思えばね。

[335へのレス] Re: 主役と脇役 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/12/08(Mon) 22:20 <HOME>
失礼ながら、ここに投稿するよりも自分でHPを作った方がよいのではないでしょうか。
このような投稿では、ここの掲示板に何を求めているのかが解りません。
あと、「レス」ではなく「スレ」ですね。

[335へのレス] Re: 主役と脇役 投稿者:蕭月(しょうげつ) 投稿日:2003/12/09(Tue) 00:13
明倫北斗さんが書かれている内容自体は、非常に真面目なものなので、書き込みされるのは別にいいと思うんですが、周りには「ただ独白しているだけ」という風に見えますね。
(別に、それが悪いと言っているのではないです)

以下、余計なお世話かもしれませんが、ネット用語解説

スレ・・・スレッドの略。話題のまとまりを指す。
レス・・・返信。

[335へのレス] Re: 主役と脇役 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/12/09(Tue) 00:43
この内容を理解するには最低『史記』、『漢書』、ストラボン『地理誌』は頭に入ってないと理解できない・・。ちなみに私はそんなに頭にはいってないので理解度は10%以下。

中央アジア史は取り扱っているところも少ないし、はっきり言って日本ではマイナー・・。これだけの知識をお持ちで、もし、ご自分でHPを立ち上げられれば、きっとこのへんを専門的に研究している方々には重宝されるのではないでしょうか?



[335へのレス] Re: 主役と脇役 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/12/09(Tue) 00:48 <HOME>
書かれていること自体は凄いんですよね。
その見識には本当に感服していますし、なかなか勉強になりますが・・。
(で、あるから削除はしていないのです)
ここは、歴史のお話をして盛り上がる掲示板なので、独白だと、ちょ〜っと困るのです。

で、このHPではHPの無い人に、歴史共有放送局オリジナルコンテンツとして、
投稿することが可能になっていますので、そっちの制度のご活用もお考え下さい。
その際には、初心者にも解りやすく、もう少し解説も加えて・・・(笑)。

[335へのレス] Re: 主役と脇役 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2003/12/09(Tue) 10:23 <HOME>
>康居がサカであり、歴史の表舞台に登場するがごとく
ギリシャ遠征にまで参軍した主演役者であることを、ただ知らな
かったのではないでしようか?
康居をとんがり帽子のスキタイ、サカ・ティグラ・ハウダーと
仮説すれば、これは仮の話しではありますが、
この部族の首長が、己の領域たるタラス川から目と鼻の先にある
イシック・クルガンに埋葬されることは、すこしも不思議なことではないのです。

知らなかったのではなくて、
故意に無視をした可能性はありますよ。
少なくとも中華帝国からみた彼らはどこまでも一辺境の被支配異民族という感覚でしょうから、
それが縦横無尽の活躍をしたとしても、
残念ながらそれを有機的にまとめた人間の総合評価力として、
採点してしまう可能性は有るんですよ。

つまり、記録を書き残したのが中華民族であり、
白人ですから、どこまでも彼らを中心とし、
彼らを上位に置いた形で、書き残しているのはやむおえざる事だと思うんですね。


[327] (No Subject) 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/12/06(Sat) 23:38
昨今ニュースで秀吉の実子秀勝の実在が確認されたと報じられたのですが・・。

長浜城主時代に生まれ、5歳で夭逝したといわれるようですが、この秀勝の生母って誰なんですか?北政所?

[327へのレス] Re: (No Subject) 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/12/06(Sat) 23:53 <HOME>
ワタクシの記憶が正しければ、侍女というか、お風呂で秀吉の背中を流す女性だったはずです。
北政所さんは可哀想に、どうも子供を産めない体質だったみたいですね。
しかも、夫の方も問題アリだったみたいで、二重の苦・・。

[327へのレス] Re: (No Subject) 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/12/07(Sun) 00:52
やはり側室(?)の子ですか・・。
とすると北政所は結局一度も身ごもらなかったんでしょうか?

[327へのレス] Re: (No Subject) 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2003/12/07(Sun) 01:27 <HOME>
初代秀勝のご生母様は、秀吉の小回りとの事。
ただし、歴史的な記録が薄いので、
だったのではないか、に留め置かれています。

北政所は、
身ごもった上で流産していた可能性は有りますね。
そうなると、
身ごもれなくなる確率は高いですし、
この時代、妊娠から出産は死亡率が高いですから、
生きていただけでも凄いのかも。

[325] 主役と脇役 投稿者:明倫北斗 投稿日:2003/12/06(Sat) 01:57
『史記』巻123の大宛列伝、張騫の西域行について
「康居は遊牧民の国にて、匈奴と月氏に挟まれた小国」とあります。
また時代は下るが、『隋書』巻83の西域伝にて
康国(現サマルカンド付近に存在)の前身は、中国甘粛省の祁連山北部
酒泉郡の昭武県周辺に居た「義渠戎 ギキュジュウ、犬戎の一種」であ
り、前2世紀の中頃に匈奴に追われてシル川流域に移動したと記して
います。
この両者の中国資料からかどうかはわかりませんが、白鳥庫吉博士が
「康居は西欧学者が唱える、粟特、ソクディアナにあらず、この民は
トルコ種である」と論じられ、現在、わが日本では一部の研究者を除き
だいたいそれが定説になっている。と思われます。

だがこれはあくまで中国資料から見た中央アジアの民族史であり、
ギリシャまたはペルシャから語られる、シル川流域の遊牧民の歴史は
張騫が武帝に報告した、康居イコール弱小民族の姿はありません。
張騫が拘留されていた匈奴より脱走し、大宛をケイイ経由して、康居の
都、卑闢城(ヒテンジョウ)現在でいえばチミケント辺りでしょうか
ここに到着したのが、前130年の時期です。
この9年前の前139年には、シル川の北岸の草原地帯より、スキタイ・サカ族の吐火羅(トカラ)が、アム川流域に侵攻して、グレコ・
バクトリア王朝を滅ぼしています。
だがシル川北方の草原を本拠地としていたのは、トカラだけではありま
せん。アシイ族、パシアニ族、サカラウリ族らが強い力を持っていた
ことを、前1世紀、アレキサンドリアの地理学者のストラボンが記録に
残しています。
一体、こんなスキタイ部族の隆盛の地、中央アジア一帯をアンドロノ
ヴォ・アーリアが占めるこの時期に、アルタイ・トルコの弱小部族が
どうやって割り込むことができたのでしようか。

シル川流域の民族の興亡史は、大王朝と勇猛なる騎馬民族の大激戦の
舞台です。
アケメネス朝ペルシャのキュロス2世は、シル川北方の地に進撃し、
サカ族(マッサゲタイ)に返り討ちにあい戦死しています。
アレキサンダー大王もレニナバードより、筏にてシル川を渡河、タシュ
ケント近辺にてサカ族と戦うが、その得意な騎兵の右翼包囲作戦は、
てんでそのスピードの違うスキタイには通用せず、大苦戦しています。
セレウコス朝シリア王国のアンティウコス1世も、将軍デモダマスを
シル川北方のペトパクタラ草原に送るが失敗。
グレコ・バクトリア王朝のエウテュデモス2世などは、サカ討征作戦
の最中に背後を将軍のエウクラティデスに襲われ、その王位を奪われる
など、このシル・ダリア北方の地は、大勢力の力を持ってしても、
如何ともし難い、スキタイ・塞(サカ)族の支配地なのです。

張騫が未だ大月氏の王庭、現在でいえばアム川流域のテルメズ辺りに
居た、前128年、アルサケス朝パルチアのフラーデス2世がヒルカニ
アよりアラル海南岸のカラクム砂漠に進撃した時に、サカとギリシャの
傭兵の連合軍の急襲を受けて戦死、その跡を継いだ、アルターバヌス1
世も前123年には、マルギアナ地方に遠征中に、サカ族の猛攻を受け
て陣没するなど、大国パルチアは帝王が、ニ代続いて首をサカに差出す
など、このスキタイ・サカは強いのです。

前123年のサカ族は、その場所からいっても、私は大月氏だと思い
ますが、前128年のサカ族は、日本の研究者が唱えるトカラ族だと
はどうしても思えないのです。やはり西欧人の見る、ソクジアナ勢力
イコール康居なのではないでしようか
ホラズム地方まで勢力圏に収めた康居にすれば、南方から伸びてくる
パルチアの勢力と対抗するためには、大月氏と共同戦線を張る必要が
あったからこそ、張騫をわざわざ護衛付きにて大月氏まで送ったので
はないでしようか。

『史記』『漢書』『隋唐書』ら中国席から眺める中央アジアの歴史劇
その主役は匈奴であり月氏です。鳥孫、大宛、康居は脇役でしかあり
ません。
だが一度、ギリシャやペルシャら西の席から東を観察すれば、
康居はスキタイ・サカの可能性がとても高いと思えるのです。
これは歴史の脇役どころか、主役そのものともいえるのです。
つまりこの部族が草原アーリアから、トルコマンに化すのは、
張騫の代より200年の後、西暦87年に北匈奴の憂留単干が、鮮卑に
斬られ、部族がモンゴル高原での生存権を失い、部族を挙げて康居に
亡命してからのことではないでしようか
こう判断したほうが、その後の歴史の展開、中央アジアのど真ん中、
康居を起点とする、スキタイ系トルコ人ともいうべき、フン族や
アヴァール族の出現や、キマク連合(キプチャク族)ボロヴェツ族
そしてオグズ(Oguz)族らの勃興をとても推理しやすいように思える
のですが、いかがなるものでしようか。
空想と妄想の激しきレス、本当のところはとても恥かしく感じて
おります。

[325へのレス] Re: 主役と脇役 投稿者:カリウス 投稿日:2003/12/06(Sat) 22:09
私も中央アジア史に興味がありますが・・・、凄い研究成果ですな。
中央アジア史は中央アジアの騎馬民族が歴史を残したのではなく周辺の民族が記録を残しているので難しいところですね。それゆえに研究もなかなか進んでおらず、様々な説がとびかっているようですが・・・。

ちょっと文章を図にまとめてみてみます・・・。相関関係が難しいので・・・。

[317] (No Subject) 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2003/12/03(Wed) 20:05 <HOME>
あれ? 下関に確か家があったよ。
晩年は下関で過ごしたハズだし・・・・・。
そーいや、直筆の絵皿だか書皿が鑑定団に出てましたね。

ちなみに昭和天皇陛下の葬儀にも参席してましたなぁ。

TVのアレ>
あくまでも嵯峨姫の目から見た、という設定ですからねぇ。
話の作りが粗すぎる気もしましたが・・・。
余り細かくやると、一年かかりますからね(笑

ただ単純明快な満帝陛下とは違い、
皇弟殿には多少、得体の知れぬ部分がありますから、
そこら辺はどーなんだろうなぁ、と。

ラストエンペラーである台詞があるんです。
中国漢字の変換が面倒なので、日本語訳で書いちゃうと
「兄さんはもう皇帝じゃない」

ここに秘められた言葉は凄く大きいと思うんですよね。


[317へのレス] Re: (No Subject) 投稿者:カリウス 投稿日:2003/12/03(Wed) 23:43
あ、下関にすんでたんだ。中国での再会以降って結構ザルというか大いに省略してた感がありましたな。

[317へのレス] Re: (No Subject) 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/12/04(Thu) 00:46 <HOME>
いやいや、違いますよ。たまには岳飛さんにも記憶違いはありますね(笑)。
あくまで、溥傑も浩も中国在住、中国で死亡です。
調べてみたところ、こうなります。

1961 昭和36年5月11日   浩さん溥傑氏の所へ(中国)
1968 昭和43年5月   生さん福永さんと結婚される
1974 昭和49年12月   溥傑夫妻、日本に里帰り
1980 昭和55年10月   溥傑夫妻、日本に里帰り
1987 昭和62年6月20日 浩さん、北京にて死す(享年73歳)
昭和62年12月12日  愛新覚羅溥傑氏、納骨のため来日
1988 昭和63年1月17日   中山神社愛新覚羅社に納骨(分骨)
1994 平成6年2月   溥傑さん、北京にて死す

しかし、確かに後半生は部分だいぶ省略しましたね。
さすがに、年とって太った浩を常盤貴子が演じるわけにはいかなかったでしょうしねえ。
ここは、気になる人は自分で調べろっところでしょうか。

あと溥傑は、岳飛さんが勘違いするのも無理ないほど、確かに日本に来ています。
神戸の西宮にある、娘夫婦の家に滞在することもあり、ここから新幹線で新下関の神社へ行っています。

[317へのレス] Re: (No Subject) 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2003/12/04(Thu) 15:22 <HOME>
ほーなんだぁ、中国にすんどったのかいな。
オイラはノーミソ熔けてますからね。
たまにではなく、普通にボケ噛まします。

そうだよなぁ、日本にいたんだよなぁ。
うーむ・・・・。
単に頻繁に来ていただけなのか。

[317へのレス] Re: (No Subject) 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/12/04(Thu) 15:50 <HOME>
ちなみに、下関に愛新覚羅社があるのは、嵯峨浩のお母さんの実家の中山家の神社だから、そこにお墓作ってしまえ!と言うのが理由だったみたいです。

もちろん、海を挟んで中国がある、絶好のロケーションだったことは言うまでもないです。

>単に頻繁
詳しくは知りませんが、長期滞在もしていたんでしょう、きっと。
それにしても、溥傑さんは変わりゆく日本を見て何を感じたのでしょうね。

[304] 満州国 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/12/01(Mon) 23:56 <HOME>
フィナさんが触れておられますので、こちらで新スレ。
私も見ましたよ、2夜連続で。アレは実に良かった。映画「スパイ・ゾルゲ」と並んで、名作といえるでしょう。少なくとも、アレをTVで放送したのは偉い。強いて言えば、もう少し舞台セットを凝って欲しかったですけどね。

さて、印象的だったのが物語に出てきた工藤正二中佐。
溥儀達をさんざんにバカにしますが、この人について検索しても出てこない。

そこで、早速本日調べてみたところ、どうやら吉岡安直少将(階級は時期によって違います)というのがモデルのようですね。御子孫がいらっしゃるのでしょう、本名を出すのは、はばかられたのではないかと思います。

ちなみに、関東軍の工藤というと、工藤忠というのがいるそうです。この人物は、溥儀の側近で完全に満州国の人間になりきり、溥儀のために働き、信頼も厚かったとか。紛らわしい。

それから忘れてはいけないのが、竹中直人が演じた甘粕。憲兵から満映理事に転じたのですが、強面の雰囲気や、位残虐な過去とは裏腹に、映画界で中国人スタッフを何とかして引き立て、一方、軍にも影響力がある人間でしたから、関東軍の横暴にも対抗し、自由に映画を作らせたとか。

その裏の顔は何だったのか?というのが、彼の最大の謎なのですがね。なお、その後も甘粕組(笑)のスタッフは日本人・中国人とも残留し、引き続き中国映画界発展に大きな影響を与えます。

あと、張という大臣が工藤大佐(吉岡少将)に連れて行かれますが、実際の所は敗戦処理に活躍したようで。「今こそ、日本と中国が手を携えて」と言ったそうです。詳しいことはまた今度調べます。

で、その甲斐があったのか、満州には今も満州時代の建て桃の多くが残っていますね。取り敢えず、まずはこの程度で。

[304へのレス] Re: 満州国 投稿者:林 梅雪 投稿日:2003/12/02(Tue) 00:47 <HOME>
実はこちらでは初投稿の林梅雪です。
私も見ましたよ。「流転の王妃・最後の皇弟」

僕が一番印象に残ったのは溥儀の寵臣だった陳藩が溥儀を裏切って去っていくシーンです。工藤中佐と対比させたんでしょうが、物凄く印象に残っていますね。
ちなみに溥儀の寵臣陳藩は実在が確認できませんでした。
モデルになった人物は誰かいたんでしょうか?

頭がまだもやもやしているのでとりあえずここまでにします。

[304へのレス] Re: 満州国 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/12/02(Tue) 09:51 <HOME>
おお、ついに登場しましたね。これから、どんどんお願いします。

>陳藩が溥儀を裏切って去っていく&工藤中佐
あの時は、全然気が付きませんでしたが、言われてみれば対照的で凄いシーンですね。
今までずっと従っていた寵臣が溥儀の元を去り、溥儀をバカにしていた工藤中佐が運命を共にすると誓うというのが、なんとも・・。

そうそう、あのソ連に捕まる飛行場のシーンですが、溥儀達は関東軍の一部に「売られた」みたいですね。
工藤中佐(吉岡少将)ですら、その事実を把握できていなかったみたいです。

他、ハルがソ連軍に「女」として連れて行かれるシーンがありましたが、
ハルという人物は(おそらく)架空ですが、実際に女性5人が連れて行かれたそうです。

モデルになった人物は・・。う〜ん、解りませんね。
多分、数多くいた宦官の一人をイメージしたのではないかと思います。

昔、溥儀の「我が半生」、溥傑の「溥傑自伝」を読んだのですが、だいぶ頭の中から抜けています。
立教の図書館にもあったはずなのですが、昨日見に行った時点では消えていました。
買うと高いからなあ、何とかもう一度読めないものか。

[304へのレス] Re: 満州国 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/12/02(Tue) 12:26
へぇ〜、面白かったんですか。

序盤少しだけみたのですけど、安っぽいセットと、効果に見る気なくしたんですよ。

映画『ラストエンペラー』のイメージ強いですから。

[304へのレス] Re: 満州国 投稿者:フィナ 投稿日:2003/12/02(Tue) 13:45
あ、解説されてる。ちょっと嬉しいデス(笑)

私もあのドラマ、かなり感動しました。
途中ちょっとTVの前を離れて見れなかったりしたんですけど、それでも見る場面見る場面で熱く込み上げるものが…。

私は溥傑と浩の深い愛に惹きこまれたのですが、
時代の過酷さをより浮き彫りにするために敢えて二人を非の打ち所の無い夫婦として描いた表現技法なのかもしれないと疑って見てました。多少。
最後の写真と、浩が亡くなった時に、それまで感情を出さなかった溥傑が泣き崩れた…というエピソードが出たとき、本当に二人には深い愛があったんだなぁって思いました。

さすが、テレ朝社運を賭けたドラマだけあって、すごく良かったです。
ああいう歴史モノなら、私なんかでもハラハラしながら見ることができます。

[304へのレス] Re: 満州国 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/12/02(Tue) 15:27 <HOME>
あの夫婦は、本当に仲が良かったみたいです。
私も、「それまで感情を出さなかった溥傑が泣き崩れた」というところで、ジーンと来ました。
溥傑自伝の所での写真解説でもあったかな。実際の話のようです。

だいたい考えてみれば、政略結婚で、しかも相手は中国人・日本人だというのに
16年も離れていながら、お互いに再婚は絶対にしなかったという事実だけでも
ほとんど、信じられないような行動です。
溥傑の長女は、恋人(だったかな)と心中して死にますが、ある意味これは
両親が持つ一途な想いを受け継いでいたのかもしれませんね。

あと、このドラマでなかなか良かったと思うのは、大きく歪曲されて描かれていなかったことです。
架空の人物も登場していましたが、許容範囲内です。
また、溥傑と浩の深い愛をうっとうしいほど描く・・というわけではなく、
溥儀と溥傑のことや、関東軍の行動など、他の面もしっかり描かれていたのがGood。

ただ個人的には、もう少し登場人物が多くても良かったのではないかと。
前述のように、溥儀には工藤忠という信頼できる家臣がいたのですし。

>安っぽいセットと、効果
これは私も感じたので、最初、ちょっと見るのに躊躇しました。
16億円でしたっけ? テレビ朝日の社運をかけた割には、ちゃちいセットでしたね。
それだけが、唯一残念です。

誰かご友人に録画している人がいましたら、是非ご覧下さいませ、大黒屋様。

あとは、映画「スパイ・ゾルゲ」。DVDになったら、これも是非見てください。

[304へのレス] Re: 満州国 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/12/02(Tue) 15:28 <HOME>
あ、DVDになっていますね。6000円で販売中。
う〜ん、欲しい欲しい。

[304へのレス] Re: 満州国 投稿者:カリウス 投稿日:2003/12/02(Tue) 19:47
顔こそでていませんでしたが、やはり周恩来は偉大でしたという感じがしました。溥儀は中国に引き渡されたら殺されるといっておりましたが、生き延びることができて、最終的には平民になれましたし(溥傑も)、浩の手紙を読んだ周恩来が二人を面会させてくれたりと(国交正常化していないというのに)、物語を盛り上げる粋な計らいをしてくれていたことがわかります。

>「それまで感情を出さなかった溥傑が泣き崩れた」

なんか感動ですよね。普段感情を出していないせいでしょうか・・・。ずっと離れ離れでありながら・・・いや、その苦難ゆえに涙が溢れたのでしょうか・・・。
ところで、葬儀は中国でやったんですかねえ? 写真をみた感じそんな感じがしました。 ん? でも棺があったようですから日本でやったのかな?(中国でやるとしたら日本で火葬して骨を中国にもっていくはずですから)

[304へのレス] Re: 満州国 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/12/02(Tue) 21:49 <HOME>
周恩来総理は、毛沢東政権の中で数少ない立派な人物だったようです。
文化大革命の時に、多くの人が弾劾されましたが、その彼らが頼ったのが周恩来総理です。
文革大革命の時に被害を被った一家の人が書いた「ワイルドスワン」にも出てきますね。
ただ、周恩来も一歩間違えると自分が毛沢東によって殺されてしまうので、
そのギリギリの範囲で対応しないといけなかったのは、
おそらく本人としても歯がゆかったのではないかと思います。

もっとも、日本の右翼からみると、周恩来が作った撫順の収容所で、日本人戦犯を優遇し
それによって日本人戦犯を感動させ、あること無いこと罪をでっち上げて証言させた
として評判が悪いですけどね。
これについては、このスレと関係ないのでこれで省略します。

>葬儀
どっちだったかなあ。二人は中国に住んでいたから、おそらく中国じゃないかと思うのですが
お墓は下関にあるんですよね。どうなんでしょう。

[304へのレス] Re: 満州国 投稿者:カリウス 投稿日:2003/12/02(Tue) 22:59
>二人は中国に住んでいたから

アレ? 最後はそういう展開でしたっけ? 十数年ぶりに再会して中国で暮らすことになったんでしたっけ? 心中した娘さんは日本の大学にいってたんじゃないんでしたっけ? 記憶があいまいだなあ・・・。

そういや、もう一つ思い出しましたが溥儀の婦人が病気のため移動中におきざりにされてしまいましたが、非常に悲しいところですな。手にはお別れの花を握らされていましたが、まさに故人の扱いです。
運命に翻弄された悲壮な最期でした。かつて中国を支配した皇后だと思うと、その格差に悲しさを覚えました。
軍の連中(あれは八路軍かな)も途中も死なれぬと面倒と思ったことが、悲劇を生み、未来に渡って奴らは酷いと思われ続けることになるになるとは思わなかったでしょうな。

[304へのレス] Re: 満州国 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/12/02(Tue) 23:41
>周恩来
彼は自分が偉大な英雄の補佐役だったことを誇りに思っていたと、なんかの作品で読みました。そして別の作品で書かれていたことを思い出します『英雄とは裏切り者になる前に死ぬことができた幸運な人物である』。
周氏は自分の功績が英雄の功績に埋もれることをこそ望んだのかもしれませんが、文化大革命が彼をそうさせなかった。もっともそれは外国人である我々の評価で、当の中国人はどうなのか?

>愛新覚羅家
中国史において、旧王朝の皇族が大切に扱われることはよくあるのですが彼らはそうならなかった。それが時代の流れなのか、清王朝が異民族王朝だったからか、共産主義にはそれだけの度量がなかったのか?
映画『ラストエンペラー』では収容所を出た後穏やかに暮らす溥儀が少々描かれますが・・。

>撫順
関係ないですけど、ここからうちのまちに農業研修生が来てます。

[304へのレス] Re: 満州国 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/12/03(Wed) 07:16 <HOME>
溥傑夫婦は、中国に残ります。ただ、現在もご存命中の娘さんは、数ヶ月して日本に戻り、福永さんと結婚しています。

細かいことは知りませんが、お互いに中国に来たり、日本に来たりしていたみたいですね。

>溥儀の婦人
あの人が一番可哀想ですね。溥儀からは全く愛されず、アヘンを吸って廃人状態になり、
八路軍は、彼女を捕まえたくせに、そのまま放置するという愚挙に出ますからね。

>愛新覚羅家
中国共産党からすれば、そもそも階級の敵だから、殺しても良いはずの存在なのに
あえて「平民化」の象徴として残したのは、評価するべきなのか、それとも評価せざるべきなのか。
いずれにせよ、溥儀自身は収容所を出た後、植物園で働き友達にも恵まれたそうです。
友達の中には、諸葛亮の子孫だという、諸葛正義なんて人物も出てきます。
問題は、中国共産党の教育によって「過去の溥儀は私にとっても敵」だなどと、
完全に人格否定を植え付けられてしまったことですが・・。

ただ、一人では洋服のボタンすら止めることも出来なかった溥儀を、
教育で一人で生活できるようにしたことは評価しても良いでしょう。

なお、文化大革命の時は溥儀は紅衛兵から目の敵にされ、迫害を受けます。
結局、周恩来が出てきて、何とか沈静化しましたが、おそらく生きた心地がしなかったでしょう。

[263] ローマの属州統治 投稿者:フィナ 投稿日:2003/11/27(Thu) 16:46
ブリタニアのローマ化とは、具体的にどのようなものだったんでしょうか。

私は歴史を深く掘り下げて考えるということを今までしたことがなかったのですが、最近なんとなくローマ帝国というもの、それとローマの平和の本質について知りたくなってきました。
ローマの平和、とよく言いますが、本当にローマは平和だったんだろうか。
そう考えると、今日の日米の関係にまで当てはめて考えることができるような気がします。

挨拶が遅れましたが、初めまして。フィナと申します。
これからも、ちょくちょく覗こうと思っているのでよろしくお願いします。

[263へのレス] Re: ローマの属州統治 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2003/11/27(Thu) 17:50 <HOME>
ブリタニアつまり、イギリスですが、
ここはもともとケルト民族の土地なんですね。
というか、ガリア今のフランスもケルト民族の土地だったんです。

が、ローマの進出が始まると、
ケルト民族とローマとの間で、
友好関係は築かれる間もなく血みどろの戦が展開され、
ケルト民族は勇戦むなしく敗退。
徐々に北方へ押し上げられていきます。

そうして、バルト海峡を越え、ロンディニウム(これもローマが付けた名であるが)を占拠し、
ブリタニアのローマ文化の浸透を図ります。

ケルトには言語や伝説、宗教をはじめとした独自の文化が形成されていましたが、ローマの支配と共にそれらを棄却し、
ローマの言語、神話、宗教への転化が進められます。

これがブリタニアのローマ化です。

無論、これに抵抗する一団も存在し、
彼らはハイランドの後のエディンバラ城を中核として、
徹底抗戦に移行。

所謂、ハイランダーと呼ばれた人たちの元が彼らケルト民族です。
後にゲルマン民族により、アングロサクソン7国が設立され、
彼らとも抗戦し続けていくのですが、
抗戦と和平の中でゲルマンの血が入り、
スコットランド王国が生まれます。

ローマ時代、と呼ばれる時代。
これはまさしく歴史の学問の誤りでしょうね。
つまりは、ローマを支配者として認めている証明です。
無論、便宜上と言う事もあるのでしょうが。

この当時のローマの平和とは、
即ち、ローマ人とその版図に与する存在にとっての平和であり、
他民族の驚異を激減させて、ローマの驚異を彼らに与え、
自らの支配力を強めていくことでした。

現実問題として、この当時に生まれた言葉の多くは、
その多くが後世に至る現在も使用され、
未来に置いてもまだ、使用され続けるでしょう。

そのような意味では、ローマの平和は確かに確立されつつあったと思われます。
平和という言葉は本来、『戦争がない』と言う事に直結する物ではありません。
戦争が発生していても、或いは戦争中であっても、
その文化や伝統、或いは政治的経済的な力が侵されない限りは、
平和である、と豪語できるのです。

無論、これは現代でも通用する論法であり、
現実問題として、驚異という名の下に兵を発起し、
無名の帥を起こし、平和を謳う事が流行の様ですから、
時代は変われど、人のレベルはあまり変わっていないみたいです。

ただ、これが良い事か悪しき事か、
それは現代を生きている私には、判断する事は出来ません。
少なくとも、この国の民はその恩恵によって生きているのは間違いないのです。

[263へのレス] Re: ローマの属州統治 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/11/27(Thu) 19:59
関係ない話ですがガリア人の前にピクト人というのがブリテン島にいたという話を聞いたことがあるんですが?

>ローマの言語、神話、宗教への転化
ここまでやっていたんですか。
ケルト人の宗教というとドルイドのでてくるあれですね。

そういえばハドリアヌスの長城建設もこの時代ですね。

[263へのレス] Re: ローマの属州統治 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/11/27(Thu) 22:46 <HOME>
>平和の本質
たしかに、これを考える上で引き合いに出されるのは、ローマ帝国ですね。言いたいことは全部美鈴ちんが語ってくれましたので、この件に関しては割愛しますが、確かに今のアメリカの状況と似ています。

マクドナルドのある国は戦争が無いといわれるように、ローマ帝国もコロセウムや大衆浴場をつくり、各地をローマ化していきました。

さて、果たして平和だったのか(結局書くのかよ)。
実際の所は、皇帝の地位を巡って、結構ボコスコ戦っています。
というか、それが当たり前の状況です。
それから、ローマ帝国は外と戦っています。何を持って平和とするかは難しいですが、決して戦争と無縁で、人々が幸せに・・・と言うわけではないですね。

もっとも、多くの一般市民は泰平を享受し、なかには退廃していくこともありましたが・・・。

>ピクト人
よくご存じで!というか、私は知らなかったので調べたのですが、ケルト人の一派のようです。もっとも、部族が違うのでしょう。ですから、一般のブリテン島のケルト民族は、ブリトン人と言われます。

アングロ・サクソン民族がブリテン島に侵入したとき、ちょうどいい!と、ブリトン人が北方からのピクト人を撃退してくれと、依頼したと記録に残っています。

ちなみにアイルランドの場合、ピクト人は青銅器時代にアイルランドにやってきました。

その後も、主にスコットランド地域に居住し、ハドリアヌスの長城建設もケルト人、特にこのピクト人が対象でした。

また、スコットランド・ハイランド自治州の主都インバネスは、6世紀にはピクト人の国の首都であり、6世紀にはピクト人の国の主都だった。565年ころ、聖コルンバがこの地でピクト人の王ブルードをキリスト教に改宗させたと記録にあります。

[263へのレス] Re: ローマの属州統治 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/11/28(Fri) 13:05
>ピクト人
情報のでどころは『マスターキートン』だったりする・・。

[263へのレス] Re: ローマの属州統治 投稿者:フィナ 投稿日:2003/11/29(Sat) 14:27
詳しい説明ありがとうございます☆

つまりローマ化とかローマの平和とか言っても実際は乗っ取りみたいなもんだったんですかね?(謎)
ケルトの独自の文化が棄却されちゃったってことは、
ケルトの文化は客観的に見てローマより劣ってたってコトなんでしょうか?
優劣とかはそう簡単に比較できない部分だと思うんですけど、
ローマの文化や文明の水準の方がケルトより上だったとしたら、
ローマ化はケルトに高い文明をもたらして生活の質を向上させ狭義の平和を与えた…ことになりますよね?
あれ、自分で言ってて意味不明になってきました(汗)

ピクト人っていうのも初めて聞きました。。。
受験世界史では習わないところにも、歴史ってあるんですねぇ。
なんか凄いデス。
というか、ここの皆さんの知識も凄いです…素で感動します。

[263へのレス] Re: ローマの属州統治 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/11/29(Sat) 15:23
フィナさん、ちょっとお説教くさくなりますがよく聞いて(?)ください。

文化の優劣というのはそう簡単に決めていいものではありません。
確かにローマ人に比べてブリテン島のケルト人たちの生活水準は高いものではなかったかもしれません。だからといってケルト人たちの文化がローマに劣っていたかは一概に言えません。ケルトの文化はいうなれば森の文化です。彼らは森とともにいき、森の恵みを受けて生活しています。現在のヨーロッパは一面に耕作地が広がっていますが、この当時はうっそうとした広大な森が広がる土地で、ケルト人はそこで独自の文化を育んでいったのです。

ローマの文化はとても華やかで、対してケルトの文化はえてして野蛮なイメージが浮かびますが、彼らは彼らなりに自分たちの文化に誇りを持っていたでしょう。ここで勝手な先入観に基づいて優劣を定めれば彼らの誇りを傷つけることになります。
繰り返しますが文化の優劣は簡単に決めてはいけないものです。
むしろ互いに文化を尊重しあうことが最も大切なことなのです。

昨今、イスラム原理主義者とアメリカによるテロの応酬が続いていますが、あれこそ互いの文化を尊重することなく、勝手な価値観の押し付け合いの結果の末路といえるでしょう。美鈴ちん@岳飛さんも先に述べられてますよね、「無名の帥を起こし、平和を謳う事」と、たいそうな大義名分を謳ったところでやってることは極めて愚かしいことに過ぎないのです。

[263へのレス] Re: ローマの属州統治 投稿者:フィナ 投稿日:2003/11/29(Sat) 15:44
やっぱりそうですよね、ごめんなさい。
言葉が悪かったのかもしれません。
優劣とかいう尺度じゃなくて…たとえば現代で言う国民総生産みたいなものに当てはめた値で言うなら高いのか低いのか、ってことで…えっと、言わんとしていることはお分かりかと思いますがコレと言った言葉が浮かびません(汗)
でも「分かってくれるだろう」という軽い気持ちで迂闊なことは言えませんよね、このスレの事だけじゃなくていろんな面で、やっぱり当事者から見れば気分を害することもあるだろうし。

では切り口を変えて、ケルト文化とローマ文化の相違点とは如何なるものだったのでしょうか。

…この質問なら問題ないでしょうか(滝汗)
と言う前に説明して下さってますね。
ありがとうございます。
私は決して野蛮だとは思ってませんけど、やはり多少「後進国」的なイメージがあるかもしれません。
歴史を考えることは未来を考えることでもあると私は思うので、先入観に捉われるのは厳禁だと改めて思います。
…でも、やっぱり「文明の高低差」という見地も捨て切れないのが初心者です。反省。

[263へのレス] Re: ローマの属州統治 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/11/29(Sat) 17:29 <HOME>
フィナさんが本当に言いたかったことも、よく解りますよ。
とは言え、文明の優劣というのは今では絶対に口にしてはいけない言葉でして。
実際、どれが高い文明で、どれが低い文明かだなんて、決めようがないのです。
ま、ここは大黒屋さんが語っていることなので、割愛。

で、敢えてローマとケルトの「差」を考えてみれば、おそらく技術力でしょう。
ローマは、土木技術に関して優れた技術を持っていたこと、ここに関しては疑問の余地は挟めないと思います。
文化には差がありませんが、技術力には差が生じることがあります。
もちろん、ある部分ではAの技術の方が上であり、またある部分ではBの方が上
もしくは、CにとってはAの技術を利用した方が使いやすいが、
DにとってはBの技術の利用をした方がいいなど
これまた、色々判断の分かれるところではありますが。

また、当時のローマは軍事力も高かったです。

そんなローマが、森と共生しているケルトと戦えば、勝つのも無理はないところです。

が。
その後、(西)ローマは事実上、自滅していき、ゲルマン民族に取って代わられていきます。
そんなわけで歴史とは面白いもので、常に技術力や科学が発達しているから繁栄を続けるわけでもなく
例えば、その内部から腐っていったり、システム的な問題が発生したり・・・。
そう言った意味・時期には、後進国が先進国に取って代わることはありますね〜。

[263へのレス] Re: ローマの属州統治 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/11/29(Sat) 18:35
でもローマの技術力は元をただせばエトルリア人のものなんですね。

ローマ人の物語のなかに「力はケルト、ゲルマンに及ばず、技術はエトルリア人におよばず、知恵はギリシャ人に及ばず、交易はフェニキア人に及ばない」みたいな文章があったのを覚えてます。

ローマの特徴、それは包容力かもしれませんね。

ローマとケルトの相違点なら『ローマ人の物語』はさわりとしてとてもいいものだと思います。そこから踏み込むなら『ガリア戦記』なんかに手を出していけばいいと思いますよ。

>軍事力
ケルト人は各部族ごとに独立し、離合集散を繰り返していたので、ローマはこのまとまりのない相手に各個撃破していけばよかったので、たやすい相手だったようです。しつこい相手で終わりが見えないというのはありましたが。
だからローマ化を推し進めたのかも。

[263へのレス] Re: ローマの属州統治 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2003/11/29(Sat) 23:07 <HOME>
ケルトとローマの文化的な差は、
『鉄』と『青銅器』ですね。
無論、これは対立初期のお話です。

ケルトはもともとシャーマニックを中核とする宗教で、
文化的な特徴もその辺りに代表されます。
そのような意味では、遙か東の騎馬民族に近い面もあるでしょう。

ケルトは青銅器を主に用い、その手から生まれる工芸品は、
ベネチアのガラスに匹敵する美しさを持っています。

これら工芸品や高品質なエール(麦酒)が、軍事資金になり、
ローマ帝国との抗争を多少なりとも押さえ込み、
時に帝都ローマを脅かす事が可能でした。

ただ、ケルトはどこまでも少数の民であり、部族国家という側面が災いし、常に内と外に敵を抱える形に為っていました。
この辺りも、
やはり、東の騎馬民族、
つまり、フン族やスキタイ、或いはモンゴルや満州民族に事情は近いかもしれませんね。

他方、ローマはエルトリアやギリシア、地中海の先達の技術を吸収し、それを食い潰して行きます。
無論、大成させたと見る事が多いかもしれませんが、
大局的に考えると、ローマの文化はどこまでも先達の消費の文化です。
ただし、それが悪いわけではありません。
しかし、その事が後にローマを滅亡に導いた最大の要因であり、
ゲルマン民族の侵攻後に暗黒時代が吹き荒れた一要素ではあるのです。

ただ、ローマはその消費性の為に、
西と東の交易を活発化させ、根本的な面はともかくも、
周辺的な意味に置いての文化レベル(というか生活安定度)は向上します。

その恩恵が結果としてローマとローマの属州との結びつきを強め、
また、他の列強国家に一目を置かれる立場を確立します。

それが軍事力を結果的に底上げし、
武勇において個人的能力では勝るケルトを最終的に圧倒できた理由ですね。

ただ、征服地域に於いてローマ化を促進させた理由が、
政治的支配力を目的としたモノではなく、
この当時のローマ人の感覚である、
「ローマが正しい、ローマが普通、ローマが中心」
というシンプルなモノでした。
それが結果として政治的目的と合致する事が出来たに過ぎません。
それが証拠に、ローマ化への大反発が発生しているにもかかわらず、政治的対処する出もなく、何度も実力行使を実施している点に、注目することが出来ます。
これは政治的見地からすると、赤点並の行動です。



[263へのレス] Re: ローマの属州統治 投稿者:フィナ 投稿日:2003/12/01(Mon) 16:31
どうも。昨夜のドラマ「流転の王妃」で少しばかり満州国にも興味が湧きそうなフィナです。
…と言っても私は歴史が専門なわけではないので何をするわけでもないのですが。

あと、文明の優劣について軽々しく口にしたことを再度お詫びいたします。

文化の違いについては、なんとなく飲み込めました。
『ローマ人の物語』って塩野七生さんのですよね?
文庫本のを1巻だけブックオフで買ってみたので今読んでみているところです。
あと、違う方にキケロの弁論集を薦められたのですが、ウェレス(でしたっけ?)の悪行とローマの秩序がどう結びつくのかよく分からず、しかも内容も難解なので放置しちゃってます(汗)
ちょっと歴史に興味を持ったからって、いきなり難易度の高い本を読むと眩暈がしますね(苦笑)

あと、「ローマが正しい、ローマが普通、ローマが中心」というのがローマ人の感覚であったとするなら、イタリア半島以外の国を征服するたびに属州にしていったのも当然だなぁって思いますが、もう一つ疑問があるんです。
ローマはエジプトが自分の領地として謙譲されてたはずなのに、暫くの間属州とせずに王国として残していたと聞きますが、これは何故でしょうか。
よく言われる「寛容」ってやつでしょうか?
でも、他の国はどんどん属州にしちゃってる中で何故エジプトだけ?って思うんです。しかも、結局は属州にされちゃってるし。
ローマの領地でありながら属州にはならなかった期間というのは一体何を意味するんでしょうか。

[263へのレス] Re: ローマの属州統治 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/12/02(Tue) 09:45 <HOME>
>ローマ人の物語
面白いんだけど、読みづらいです(笑)。私は一巻で挫折状態・・。
まあ、自分のホームページで全世界史を執筆しているので、取り敢えずローマばかりにこだわっていられないという面もあったのですが。
近いうちに、読破してみようと思います。
その代わり、今は講談社現代新書の「ローマ五賢帝」(前川高志著)を読んでいるところです。
教科書では「パクスローマ」「トラヤヌス帝の時、帝国領土は最大」で飛ばされ、
私自身もホームページ内で、あっさりと飛ばしたのですが、あの時代にも
相当なドラマ・権力闘争などがあったみたいで、驚いております。

>暫くの間属州とせずに王国として残していたと
ん?そうでしたかね。
おそらく、ローマの権力者と結びつきながら、
微妙な力関係の中で生き残っていたのではないかと思います。
ですからクレオパトラもカエサルを頼りますし、次にオクタヴィアヌスかアントニウスか
どちらを味方に引きずり込むかを考え、結局アントニウスを運命を共にしてしまいましたが。

それとも、その後も王国として残したという話でしょうか。
プトレマイオス王家は、クレオパトラとカエサルの息子・カエサリオンが殺された時点で、滅亡したと思っていたのですが・・・。

[282] 考古学へのロマンは続く 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/11/29(Sat) 09:51 <HOME>
中国陜西省西安市の秦の始皇帝陵(東西345メートル、南北350メートル)を、同省文物考古研究所と中国地質調査局が、電気探査などのハイテク技術で調査した結果、墳丘の地下約30メートルの地点に巨大な「地下宮殿」や墓室が存在することを28日までに確認した。地下宮殿の存在はこれまでのボーリング調査などで予測されていたが、具体的な規模や構造が判明したのは初めて。飯島武次・駒沢大教授(東洋考古学)は「世界最大の『地下宮殿』であり、これまでの調査を一歩前進させた」と評価している。

 始皇帝陵の発掘は、巨額の費用がかかる上、保存技術が不十分なため、実現の見通しは立っておらず、今回は始皇帝陵の保護計画を制定するための調査という。

---------------------------------------------------
ってことらしいです。
いやあ、発掘したくても技術的な面から出来ないのが悔しい。
そして始皇帝の野郎、とんでも無いもんを造らせたんですね。
当時、今でも発掘すると保存が出来ないような地下建築物を造った物だと、感心します。

ああ〜〜〜〜〜〜発掘してぇ〜〜〜〜〜。
そして、中国もハイテクで調査の時代か。

[282へのレス] Re: 考古学へのロマンは続く 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/11/29(Sat) 11:53
中国の地下宮殿の伝統は殷時代からつづくものかもしれませんね。

技術的な問題というのは密閉された構造物がにわかに外気に触れると急速に劣化が進むからだと思います。日本では古くは高松塚、最近ではキトラ古墳なんかがその例ですが、規模の小さな日本の古墳でも保存には大騒ぎして最新技術のオンパレードを駆使してもどうしても劣化は進んでしまいます。これが世界最大の地下宮殿ですからね〜。

始皇帝稜をすっぽり覆うようなドームを建設し中の空気を地下と完全に一致させさらに光の量を調節し・・。考えただけでウン百、ウン千億円の費用と気の遠くなるような発掘期間が必要。

ここではっきりさせておきたいのは実は発掘というのは遺跡の破壊に他ならないということ。一回こっきり、やり直しはきかないそういうものなんです。保護を第一に考えるなら掘らないのが一番いいんですね。でもそれじゃなんにもわからないわけで・・。

ま、そのうち技術が発展して小型ロボットなんかをトレンチにに下ろして地下全体を調査できるようになればそんな途方もない発掘の必要はないでしょうな。でも中からとんでもないお宝が見つかれば今度は盗掘の恐れも・・。現在もその恐れはありますし、歴史上何度か盗掘を受けた記録がありますからいまさらどういう問題じゃないですが・・。

ちなみに西安周辺は経済成長の恩恵から見放されひどい不況とか。この間の留学生の問題もその鬱憤晴らしが騒ぎをあそこまで大きくしたとか・・。

[282へのレス] Re: 考古学へのロマンは続く 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/11/29(Sat) 17:20 <HOME>
そういえば、殷も地下宮殿を造るのが好きでしたよね。
まだまだ、いくつも未発掘の物がっているんだろうなあ。

>劣化
そうですね、日本でもカビが生えてきて云々と問題になっていますね。
安易に発掘に踏み切らない、中国の対応は至極もっともな行為ですね。

>実は発掘というのは遺跡の破壊
確かにそうですね。触らなければ、1000年でも2000年でも残る遺産が、
発掘されたらすぐに劣化していく・・・・。
とは言え、発掘しないと歴史の解明も出来ないわけで、ここが大きなジレンマだなあ。

せめて我々が生きている間に、極力遺跡を傷つけずに、外気に触れさせることもなく
発掘できるような技術が確立することを願ってやみません。

・・・あ〜でも気になる気になる!!(笑)

[282へのレス] Re: 考古学へのロマンは続く 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2003/11/29(Sat) 22:39 <HOME>
中国の地下墓所の宮殿様式は、
夏代よりも古いと言われています。

というのも、中国の土木技術力は伝説の五帝にはある程度確立して居るんですね。
この根拠が五帝が黄河の治水工事の記述からですが、
ま、本当に確立しているかはともかくとしても、
五帝記が口伝として知られていた、つまり五帝記が編纂されるより前にかなりの土木技術力が蓄積されていると言われとります。

ただ、歴史の中で(というか記録に残されているモノだけでも)王墓は各地で破壊され、
潰されていますから、逆に残っている方が少ないと思います。

でも、王墓に拘らず、当時の貴族の墓もまた大量に存在するはずですから、残っていない、発見が難しい原因と思われるのが、
その作られた場所でしょう。

中国的思想から考えると、黄河のほとりに墓を作る程度の事はしてくれるでしょうから、
しみ出る地下水と黄河の氾濫で崩れてしまった可能性はありますよね。

[282へのレス] Re: 考古学へのロマンは続く 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/11/29(Sat) 23:31
しかし、それは他方で遺跡を密閉してくれるという面もあると思いますよ。

日本の草戸千軒遺跡という中世の都市遺跡があるんですが、これは河川の氾濫によって当時の都市がかなり良好な状態で発掘されているんです。

とはいえ日本の河川と黄河では規模もスケールも圧倒的に違いすぎるのもまた事実。もしあったとしてもいったい何十メートルの地下にあるのか・・。下手すリャ何百メートルってことも・・。

同じく似たようなことで日本の弥生時代の遺跡。山梨県の例なんですが、山梨に水稲耕作がどのように、どのルートでと考えるのに河川流域に沿ってと、富士山麓からと考えられるんです。でも遺跡が確認できるのは釜無川、笛吹川流域のみで、富士山麓、天竜川流域は確認ができないんです。もちろんまだ調査が進んでないのもあるんですが、膨大な量の火山灰と溶岩の堆積がある富士山麓、流れが急峻で土砂の堆積も多い天竜川は調査のしようがないのも現実だそうです。友人の話だと天竜川流域は十メートル以上掘っても何も出てこなかったそうです。だからといってそこに古代の人々の生活痕がなかったとはいえないんですが。

[282へのレス] 訂正 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/11/29(Sat) 23:52
>天竜川
富士川の誤りでした。申し訳ありません。

[282へのレス] Re: 考古学へのロマンは続く 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/11/30(Sun) 18:16 <HOME>
ちなみに草戸千軒遺跡、現地で見て参りました。今は、普通の河川になっています(当たり前か)。
なお、従来は河川の氾濫で町が消滅・・・が通説でしたが、現在は「どうやら違うらしい」と言うことになっています。

従来、江戸時代中期に福山藩士の宮原氏がまとめた『備陽六郡志』に「往昔、蘆田郡、安那郡邊迄海にてありし節、本庄村、青木か端の邊より五本松の前迄の中嶋に、草戸千軒と云町有けるか、水野の家臣上田玄蕃、江戸の町人に新涯を築せける。水野外記と云ものいひけるは、此川筋に新涯を築ては、本庄村の土手の障と成へしと、かたく留けれとも、止事を不得して新涯を築、江戸新涯と云。其後寛文十三年癸丑洪水の節、下知而、青木かはなの向なる土手を切けれは、忽、水押入、『千軒の町家』ともに押流しぬ。此時より山下に民家を建並、中嶋には家一軒もなし」との記述があったので、それを草戸千軒のことと長らく解釈されてきたのですが、色々な状況証拠から、千軒=草戸千軒じゃなかろう、と言う研究がなされています。

つまり、数多くの家が流されたと言うことを、「千軒」と表してしまったようです。

また、草戸千軒遺跡は16世紀初頭が最終期であったと考えられ、洪水があった時期には既に原形をとどめていなかったようです。さらに、草戸千軒遺跡の遺構は、多くの施設を意図的に埋めていることから、政治的・社会的な要因で滅亡したのではないかと考えられるそうです。

詳しくは、広島県立博物館 学芸員だよりをご覧下さい。

いやあ、こういう通説を覆すような考察が歴史の醍醐味の1つですな!
一歩間違えると、ただのトンデモの世界になりますが。

[282へのレス] Re: 考古学へのロマンは続く 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/11/30(Sun) 19:58
へぇ〜

考古のうんちくたれるのはこわいですね、こういうことがあるから。

[282へのレス] Re: 考古学へのロマンは続く 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/11/30(Sun) 20:34 <HOME>
いやいや、私もたまたま一昨日、歴史共有放送局を後進する際に、資料サイトを探していたときに発見しただけで、それまでは洪水で消えた物ばかりと思っていました。

でも、このサイト見る限りでは、意外と前々から洪水説否定されているんですよね。そうすると、我々の世代だと洪水説否定を勉強してて良いはずなのですが・・。

[282へのレス] Re: 考古学へのロマンは続く 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/11/30(Sun) 23:15
実際私も大学の講義で洪水説を植えつけられたんですが・・。

試験にも出たし。

[282へのレス] Re: 考古学へのロマンは続く 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2003/12/01(Mon) 15:53 <HOME>
生活感的論的根拠と実況検分ではなく、
学術的な論的根拠と足跡検分で導き出すモノですからね、
食い違いが出るのは当然ですし、
出ないわけがないんですが、でも、それで良いんですよね。

その方が一般的な価値観の社会では受け入れ安いんですよ。
とかく、学術とかいう類のモノは、
万人が納得行くモノでないと、例え本質を突いたモノでも否定されますからね。

これもそう言う証明だと思います。

[294] 宋の理宗の家系についての質問です。 投稿者:さくらもち 投稿日:2003/11/30(Sun) 04:06
 皆さんこんばんは、そして初めまして、さくらもちです。

 宋の皇帝について質問があります。
 宋は初代皇帝趙匡胤死後、匡胤には徳昭と徳芳という二人の成人している息子がいるにも関わらず、匡胤の弟の匡義が二代皇帝になり、その後、匡義の子孫が皇帝につくことになるんですが、匡義の子孫である南宋の高宗の実子は夭折したので、皇族の伯jを養子にしていましたが、彼は、匡胤の七世の孫(徳昭の子孫)に当たる人物で、後に即位して孝宗となりました。
 これにより、皇帝は匡義の子孫から匡胤の子孫が継ぐことになりました。
 そして時は流れ、孝宗の孫の寧宗は実子が夭折し、匡胤の十世の孫(徳芳の子孫)で、民間人になっていた貴誠を寧宗の養子として、後に彼が理宗となりました。

 貴誠は匡胤十世の孫といいますが、徳芳から貴誠に至るまでの間、七代の人物がいますが、その七人の経歴や名前は、わかっているのでしょうか?もしわかっているのなら、教えて下さい。
 
 隋の楊堅は、「漢の楊震十世の孫」と称してますが、実際は鮮卑ではないかといわれています。
 これと同じで、もし徳昭からの七人の経歴がわからないのであれば、貴誠は「匡胤十世の孫」というのは、全くのでたらめの可能性があるんじゃないかと思うのです。
 もっとも、正真正銘、匡胤の子孫だという証拠があるのかもしれませんが・・・。

 さくらもちでした。

[294へのレス] Re: 宋の理宗の家系についての質問です。 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2003/11/30(Sun) 14:47 <HOME>
確か宋書の帝記にそれらしい事がふれられていたような・・・

ただ、宋というのは面白い帝室で実は誰が皇帝になっても問題は無い、という面が本当はあるんですね。
これは趙匡胤の考えに拠るものです。

ただ、それだと玉体が安定しない、という事で便宜上、
『趙家の中』から皇太子を擁立するという方法を採っています。

ただ、ここには抜け穴があって、
つまり、養子でも皇帝が実子として認めてしまえば、
皇太子になれる可能性があるんですね。

経歴はねつ造しても、皇帝がこれが正史であると言えば、
そのまま宮中文書に真実として記載されるのは、
中国王室では良くあることですし。

だから、跡継ぎに困ったとき、
趙家の縁者とされている中で(必ず縁者の証は持っている事は条件)、才能が豊かもしれないと思われる人物を皇帝にしてしまう位はしたでしょう。

ま、宋に限らず、皇太子として冊立された人の多くに経歴の怪しさがある国ですから、
別にでたらめでも、なんでも、
要するに皇帝としての資質を持っていれば良かったんでしょうね。

さて、宋の場合、皇帝の資質として最重要視されていたのは・・・
『文才』です。
というより、末期的な文士国家でしたから、仕方ないんですけど。

[266] 裏辺さんに質問です。 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2003/11/27(Thu) 17:57 <HOME>
この掲示板は歴史共有放送局の所属ですか?
それとも裏辺研究所の所属ですか?

もし前者であるならば、裏辺研究所のTOPページからの掲示板直リンクは宜しくないかと。
あくまでも、歴史共有放送局の掲示板として確立されておくべきです。

もし後者であるならば、
『一夢板風流記』の名前は取り下げる方が良いでしょう。

[266へのレス] Re: 裏辺さんに質問です。 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/11/27(Thu) 22:23 <HOME>
まずは元に戻しました。
もちろん、後者の方ではございますが、歴史共有放送局と裏辺研究所を混同されることを防ぐために、そもそも歴史共有放送局という文字を裏辺研究所本体から消そうかと考えました(これについては、今後もう少し考えます)。

一方、歴史掲示板については、「はじめに」などで他サイトとの共同管理掲示板と断った上で、直リンクを張った次第です。お許し下さいませ。

[266へのレス] Re: 裏辺さんに質問です。 投稿者:蕭月(しょうげつ) 投稿日:2003/11/28(Fri) 13:08
HPの運営というのは、たとえ趣味でやっているとしても大変なもので、裏辺さんの場合はメインの研究所だけでも膨大なコンテンツ(ファイル)量ですから、これすべてに目を通して管理するというのは、一人でやる作業としては本当にしんどいだろうと推察します。

あと共有コンテンツという構想ですが、これが仮に「我も我もと、大勢の人たちが参加してきたら」、そのファイルを管理する作業は、絶対に裏辺さん一人じゃさばき切れないですよね。
(まぁ、そこまで人が殺到する事もないとは思いますが)
だから理想的には、歴史共有放送局は、「裏辺さん以外の人間がファイル管理を担当」するのが一番いいんです。

でも、私も含めてですが、みな忙しいたら何たらで、そんな厄介事は引き受けたがらない。

わたしの勝手な意見ですが、もし裏辺さんが重荷に感じるならば、管理しやすい形に縮小してしまえばいいと思いますよ。

[266へのレス] Re: 裏辺さんに質問です。 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/11/28(Fri) 18:18 <HOME>
全くごもっともなところです。
本来は、やはり別のサーバーで別の人に管理してもらえるのが一番ベストではなかったかと思います。
これについては、最初に引き継ぎを受けたときの見通しが甘かったとしか言いようがありません。
いや、まさか自分のメインHPが、あそこまで大きくなるとは思っていませんでしたから。
むしろ、歴史共有放送局の方を大きくして、そのおこぼれを裏辺研究所が頂こうと考えていたぐらいです。

ところで、歴史掲示板の管理とは大変な物ですね。
幸い、美鈴ちんという心強い管理人がいますが、マニアックな領域に突入すると
それを調べるだけで、大学から帰ってきた後の時間が終わる始末で・・。

一番最初に、この掲示板の管理を始めた人の偉大さ、及びもちろん博学の美鈴ちんの偉大さを身にしみて感じます。
ま、そうは言っても、一度引き受けた以上、まだまだ頑張らせて頂きます。

>共有コンテンツという構想
困ったことに、現時点では全く機能しておりません。
こればかりは、管理の問題以前の話でして・・・(笑)。
結局の所、色々試行錯誤を繰り返して、時には先走りして怒られるのも
どうしたら、歴史共有放送局が盛り上がっていて、共有コンテンツに登録しても良いかな?と
閲覧者が思って頂けるようになるか、と、そう言う面があります。
方法としては、
1.歴史掲示板が盛んに利用されている
2.歴史共有放送局のアクセス数が多い
3.資料サイトの情報量が多い
4.独自コンテンツを増やす

と、言ったところになります。
そこで、やはり失礼ながら一番アクセス数が多いのが裏辺研究所ですから、
ここから人を如何に集めるか、と。
ところがやりすぎると、裏辺研究所の一部に見られるというジレンマがあります。

「3」については、色々探していますが、結構面倒な作業です。
それでも、最近では随分増えてきましたが・・・。

「4」について。
これをやってしまうと、やはり裏辺研究所に使えない歯がゆさが出てしまいます。
(だから、本当は私が管理しない方が良いw)

いやあ、困ったなあ(おいおい)。
ともあれ、美鈴ちんが頑張って歴史掲示板のレスをしているので、
私も負けないよう、管理面で努力せねば・・・。

[266へのレス] Re: 裏辺さんに質問です。 投稿者:蕭月(しょうげつ) 投稿日:2003/11/28(Fri) 20:32
幸い、掲示板に関しては、岳飛さん、大黒屋さん、裏辺さんがオールマイティーにカバーされておられるので、レスの負担は適度に分散されているんじゃないでしょうか。

問題は今後、裏辺さん以外で全体を管理出来る人が見つかるかどうか?って事ですね。
そういう歴史好きで、時間も取れるような人が現れてくれればいいんですけど…。

ところで…2つほどページ構成で気になった部分を報告いたします。

「世界史資料サイト」のページ、ここは各地域事にリンクが分かれていますが、例えば中国史のページと、ヨーロッパ史のページとでは、レイアウトが違いますよね。
これは、どちらかに統一してしまった方が見やすいのでは?
個人的にはヨーロッパ史のレイアウトの方が見やすいと思いますし、中国史の方のレイアウトは左の方が色々リンク切れしているようです。

もうひとつ。
「歴史HP素材」のページもリンク切れですね。

[266へのレス] Re: 裏辺さんに質問です。 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/11/28(Fri) 23:43 <HOME>
いやはや、特に大黒屋さんには管理人でもないのに、助けられています。滅茶苦茶感謝です。レスの負担は最近少ないですね。一時、美鈴ちんが実家に帰っていたりしたときには、本当に顔面蒼白状態でしたが(笑)。

>レイアウトが違いますよね
はい、杜撰な管理でゴメンナサイ。ヨーロッパ史の方が、正しいレイアウトです。至急、統一しておきます。

歴史HP素材については、以前から企画だけして放置状態です。そうですね、早速このページぐらい作っていきますか。

うむ、愚痴っていても仕方がない。
そんなわけで、ちょっと本腰を入れて更新してみました。
次回は、近いうちに歴史HP用素材集を作ってみます。

[266へのレス] Re: 裏辺さんに質問です。 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/11/29(Sat) 01:28
暇人ゆえというやつでして・・。

農家は多少の例外はありますが、あさひととも仕事をはじめ、日没とともに仕事を終えるんで。

[239] 三角貿易 投稿者:小春 投稿日:2003/11/26(Wed) 18:17
『1500年、ポルトガルはブラジルを領土とし、この地で砂糖プランテーションを始めます。しかし、必要な大量の労働力がありません。白人達は既にヨーロッパで奴隷として使われていたアフリカの黒人に目をつけたのです。白人の奴隷商人達はアフリカの大部族と取り引きをして、黒人を捕らえさせたりもしました。奴隷商人はアフリカの王達に銃やヨーロッパの品々を与え、黒人奴隷を手に入れます。そして、新大陸で奴隷を売り、砂糖をヨーロッパに運びます。また、ヨーロッパで銃等を仕入れて…と繰り返します。船での輸送ではひどい時には半分以上の黒人が病気や自殺で死んでしまいました。それでも、奴隷貿易の利益は大きく、年間8〜10万人もの黒人が黒い輸出品として新大陸へ送られたといわれています。1545年、ポルトガル国王がブラジルにアフリカの黒人奴隷の買い入れを許可し、取り引きには税がかけられ、ブラジルとポルトガルに税金が入ったのです』と本で読んだのですが…。

質問@
ヨーロッパの品々に相当する以上、アフリカで大量の黒人と交換し、新大陸で黒人を高く売り、砂糖を安く買ったこと等から、白人の奴隷商人達は莫大な利益を得たのですか?

質問A
新大陸で黒人を買った砂糖プランテーションの農場主はポルトガルから移住した人達なのですか?

質問B
上記の「取り引きには税がかけられ、ブラジルとポルトガルに税金が入った」の意味を分かりやすく教えて下さい。

宜しくお願い致します。

[239へのレス] Re: 三角貿易 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/11/26(Wed) 20:12
はじめまして小春さん。
大黒屋です、よろしく。

大航海時代の暗黒面、奴隷貿易ですが・・。
>質問@
三角貿易の利点、それは航海の間船倉を空にせずに済むことです。現在のトラック輸送もそうですが、航海をするということはそれだけで結構なコストがかかります。水、食料はもちろん、人件費、船主が別にいるなら船の使用料、ある程度の長期航海なら船の武装も必要です。ここからもお分かりのとおり船倉は常にいっぱいにして航海したいというのが人情です。もちろんすべての海上商人がこのような形での三角貿易に従事したわけではありませんが、利益を上げる上でとても効率がいいのはご理解いただけると思います。

>質問A
新大陸の砂糖プランテーション農場主がすべてポルトガル人というわけではありません。トリデリシャス条約の締結後新大陸の権益はスペインの独占がほぼ確定的になります。ブラジルはその中にあってカブラルというポルトガル人の漂着が契機となって建設された新大陸で数少ないポルトガル植民地になります。ちなみに現在ラテンアメリカ諸国はブラジルを除き、ほとんどがスペイン語を公用語としています。したがってこの質問の答えはブラジルでは多くはそうであったろうが、他の南米地域においてはスペイン人がほとんどを占めたであろうということになります。

>質問B
もちろん例外はあったでしょう。しかし税を逃れて取引を行うということ、それはつまり密貿易・・。密貿易商人は主にこう呼ばれます・・、海賊と。

>アフリカの大部族と取り引きをして
黒人奴隷貿易で莫大な富と権力と軍事力を得たアフリカの大部族長、彼らの荘厳な邸宅、いえ宮殿といったほうがいいですね、それがギニア湾岸諸国のどこだかに保存公開されていたはずです。

>三角貿易
後の時代に形を変えアジアでも展開されます。それは英、印、清の三国で行われそして戦争へと発展します。アヘン戦争です。

[239へのレス] Re: 三角貿易 投稿者:小春 投稿日:2003/11/26(Wed) 23:41
お返事有り難うございます。質問Aは分かったのですが、質問@とBがいまひとつ分かりません。質問@のお答えについて、仰る意味は分かるのですが、この質問は奴隷貿易のみを専門とした商人に限らせて頂きたいのです。そのような商人は存在しなかったでしょうか?そのような商人もヨーロッパからアフリカに向かう際にはヨーロッパの品々を目一杯積み、アフリカからブラジルに向かう際には黒人を目一杯積み、ブラジルからヨーロッパに戻る際には砂糖を目一杯積みと、船の利用率が常に高かったということが莫大な利益を得られた理由ですかね?更にヨーロッパの品々の原価に比べ、アフリカで大量の黒人と交換し、ブラジルで黒人を高く売り、砂糖を安く買い、ヨーロッパで高く売ったというのも理由にはなりませんか?

[239へのレス] Re: 三角貿易 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/11/27(Thu) 01:18
奴隷商人たちがヨーロッパからアフリカに持ち込んだものは多々あったでしょうが主力は武器であったと考えられます。
アフリカの部族長たちはその武器で他の部族に戦争を仕掛け、その捕虜を奴隷として売りさばく、もしくは武器の代金として奴隷商人に引き渡す。奴隷商人はその奴隷たちを船倉にすし詰めにして奴隷の需要のある新大陸へ向かう。大航海時代の初期にあって新大陸からヨーロッパにもたらされたのは銀であったと思います。鉱山開発に大量の奴隷労働力を投下していたはずです。プランテーションによる砂糖生産が発達するのはこの鉱産資源が枯渇してからだったと思います。いかがでしょうか?

で、質問Bなんですが、すいません質問の意図するところがわからないのです。読んでそのままだと思うのですが・・。

[239へのレス] Re: 三角貿易 投稿者:小春 投稿日:2003/11/27(Thu) 09:40
お返事有り難うございます。仰るようにブラジルからヨーロッパへの輸出品は初めは銀だったのかもしれませんが、私の読んだ本は砂糖の時期の話しになっていました。この度の質問はポルトガル、ブラジル、アフリカ間の三角貿易で、砂糖プランテーションの条件に限って、お答え頂けないでしょうか。繰り返しになりますが、質問させて頂きます。良かったら、お答え下さい。

この質問は奴隷貿易のみを専門とした商人に限らせて頂きたいのです。そのような商人は存在しなかったでしょうか?そのような商人もヨーロッパからアフリカに向かう際にはヨーロッパの品々を目一杯積み、アフリカからブラジルに向かう際には黒人を目一杯積み、ブラジルからヨーロッパに戻る際には砂糖(銀でも構いません)を目一杯積みと、船の利用率が常に高かったということが莫大な利益を得られた理由ですかね?更にヨーロッパの品々の原価に比べ、アフリカで大量の黒人と交換し、ブラジルで黒人を高く売り、砂糖(銀でも
構いません)を安く買い、ヨーロッパで高く売ったというのも理由にはなりませんか?質問Bの「取り引きには税がかけられ、ブラジルとポルトガルに税金が入った」というのはアフリカでヨーロッパの商品を売る際に税金をとったということですか?

[239へのレス] Re: 三角貿易 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/11/27(Thu) 10:12 <HOME>
ども、こういう完全に専門的なことで解らない場合は、
類似の本で一度探されてみることもお勧めします。

奴隷貿易のみを専門とした商人は・・・
いてもおかしくはないですが、基本的には元々何かの商売をやっていた商人が、
奴隷貿易に乗り出したと考えるのが自然だと思うのですが。
また、奴隷貿易だけだと、利益が薄く、船の稼働率も悪く・・。
少なくとも、本の書き方で見れば、それが一般的ではあったはずです。
例外はいたとは思いますけど、それは大して重要な貿易方法ではないと考えられます。

>取り引きには税がかけられ
おそらくそう言うことでしょう。アフリカでヨーロッパの商品を売る際も、
収入自体はブラジルなり、ポルトガルに本店を置く商人の懐にはいるわけですから、
そこに税金がかかると思いますよ。
また、当時のアフリカにはヨーロッパ人から税金を取る事はなかったはずなので
現地で徴収されることは、おそらく無いはずです。

[239へのレス] Re: 三角貿易 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/11/27(Thu) 12:05 <HOME>
そもそも、税金は本社の収入に課税されるわけですから、どこで貿易しようが、大元の「お財布」のある所在地にかかってきます。

アフリカに商品を売っても、その収入はブラジルとかポルトガルの本店に運ばれてきますよね?
そこは、宜しいですよね?

というか、私も「そうなんじゃないか」と思って書いているだけなので、実際の所よく解りません。やはり、申し訳ありませんが、こう言うところは自分で調べてみて頂けないでしょうか。一生懸命ウソを力説しているんじゃないかと不安で・・。

 会社組織にしろ、税金制度にしろ、そもそも現在の日本とヨーロッパのシステムは異なりますし、これが時代が16世紀とかになると、ますます今と異なる制度になります。

 時間があれば調べても良いのですが、おそらく中央公論新社の「世界の歴史」、岩波書店の「岩波講座 世界歴史」あたりに載っていると思うので、図書館に行ってみてください。

あとは、大黒屋さんに任せます(m_m)。

[239へのレス] Re: 三角貿易 投稿者:小春 投稿日:2003/11/27(Thu) 12:19
お返事有り難うございます。質問Bの件を訂正させて頂きます。「取り引きには税がかけられ、ブラジルとポルトガルに税金が入った」というのは、ブラジル側が奴隷商人の入国の際に税金をとり、そのお金がブラジルとポルトガルに入ったということですか?仰るように自分で調べてみます。有り難うございました。

[239へのレス] Re: 三角貿易 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/11/27(Thu) 12:59
う〜ん、自分は新大陸・ヨーロッパ・アフリカ間の三角貿易を想定していたのでブラジル・ポルトガル・アフリカ間となると話は変わってきますな。

せっかく裏辺さんからご指名いただきましたが私も話が専門的になりますとちょっとわかりかねます。わたしの大航海時代の歴史の知識は趣味・トリビア程度なので・・。

[239へのレス] Re: 三角貿易 投稿者:小春 投稿日:2003/11/27(Thu) 15:09
お返事有り難うございます。

>う〜ん、自分は新大陸・ヨーロッパ・アフリカ間の三角貿易を想定していたのでブラジル・ポルトガル・アフリカ間となると話は変わってきますな。

と言うか、No239の『1500年…』から始まる話しなので、始めから、ブラジル・ポルトガル・アフリカ間に限って、お話しして頂きたかったのですが…。

[239へのレス] Re: 三角貿易 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2003/11/27(Thu) 15:31 <HOME>
これはブラジル総督とポルトガルとで、
二重関税をかけたからですよ。

ブラジル総督は植民地でありながら独立区としての内政権を確立し、ポルトガル本国とは異なる税制を施行していますから、
ブラジルの関税とポルトガルの関税で、二重取りが可能なんです。

これは商人の反発を受ける物でしたが、
反発には私掠船を用いればいいですし、
何より荷物を運ばないと赤字になるので、
商人は売価設定を高めてこれに対処し、
結果的にヨーロッパ本国での砂糖の物価指数は上昇してますが、
ブラジル総督府の国庫とポルトガル王室の国庫は満たされ、
イスパニアとの間に苦戦を強いられながらも、
大航海時代の列強として君臨し続けることに成功したのです。

[239へのレス] Re: 三角貿易 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2003/11/27(Thu) 16:03 <HOME>
えーと、もう一度、本文と質問の内容を洗い直ししますね。

まず、ポルトガルのこの当時の現状は、
隣国のイスパニアに押されまくりの状況です。
黒胡椒の原産地の多くはイスパニアをはじめとした
大航海時代の列強国の支配下にあります。

そこで、ポルトガルは黒胡椒に変わる品を模索し、
ヨーロッパで非常に重宝され始めた砂糖に目を付けます。
また、砂糖から作られるお菓子にも目を付けます。

砂糖はヨーロッパでは微々たる量しか生産できず、
アフリカも気候上適切ではないので、
東南アジアや南アメリカに目を付けました。
これがポルトガルの本格的な植民地政策の開始です。

ただ、プランテーションというのはある意味、規格農業ですから、
大規模な人員配置が必要なんですね。
また、有能な農場主や仲買商人といった、
交易のラインに携わる人たちも必要になります。
そこでポルトガルはこれらをポルトガル内外に募り(国籍不問)、
プランテーションを本格的に稼働させる事を目論みます。

その結果、ポルトガル人のみ為らず、自由商人や開拓民の中からも、プランテーション経営に参画しようとする人々が集まり、
また、既に入植が行われていた人たち(多くは中規模農場主)からも参画が行われました。
とはいえ、彼らはあくまでも、経営に参画したのであり、
実際の運営は小作人を募らざるを得ない物でした。
現地人の働きては現行の入植者の元で既に働いている状況なので、
新プランで働かせるわけに行かず、
アフリカで日常的に使われていた奴隷を用いる事にしたのです。

ただ、アフリカは植民地政策が進んでいるとはいえ、
未だ王室は健在であり、また独立商人の会社が混在している状況でしたので、奴隷を仕入れるにも手間が掛かり、
費用も馬鹿にならないことから、
ポルトガル自体で直接的に、この商売をタッチする愚を避け、
ブラジル総督府を通じて奴隷貿易を実施する事にしたのです。

アフリカの独立奴隷商人や王室は奴隷を売りたい訳ですが、
それを一度ブラジル総督府(正確には総督府の商人)が買い(一回目の関税→ポルトガルの国庫)、彼らから、プランテーション主へ奴隷が買われます(二回目の税金→ブラジル総督府の国庫)。

奴隷の価格は急騰する訳ですが、
プランテーション主は必要に迫られていますから、買い入れます。

そしてプランテーション主からポルトガル国庫へ砂糖が運び込まれ、原体、或いは製品化された状態でヨーロッパの市場へ流通します。
ヨーロッパは砂糖が欲しいので、よりポルトガルに注文がだされ、
プランテーション主に増産の通達が発せられ、
増産のための人手が必要になり、
奴隷交易はどんどんと大きくなり、
しまいには本来奴隷階層身分ではない人たちが、
奴隷として売られる始末に為ってしまいました。


[239へのレス] Re: 三角貿易 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2003/11/27(Thu) 16:18 <HOME>
さて質問の回答を実施して行きます。

@の回答。
まず、当時のヨーロッパは生産性の低い、消費国家群です。
工業もまだ低迷しており、ヨーロッパは、兵器や傭兵を輸出します。
確かにジェノヴァなどのガラス細工も高値で取り引きされていたのですが・・・・・。

しかし、植民地総督府はあえて、植民地の王室や部族の権威を残し、彼らに戦を起こさせる事で、武器弾薬、傭兵の需要を高め、
当初は、奴隷階層の人たちや、戦争捕虜の兵士、民間人を安値で買い取ります。
但し、安値と書きましたが、これは武器弾薬、傭兵の価格が高いだけで、実際の所は、奴隷の価格はさほど変動していません。
つまり、武器弾薬を安く持ち込み、高く売り、
奴隷を買い取り、税金を払っても、高く売れる訳ですから、
これはある意味ボロイ商売でしょう。
また、製品を持ち帰り、輸送費の手間賃を稼ぎ、
その手間賃で武器を買い、また売る・・・・・。
儲かりますよ(笑

そんな訳で、奴隷商人はもともといた訳ですが、
商売替えをして、この商売に参画する人たちも当然居ました。

Aの回答>
ポルトガル王室が募集した人たちがメインですが、
初期入植者や外国人も当然しましたね。
というか、ポルトガルはすっごく人口少ないですから。

Bの回答。
上に書いたとおりです。
税金の多重取り。

[239へのレス] Re: 三角貿易 投稿者:小春 投稿日:2003/11/27(Thu) 17:59
お返事有り難うございます。

>反発には私掠船を用いればいいですし、

この意味を解説して頂けますか?

>そこで、ポルトガルは黒胡椒に変わる品を模索し、ヨーロッパで非常に重宝され始めた砂糖に目を付けます。また、砂糖から作られるお菓子にも目を付けます。砂糖はヨーロッパでは微々たる量しか生産できず、アフリカも気候上適切ではないので、東南アジアや南アメリカに目を付けました。これがポルトガルの本格的な植民地政策の開始です。

こちらの部分には少し異議ありです。1500年、ポルトガル総督カブラルがアジアに向かう航海の途中、嵐にあい、ブラジルに流れ着き、ポルトガル国王の名において、この地をポルトガルの領土とすると宣言したが、金や銀、香辛料等が見つからなかったため、はじめはこの地に興味を示さなかった国王だったが、砂糖の原料となるサトウキビの栽培にとてもいい土地だということが分かり、砂糖プランテーションを思いついたようですが…。

>つまり、武器弾薬を安く持ち込み、高く売り、奴隷を買い取り、税金を払っても、高く売れる訳ですから、これはある意味ボロイ商売でしょう。また、製品を持ち帰り、輸送費の手間賃を稼ぎ、その手間賃で武器を買い、また売る・・・儲かりますよ(笑

No250の「ヨーロッパの品々の原価に比べ、アフリカで大量の黒人と交換し、ブラジルで黒人を高く売り、砂糖を安く買い、ヨーロッパで高く売った」ということですよね?

[239へのレス] Re: 三角貿易 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2003/11/27(Thu) 18:28 <HOME>
>そこで、ポルトガルは黒胡椒に変わる品を模索し、ヨーロッパで非常に重宝され始めた砂糖に目を付けます。また、砂糖から作られるお菓子にも目を付けます。砂糖はヨーロッパでは微々たる量しか生産できず、アフリカも気候上適切ではないので、東南アジアや南アメリカに目を付けました。これがポルトガルの本格的な植民地政策の開始です。

>こちらの部分には少し異議ありです。1500年、ポルトガル総督カブラルがアジアに向かう航海の途中、嵐にあい、ブラジルに流れ着き、ポルトガル国王の名において、この地をポルトガルの領土とすると宣言したが、金や銀、香辛料等が見つからなかったため、はじめはこの地に興味を示さなかった国王だったが、砂糖の原料となるサトウキビの栽培にとてもいい土地だということが分かり、砂糖プランテーションを思いついたようですが…。

書き方悪かったですね。
あくまでブラジル政策の総括話としてです。
ですから細かなエピソードは割愛しています。

ただ、小春様がお書き添え下さった、文面の内容は上記文章に於いて語っていると思われますが? 如何?

もし、砂糖を原因として土地に目を付けて、植民地化したという解釈をなされてしまっていたら、これはこちらの不備ですね。
そういう意図ではありません。

私掠船を用いる>
ポルトガルにせよ、どこの国にせよ、
当時は私掠船を抱えていました。
これは要するに王国と契約した海賊です。
本来は、敵対する国家の貿易船を襲う事を目的としていますが、
時には王国の意図に反する商人を始末するのにも使いますし、
或いは、見せしめの為に損失を与える事にも使用します。
これは一見、リスクがあるように見えますが、
どこの私掠船が襲ったのかなんてそうそう解りません。
ポルトガルの立場に立った場合は、
イスパニアが襲ったのだ、と豪語しても良いのです。

或いは、洋上の上。
嵐に遭う事もあるでしょう。
皆殺しにして、王室所有の積み荷以外は海賊に与えるとして、
船は沈めてしまえば、行方不明で片づきますね。

そして言うのです。
「正しく税を納めていれば、安全な航海が出来る様に、
可能な限り便宜をはかってやれたものを」と。

>No250の「ヨーロッパの品々の原価に比べ、アフリカで大量の黒人と交換し、ブラジルで黒人を高く売り、砂糖を安く買い、ヨーロッパで高く売った」ということですよね?

概ね宜しいかと。

[239へのレス] Re: 三角貿易 投稿者:小春 投稿日:2003/11/27(Thu) 20:13
お返事有り難うございます。

>そこで、ポルトガルは黒胡椒に変わる品を模索し、ヨーロッパで非常に重宝され始めた砂糖に目を付けます。また、砂糖から作られるお菓子にも目を付けます。砂糖はヨーロッパでは微々たる量しか生産できず、アフリカも気候上適切ではないので、東南アジアや南アメリカに目を付けました。これがポルトガルの本格的な植民地政策の開始です。

>もし、砂糖を原因として土地に目を付けて、植民地化したという解釈をなされてしまっていたら、これはこちらの不備ですね。

仰るように、文面からそう解釈しました。

[221] 駱駝か馬か 投稿者:カリウス 投稿日:2003/11/25(Tue) 22:56
ずーっと目にも質問したんですが・・・。

マムルークが十字軍やモンゴルと戦った際には、彼らは駱駝に乗っていたのでしょうか? 馬に乗っていたのでしょうか?
本をみますと馬に乗っていたという前提で書かれているようですし、マムルークの絵などを見ても馬に乗っているようです。

あと、仮に馬に乗っていた場合、アラブ馬に乗っていたんでしょうか。それとも、モンゴルに対抗するため蒙古系の馬に乗っていたんでしょうか?

[221へのレス] Re: 駱駝か馬か 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/11/26(Wed) 00:15 <HOME>
馬とばかり思っていたのですが、違うのでしょうか〜?
いやあ、ラクダじゃ戦えませんって。たぶん。

馬は、多分アラブ馬でしょう。蒙古馬はアラブ世界はいなかったはずですから。
・・・美鈴ちんにバトンタッチ。

[221へのレス] Re: 駱駝か馬か 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/11/26(Wed) 00:50
らくだは結構気性が荒く、また馬と違って従順でもないらしいです。
主人の威圧的態度に対しては、かみつく、ふりおとす、しゃがみこむなどで抗議するそうです。

らくだ部隊は存在したでしょうが、部隊の中核になったかどうか・・。おそらくなったとしても戦場が非常に特殊な場合に限られたんじゃないかと予想します。砂漠のど真ん中の小さなオアシスとか。

[221へのレス] Re: 駱駝か馬か 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2003/11/26(Wed) 01:38 <HOME>
そもそもマムルークとは何か、という所がポイントですね。

これは『所有されし者』。
つまり奴隷を指します。

特に白人奴隷の戦闘員を指すんですね。
で、マムルークとしてもっとも重宝がられたのは、
トルコ人系の奴隷です。
彼らは騎馬戦の雄なる民族だったからです。

もともとアラブ人より個人戦闘力は強く、
訓練次第ではより精強となった彼らは、
スルタンの私兵として活躍します。

しかも、奴隷とはいえ、多くはスルタンによって任官時に解放されていたりするんですね。
もち、純然たるイスラム教徒として一般人に為るわけですが。

そんな彼らは、時に徒歩で、時に馬で、時に駱駝で、戦います。

つまり、
       マムルーク=騎兵団 
 
             という概念ではなく、

      マムルーク=エリート私兵集団

             と考えた方がいいのです。

十字軍当時のイスラム王朝は
国軍として駱駝部隊が別個に存在しましたし、
彼らは国軍のエリートとして軍にありました。

しかし、同じように
騎兵もまた国軍にあり、要として国軍にありました。

つまり、どのような事かというと、
駱駝部隊はアラビア半島とシナイ半島方面に展開し、
騎兵部隊はシルクロードや地中海方面に展開していた訳です。

だから、十字軍に参戦したマムルークが馬の騎兵として、
血の舗装路をエルサレム界隈に築いたのはそう言う事なのですよ。

アラブに馬はもともと少数ですから、
その西、旧パルティア王国が馬の原産としていた、
ハマダーンの西、トルコやスキタイ等から馬を買い入れていたと思われます。

すると、トルコやスキタイの馬であれば、
マムルークの生国の馬であり、相性も合うでしょう。

[221へのレス] Re: 駱駝か馬か 投稿者:カリウス 投稿日:2003/11/26(Wed) 11:42
なるほど、騎兵軍団というよりはエリート私兵と考えればよいわけですな。駱駝か馬かではなく、状況に適した戦い方をしたと。

馬もトルコから買い入れていたとなれば納得がいきますな。コンテンツの参考にさせていただきます。誠にありがとう御座います。

[221へのレス] Re: 駱駝か馬か 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/11/26(Wed) 12:30
話はそれますが、ラクダの抗議には他に、ほえる、内臓をみせつける、つばをあびせるなどがあるらしい。

ところ変わればではありませんが、ラクダというと我々にはちょっと遠い存在なのでラクダ部隊にも違和感を感じてしまいます。
でも地域によっては象部隊なんてのもあるし、世界は広いですね。
そういえば中南米にはジャガーの戦士なんてのもあったっけ。

[221へのレス] Re: 駱駝か馬か 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2003/11/26(Wed) 20:30 <HOME>
駱駝部隊、戦象部隊、アステカのジャガー部隊。
この中でもっとも運用が難しいのが、
戦象部隊です。

象というは一見おとなしい感じですが、
一度、変に興奮すると、手が付けらなくなるんですね。
もう乗り手も味方も、隣の象もお構いなし・・・・・。

だから、戦象部隊の大混乱は、味方戦線が瓦解する事を意味しちゃうんですよ。
ま、上手く敵の方に突っ込んでくれれば、敵が壊滅するだけですが。もう、混乱の場合は、運ですね。

そんな物なので、アフリカやインド、マレーシアでは確かに、
よく使われた戦象部隊でしたが、
戦争の形態の変化と共に真っ先に消えていきます。

駱駝部隊は実は第二次大戦のアフリカ戦線やアラビア戦線にも、
少数ながら登場します。
駱駝は確かに不順応的な動物で、非常に気まぐれなんですが、
気の強さが幸いして、
戦の混乱にも余り動じないんですね。
むしろ、攻撃的。

猛獣を戦闘に従事させるというのは、
結構何処の国でも見られます。
ただ、どのように訓練しても、
火矢などの火箭の前には大混乱を発生させるので、
戦争の形態が、ある程度整い出すと、
余り使われなくなりましたね。

[230] セレブの肖像 投稿者:蕭月(しょうげつ) 投稿日:2003/11/26(Wed) 07:17
コンビニなどでよく並んでいるオマケ付きお菓子、「食玩」といいますが、
歴史系のやつで「セレブの肖像」ってのが出ます。
http://www.net-r.co.jp/g-koro/s_serebu.html

ヴィーナス、モナリザ、ゴッホ自画像
ベートーベン、ショパン、シューベルト
ルーズベルト、チャーチル、スターリン
そして、シークレットで写楽。

絵画と音楽家はいいんですが、ヤルタ会談の3人はやめてくれよって感じですよねえ。
こんな3人の胸像なんて、飾る気せんわ(笑)。
もっとこう、偉人と呼ばれるような人物にして欲しかったですな。
ガンジーとか、シュバイツァーとか、エジソン、野口英世とか。

あと、音楽家の3人は、なんでこの3人なんでしょうか?
なにか特別な関係とかあるんですかね?

[230へのレス] Re: セレブの肖像 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/11/26(Wed) 07:23 <HOME>
きっと、シュー「ベルト」とルーズ「ベルト」で・・
うっ、ごほっ、ゴホッ・・。
つーか、どういう組み合わせでしょうな。有名そうな物だけを全部くっつけただけ・・・。

音楽家の方は、ベートーヴェンとシューベルトは同時代を代表する作曲家です。
正確には、シューベルトの方が後ですが、ベートーヴェンと会ったこともあります。
ショパンを入れたのは、ただの「有名だから」でしょう。
というか、シークレットで「写楽」って・・・。

歴史HP用資料に使えるかなあ、この食玩・・・。
・・・すっごく使えそうで、使えなさそうで・・。

[230へのレス] Re: セレブの肖像 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2003/11/26(Wed) 20:18 <HOME>
あれ? ジャポネーズになんらかの影響を受けた人、作品、物というコンセプトの様な気が・・・・

違うかなぁ。
ちがわんなぁ。
でも、音楽屋はどーなんだろう。

セレブはHPに使えますが、つかいどころが問題ですね。
一応、スターリンとチャーチルはゲッチュ。
あとはルーズベルトだけですわな。


[222] 初カキコ&開国への影響 投稿者:七星瑞穂 投稿日:2003/11/25(Tue) 23:33
こんばんは。初カキコさせてもらいます。
私、七星瑞穂という者です。
中学生なので歴史に関してはほぼ無知ですが、歴史については大変興味を持っています!

本題なのですが、開国にアヘン戦争、太平天国の乱、第二次アヘン戦争(アロー戦争)に影響したという文を見たのですが、なぜ、どのように影響したかというのがどうしても分からず・・・。

それでは、よろしくおねがいします。

[222へのレス] Re: 初カキコ&開国への影響 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/11/26(Wed) 00:18 <HOME>
どうもです、メールを下さった人ですね。受験に関係なくても、ガンガン歴史勉強しちゃって下さい。
大学にはいると、色々なところで必要になってきます。理科系だって同じです。

・・で。
ちょっと、「に」の使い方が違うようで、イマイチ文章が解りません。
幕府の開国とアヘン戦争などの関係のことでしょうか。だとしたら、これは至極簡単。
あの、大国である中国の「清」が、ヨーロッパにボコボコにやられたから、
ここは戦争になる前に、ヨーロッパと平和理に条約を結んだ方が良い、と判断されたわけです。
これに、もちろん「ヨーロッパ人は追い払え」という反対も出て、幕末は日本が混乱するわけです。

[222へのレス] Re: 初カキコ&開国への影響 投稿者:七星瑞穂 投稿日:2003/11/26(Wed) 00:55
あ、本当だ・・・。間違ってる。
主旨は「開国に対してアヘン戦争――がどのように影響したのか」ということです。大変失礼しました。

なるほど。ちょっと深読みしすぎたようで難しく考えてしまったようです。

早速の回答ありがとうございました。

[177] こんばんは。 投稿者:樹花 投稿日:2003/11/16(Sun) 00:28
はじめまして。私は東京都内の女子校に通う高校一年生です。実は体育の授業で創作ダンスをやることになり、私の班は「楊貴妃」を(選んだ曲が中国系の音楽だったためなんとなく{・・・})主題に作っていくことになりました。まあ一通りのことは歴史好きの友人にきいて、その後自分でも色々調べてみたのですが、やはり断片的な知識しかないので、時代背景など、なかなかぴんときませんし、なぜか読むものによって亡くなり方が違ったりしています。
どんな人か、またなぜそうなってしまったのか、できれば流れで教えていただきたいのですが・・。どうにも彼女がどんな人なのかつかめないのです。いきなりですが、ご教授いただけたら幸いです。


[177へのレス] Re: こんばんは。 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/11/16(Sun) 11:22
はじめまして。
大黒屋といいます、これを機会に歴史を好きになっていただくと幸いです。

で、お尋ねの楊貴妃ですが・・・。彼女自身の人となりといいますとちょっとわかりませんね。これは彼女だけのことでなく歴史全体から見て女性に関する記録がすくないためです。ましてや彼女は千年以上前の人物ですから。私の知る彼女の人となりといえばライチーが好きだったらしいぐらいです。

でもま〜、時代背景とかなら。
彼女は中国唐の時代、唐王朝第六代皇帝玄宗の寵姫です。ちなみに楊というのは彼女の姓、貴妃というのは寵姫としての位です。
玄宗皇帝は若くして皇帝に即位しはじめこそ唐中興の祖と呼ばれるにふさわしい安定した政治を行いました。彼の即位した時代は則天武后(武則天)以来混乱していた政治がようやく収束の兆しを見せていた時代だったんですね。他にも唐建国以来のシステム均田制やそれに付随した府兵制が崩壊し新たなシステムを模索していた時代です。均田制というのは日本史でも出てきたのとほぼ同じです。当然ですね日本はこの唐のシステムを模倣したのですから・・。詳しいことは省略しますが要するに国土すべてを国有化し、農民に土地を貸し与える制度、う〜ん共産主義ちっく。府兵制は農民に土地を貸し与えたんだからその税金の一環として兵役につきなさいということです。

んで、崩壊した制度にかわって募兵制を導入します。要するに傭兵軍団ですね。均田制崩壊の原因は荘園と呼ばれる私有地の増加と農民に貸す土地が枯渇したためですが、募兵制はこの荘園の所有者、地主さんですね、彼らに兵士を集めさせたわけです。そうして集めた傭兵軍団を辺境に配備します。それだけでなくこの傭兵軍団の司令官に軍事だけでなく行政の権限も与えたわけです。節度使といいます。

ま〜そういった政治改革を若いころから苦労してやったおかげで玄宗はすっかり政治に飽きちゃったみたいなんですね。そこで登場するのが楊貴妃です。そのときの玄宗ははっきり老人でもう迎えが来ても不思議でもなかったんですがこの楊貴妃のとりこになってしまい、彼女の喜ぶことなら何でもやっちゃうという有様。それこそ若いころから積み上げた自分の業績が水泡に帰してもいいぐらいの勢いだったんですね。う〜ん恋は盲目。
玄宗は彼女が喜んでくれるんじゃないかってんで彼女の一族を国家の要職に次々と抜擢、こうなると政治は大混乱です。当然ですね、皇帝の愛妾の一族というだけで人事が決められては他の人々はやってられません。またこの楊一族も無能だったこともあり、とうとうことは内乱に発展します。それだけにとどまらず唐はもう一時の繁栄をとり戻すことなく、滅亡の道を歩むこととなります。

老人の女狂いから国家を滅ぼしたとして楊貴妃は悪女として名を残すこととなります。彼女自身はそれほど悪いことをやったわけではないと思うんですけどね〜。皇帝に愛されたこと、一族に繁栄してほしいと思うということというのは悪事ではありませんから・・。

あくまで国を滅ぼしたのはこのじじいに責任があり、楊貴妃は・・。

[177へのレス] Re: こんばんは。 投稿者:樹花 投稿日:2003/11/16(Sun) 12:39
ご返答ありがとうございます。

まあ・・・なんというか、彼女にとってはとんだとばっちりだったわけですね。かわいそうに。玄宗さんといえば現国の中国歴史年表にも載っている人ですが、そんな豊臣秀吉級の愚行をやるとは。
しかし、そんな千年も前の人物である彼女がライチ好きであることまで
伝わっていると云うことは・・・。奥が深いぞ中国史。
ところで楊貴妃さんは、玄宗の宦官である人に暗殺されたとか、取り囲んだ兵士達に絹の布で絞め殺されたとか色々云われていますが、真意のほどはいかがだったのでしょう。そして万事の元凶である玄宗さんは一体・・・?

[177へのレス] Re: こんばんは。 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2003/11/16(Sun) 14:18
玄宗と楊貴妃のその後ですが・・、すいません私にはわかりません。きっと博学なここの管理人様方が教えてくださるでしょう。

ただ、この内乱、首謀者の名をとって安史の乱(前期を安禄山、後期を史思明)といいますが、その原因と責任を玄宗にはもとめなかったであろうということです。
これは儒教の思想で皇帝を弑逆するのは大罪ですが、君側の奸(主君のそばにあって悪事を働くもの)を討つことは善行であるからです。

ま〜今とは思想、倫理観すべてちがうよってことで・・。

また、ことが内乱にまで発展したことにも当時の時代背景があります。前述の節度使ですが簡単に書いたのでよくわからないかもしれませんが、あれは要するに国内に強大な軍事力と行政権を持った地方政権が成立するのを認めたわけで中央政権が彼らにそぐわぬことをすれば簡単に反旗を翻す、そういう時代だったというのが楊貴妃の悲劇ですね。

[177へのレス] Re: こんばんは。 投稿者:美鈴ちん@岳飛 投稿日:2003/11/16(Sun) 15:02 <HOME>
はじめまして、樹花さん。
楊貴妃については、後日に付け足された事が多すぎて、
真実が掴みにくいことと思います。
また、日本における楊貴妃の捉え方と中国における楊貴妃の捉え方にも大きな差があるんですね。

日本だと・・・そうですね、悲劇のヒロインと言う感じですかね?
でも、中国だとそうでもない。
傾国の美女にして、悪女という一面もあるんですよ。

ここら辺は唐史玄宗伝や随唐演義等を参考にされると良いと思います。
唐史はともかく、随唐演義は小説家田中芳樹の奥さんが日本語訳をなさり、田中氏本人が加筆した物が、小説として出版されているので、公立図書館や、或いは学校の図書室に置いてあるかもしれません。

で、楊貴妃から書きましょう。
楊貴妃、もちろん、名前ではありません。
楊氏の娘。位は貴妃(第三夫人位、但し王朝や皇帝により、称号位や名称は随時変動)。

信頼出来る資料を採用すると、次のようになります。
楊貴妃こと、楊玉環はごく幼い頃、父母を失い、
資産家の楊家の養女となります。
見識高く、利発で美しい娘であった事から、
むしろ買い取られたと見るべきでしょうね。

その後、楊家の政略の一環として、
皇帝:李隆基(玄宗)の沢山の息子の内の一人、寿王の側役として
仕えるべく、宮中に送り込まれる。
寿王は楊玉環を見初め、これを后とする。

にわかに後宮では皇妃(正妃)たる武氏が病没し、
怖い物の無くなった李隆基は『開元の治』に飽いて、
「朕、傾国の美姫を得て、終生の愉しみと欲っさん」
と嘯き、宮女狩りを断行。
新たに梅氏を賓妃として迎えるも、これに飽きたらず、
さらなる宮女狩りを断行。
折しも、李隆基の長兄にあたる寧王が梅妃に絡む事件を起こし、
寧王を救出すべく、彼の親友の楊廻(正確には字が違うけど)が、
一計を用いて、寿王の后が絶世の美女であり、古今東西のいずれの美女にも勝ると李隆基に囁き、
興味を大きく煽る。

李隆基は梅妃に並ぶ、花を得た気分で、
楊氏を寿王より奉納させ、手順を用いて、貴妃に据える。

楊氏VS梅妃の争い
ハッキリ言って滅茶苦茶楊貴妃が悪女に書かれる場面です。

楊妃は梅妃を見事にノイローゼ追いつめて、これを死亡させ、
ついに皇帝のお気に入り第1位の座をゲットする。
同時に楊家の兄弟姉妹が李隆基の側近として、
幅を効かせるようになる(代表が義兄の楊国柱)。

また、楊妃の三人の姉もそれぞれ夫人位を与えられ、国政を壟断する。

この頃、安禄山がにわかに皇帝に近づき、
その意を得る様になる。
結果、楊貴妃と安禄山が蜜月の時代を共にする。
が、兄楊国柱と安禄山の中は険悪であり、
さらに宰相との中も険悪であり、
権力は三者鼎立状態となり、政治は麻の如く乱れ始める。

その中で、楊貴妃は今や情夫となり仰せた安禄山をさらに高位につかせるべく策謀を巡らす。

しかし、その為に宰相と楊国柱と安禄山の関係はますます険悪になり、安禄山は『奸臣滅誅』を旗印に挙兵。
破竹の勢いで、長安を脅かす。

その頃、荒む政治にブチ切れた心ある家臣は、
皇太子に挙兵を促し、これに成功させる。
皇太子軍、「諸悪の根元は楊家に始まる」として、
長安の西、成都へ避難しようとしていた、李隆基と楊貴妃の一段を補足し、追撃戦の末、捕縛。

現皇帝に対して楊貴妃の身柄を引き渡す様に通告するが、
皇帝は拒絶。
「黄君の装身に臣下が手をかけるは不義」というのが理由。
が、楊貴妃を処理しないと兵が収まらない事を嘆願され、
やむなく宦官にして李隆基の側近でもあった高力士に扼殺を命じる。
貴人の処刑方法に基づき、絹布を用いて縊死させられます。
この光景は、挙兵した皇太子軍の怒りを静めるために実施したので、高い塔の上で行われ、怒りに燃える兵士たちの眼前で実施されたとされています。

で、楊貴妃死亡。

これが大まかな流れですね。
この後、安禄山は自分の息子に殺されます。
高力士はこの直後に記録上は病没してます。
玄宗は、長安に連れ戻されるも、
息子との折り合いが悪く、失意の内に記録上は病没。
楊国柱は皇太子挙兵に際して、真っ先に殺害されてます。

とこんな感じですね。

[177へのレス] Re: こんばんは。 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2003/11/16(Sun) 16:44 <HOME>
初めまして(最近、歴史掲示板が活性化しているなあ、よしよし)。
言いたいことは、他の人が言ってしまったので、これ以上付け加えることはないですねえ。

まとめますと、結局の所、楊貴妃自体は、普通の妃です。他の宮廷の女性と同じように
玄宗皇帝の寵愛をもらうべく、宮廷内の権力闘争に勝ち上がり
中国では一族を大切にしますから、もちろん一族の出世もお願いします。

ただ、それでも楊貴妃が特に評判が悪いのは
1.老いた皇帝である玄宗をたぶらかした
2.そもそも玄宗皇帝の息子の妃だったのに・・・
3.呑気に寵愛もらっている場合じゃねーだろ
というイメージが付くからでしょうね。

だいたい、そもそも中国では女性が政治に絡むことを極端に嫌う傾向があります。
ですから、あれだけ大きな業績を残した即天武后でさえ、悪女としてバッサリ切り捨てられています。

まあ悪いのは皇帝なんですけど、よほどのことがな