[869] アメリカ合衆国皇帝 ノートン1世 投稿者:蕭月(しょうげつ) 投稿日:2004/03/08(Mon) 02:54
「アメリカ合衆国に皇帝がいた!!」
誰がこんな話を信じるであろうか?

以前、何のテレビ番組かは忘れましたが、このノートン1世についてやっていたのをみた事があったんです。
ネットで検索してみると、以下のサイトが、わかりやすく面白く書かれてありました。

ポレポレ不思議面白話
http://www.din.or.jp/~aizawa/omo.html

このサイトには、他にもいくつか変わった話が載っているんですが、
・ 女王陛下の命の恩人?
・ 海の不思議<その1>
この2つは、かなり面白いですよ。
小学生の頃、図書館でこんな感じの不思議話の本をワクワクしながら読んでいたのを思い出しました(笑)。

[869へのレス] Re: アメリカ合衆国皇帝 ノートン1世 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2004/03/08(Mon) 09:03 <HOME>
面白すぎますノートン1世!
調べてみたところ紹介しているサイトが少ないので、基本的にはポレポレ不思議面白話以上の内容はゲットできませんでしたが、日本テレビでやっていた『超偉人』シリーズに登場したようです。

彼についての本も1冊あるみたいですが、現在は絶版のようで。
うちのサイトでもこういう話やってみたいけど、資料がないんじゃ出来ないなあ。
日本とハワイ王国を合併させようとしたカラカウア王の話でもやってみようかしら。わざわざ世界旅行の途中で日本を訪問し、自分の姪と日本の皇室の男性(山階宮定麿親王)と姻戚関係を結び、生まれた子供に王位を継がせ、究極的には日本とハワイで合併しましょうと提案したけど断られてしまった国王です。

[869へのレス] Re: アメリカ合衆国皇帝 ノートン1世 投稿者:蕭月(しょうげつ) 投稿日:2004/03/08(Mon) 19:06
>日本テレビでやっていた『超偉人』シリーズ

あ、やっぱりそれでしたか。
たしか『世界超偉人1万人伝説』とかいうタイトルで、続編が出るたびに数字が増えていっていました(笑)。5、6回ぐらいは特番のシリーズとして続いていたと思います。
この番組ムチャクチャ面白くて、自分は4本ぐらいビデオに録って、いまだに残してあるんで、またヒマな時にでもノートン1世の話が入っていないか調べてみます。
シリーズはまだ続くような感じだったんですが、もう何年もやっていないところをみると、終わってしまったんだろうか…。

>彼についての本も1冊あるみたいですが、現在は絶版のようで。
>うちのサイトでもこういう話やってみたいけど、資料がないんじゃ出来ないなあ

意外に資料は少ないんですね。
もし、『世界超偉人』のビデオにノートン1世の話が残っていたら、そのうちビデオキャプチャーの動画データを裏辺さんにお渡ししますので、裏研で取り上げて下さい。

>日本とハワイ王国を合併させようとしたカラカウア王
>究極的には日本とハワイで合併しましょうと提案

これは『世界不思議発見』でやっていたのを見た記憶が。
単純に想像すると、合併した方が両方得な事が多そうな気がしますけどね。

[869へのレス] Re: アメリカ合衆国皇帝 ノートン1世 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2004/03/08(Mon) 19:24 <HOME>
ノートン一世を取り扱う書籍は、
歴史の本よりも雑学やネタ本だと結構あると思いますよ。

ハワイ合併>
いや、もうこの頃のハワイは合併したら爆弾抱えるシロモノです。
もっとも、日本艦隊は何を考えたか出撃してますが・・・。
この辺りから、何となく日本vsアメリカの対立構造がハワイにも解るくらいのモノだったのかな、と思います。

[798] >バトウの遠征by城塞都市の攻略 投稿者:地欠王 投稿日:2004/02/28(Sat) 13:42
 あまりにも長くなったんで新たにスレたてました。
 管理人さまの許可(?)も出たみたいですし。
 勝手ながらすみません。

>明倫北斗 さん
>そして徹底的なる差は、ムハメッド2世には自己の軍隊の死傷を痛む、まともな神経が存在する。 だがね・・悪いがバトウには、そのような人道的神経などあるのでしょうかね?

 ムハメッド2世には自己の軍隊の死傷を痛む、神経があるかどうかには『?』です。
 なんと言ってもメフメット2世は、自軍の歩兵がコンスタンティノープルの壁に取り付いているさなか後ろから、容赦なくバンバン城壁に砲撃を加えるよう命じるスルタンですから。

>クマン人 ブルガリア人、セルビア人を先に立て、コンスタンチノーブルの北面のテオドシウス城壁を攀じ登らせるでしょう。

 確かにこの様な作戦を取ると思われますが、シビアな見方をすると、彼らは蒙古人にとっては縁も薄いし、ゆかりも有りません。あんまり心を痛めないのも理解できます。しかも戦争捕虜の有効活用と言っても過言ではないかと。当時としては常套手段ですし。
 確かにオスマン=トルコの前衛の歩兵も外国部隊が多く当てられていましたが、当然トルコの下層階級歩兵がその数からして東欧の従属国より多いです。さらに、メフメット2世は父親と違いイェニチェリとの親交も淡白ですし。

 チョッと痛い突っ込みになるかもしれませんが、失礼とは思いつつもさせてもらいました。

>第6回十字軍がこの地に救援に駆け付ける前にバトウがこの城郭都市が落せるか、どうかですね?

 これは同感ですね。しかし、落とせなくとも、野戦になればまったく問題なかったでしょうね。当時のモンゴル勢からすれば。コンスタンティノープル内にいる兵力も私のうろ覚えではたかが知れてますし。
 むしろ喜ばしいでしょう。攻城戦を抜きで城の兵力を一掃するチャンスです。城内に立て篭もる兵力が挟み撃ちを考えて出てきてくれれば、モンゴル側にとっては、まさに儲けもんでしょう。

 厄介なのは、マルマラ海峡回りでコンスタンティノープルへの直接の入城でしょう。率いる十字軍の大将が誰であれ、戦うならこの作戦を取るのが現実性が高いでしょう。あの城塞都市に大兵力が投入されたらおそらく誰も落とせません。しかも海上側からの封鎖はモンゴル勢には不可能ですから。入城阻止はむりな上、物資補給も思いのまま。

 明倫北斗さんが先にお書きになっておられますが、この頃はニケーア帝国が健在。なんと言ってもこの国は教皇庁エゴ、フランス名誉、ベネチア権益のための傀儡国家。まずは、教皇庁が躍起になって十字軍を提唱するのは想像に易いかと。次にベネチアが、必死になって自らの利益を守るために動くでしょう。
 おそらく防衛にはこの二勢力のみの活発な活動だけでも相当なものとなるかと。教皇庁が大義名分をベネチアが、お金と海軍力(制海権や補給)をこれで万事安泰です(言いすぎですかね?)。教皇庁は言わずもがな。ベネチアという国は、自らの権益を守るためならどんな出費もいといません十人委員会で即決で、動きも速いでしょう。

 いや…ベネチアからすれば西欧とモンゴルの直接対決は避けたいところか?当時黒海周辺を手中にしているモンゴルと戦えば、黒海貿易が成り立たなくなる…。黒海貿易独占のためのラテン帝国ですから。むしろラテン帝国からモンゴルに乗り換えるほうがよい…?
 
 まあ、現実的に見て西欧勢と一緒に戦って、終戦(陥落、防衛の双方)や戦争の長期化をへてのモンゴルとの直接講和と見るのが妥当でしょうか?トルコのコンスタンティノープル攻略時の例もありますし。しかし、結局は黒海貿易から締め出される事に変わりが無いか?

 いや、オゴタイの死でモンゴル軍の動きが近いうちに鈍るのは間違いないので、その時を逃さずコンスタンティノープルを守りきっての単独講和が現実的ですね。モンゴル勢もオゴタイの死でこれ以上戦争は続けたくないでしょうし、オゴタイが亡くなれば陥落如何にかかわらず。十字軍側と講和を結ぶのは間違いないのではないでしょうか?

 教皇庁としては、
 コンスタンティノープルがモンゴルに占領されてたとしても、モンゴルが教皇庁のつまり、自分たちローマカトリックの存在を尊重・容認すれば、根本的な問題はありませんから。むしろ、エルサレム回復へモンゴルをつかえるかも。安易な考えですかね?かなり…
 とにかくこれは、モンゴルが異教徒に当たる(する)かどうかの教皇庁の判断によりますね。しかし、ローも法王が、あの名高いインノケンティウス3世ですし…どうなんでしょか…?

 神聖ローマ帝国としては、皇帝は、あの現実主義者のフェデリコ。講和に難色を示すとは考えにくいかと。

 つーか、場か長くて真に申し訳ありません。自問自答な内容ですし…
 皆さんに触発されて、柄にも無くなんかやたら考えてしまいました(笑)
 一人で熱くなってますね。毎度ながら…
 出来れば、レスつけていただけるとありがたいです。お願いします。

[798へのレス] Re: >バトウの遠征by城塞都市の攻略 投稿者:明倫北斗 投稿日:2004/02/29(Sun) 00:52
地欠王さま
そ そ、そのとおりでした。私、何んて馬鹿なんでしよう。
第6回十字軍、バトウ軍を撃滅するために陸路を取るものばかりと思いこんでいました。
確かにベネチアを経由し、海軍力にてコンスタンチノーブルに金角湾から入城すればよいのです。 そしてモンゴル軍に倍する兵力にて篭城をすれば、もうバトウは手の出しようがありませんね
ローマ法王の出撃叱咤は、何んのかんのと理由をつければいいのですからね、このような名作戦を立案する蒋は必ずいるはずですからね
何んでこんな簡単なことがわからなかったのでしようか?
十字軍はいつもイェレサレムやコンスタンチノーブルの攻めてにいたから、このような野戦で戦うとばかり思いこんでいました
そうですよ、篭城すればいいんですよ、これならバトウに勝てます。
いや、よく指摘していただきましたありがとうございました。

[798へのレス] Re: >バトウの遠征by城塞都市の攻略 投稿者:脱走兵・壱 投稿日:2004/02/29(Sun) 08:24
敵の敵は味方と言いますか、蒙古軍団に遭遇する前は
カトリック圏西欧はイスラム圏と戦争状態にあったのですから
そのイスラム圏に攻めてきた蒙古軍団は、西洋にとっては
敵対するのと講和するのと、どちらが妥当だったんでしょうか?
もっとも、キプチャックとイルハンは別モノと考えたとすれば
直接、西進してきたバトゥ軍団は脅威であったでしょうが。
個人的にはワ−ルシュタットの戦いは、不幸な遭遇戦であったのでは
ないかと思います、逃げたボロヴェツ人勢力を追って進軍してきた
キプチャック軍に対しドイツ・ポ−ランド連合軍が過剰反応をし
両軍衝突したような感があります、ロシアでも日本でもモンゴル軍
は一応、恭順か講和条件を持ち出して拒否されてから攻撃という
手順を踏んでましたので、対西欧戦の場合も最初に使者の行き来が
あったんでしょうか?

[798へのレス] Re: >バトウの遠征by城塞都市の攻略 投稿者:地欠王 投稿日:2004/02/29(Sun) 22:52
>明倫北斗 さん
>何んでこんな簡単なことがわからなかったのでしようか?

 勝手に邪推させて頂きますが、おそらく、それまでのギリシャ正教とローマカトリックの対立からなんじゃあ?もし、ラテン帝国でなければ、西欧勢の入城は色々問題が出てきそうです。当時のキリスト教の東と西の対立は強烈ですかね。
 ビザンチンの皇帝は必死にローマに援軍を求めてますけど、最悪考えられる場合十字軍が入城したら入城したで、彼らがふんぞり返って威張り散らすだけでなく、略奪とかもしそうです…。
 あと、十字軍ってのはパッと見の印象「守り」ってよりも「攻め」ですからね。例となるような有名な、篭城ってのは十字軍には有りませんし。

>脱走兵・壱 さん
>イスラム圏に攻めてきた蒙古軍団は、西洋にとっては敵対するのと講和するのと、どちらが妥当だったんでしょうか?
 
 それは間違いなく講和でしょう。当時は、絶対王政前で各国共に国内問題で手一杯ですし。イスラム以外に敵を増やすのは、マイナスの部分が余りにも多いかと。まあ、狂信的なナショナリズムってものは、いたって簡単にそんなもの無視してくれますが…。
 さらに西欧勢としては、直接自領を犯されたわけではないのでわざわざ対立する必要ないでしょうし。
 モンゴルが聖地エルサレムでも占領すれば別ですが。それでも西欧勢としてはモンゴルをキリスト教国(キリスト容認国)として講和するのが最も理想的ですね。

>個人的にはワ−ルシュタットの戦いは、不幸な遭遇戦であったのでは〜両軍衝突したような感があります、

 確かにそんな感じもありますね。でもやはり自領に異国の大軍が入ってくるって現実を考えると過剰反応でもないかと。いくら後方からの補給があると言っても当時はたがが知れてます。その大軍の兵糧はじめ物資は、ほとんど現地でまかなわれる訳ですから。国内を荒らされまくりで、その年の収入が減るだけでなく、統治者としての信用も失墜します。こう考えると東欧勢の反応は自然でしょう。やはり、自国領内に外国軍隊が入ってくるってだけで色々問題おきますから(今の日本然り)。追ってきました。わかりました。はいどうぞとは、行かないでしょうね。と考えてみたりします。

>西欧戦の場合も最初に使者の行き来があったんでしょうか?
 
 脱走兵・壱さんのお言葉をお借りすれば、西欧勢が過剰反応+東欧勢各国の西欧同盟国への援軍依頼⇒西十字軍・西欧諸国参戦⇒モンゴル軍さらに西進となるでしょうね。しかし、領土拡張を目的としてるわけですから降伏勧告や類似するものあたりはあるでしょう。当然西欧勢からは、モンゴル側へ使者出しまくりでしょうね。

[798へのレス] Re: >バトウの遠征by城塞都市の攻略 投稿者:明倫北斗 投稿日:2004/03/01(Mon) 00:31
脱走兵・壱さま
モヒの戦い、そしてその前に戦われたリーグニッツの戦いに関してね、ほんとに多くの研究者は、偶発戦争との観方が多いですね・・・
うーん? だがね、起るべくして起きた戦闘なのか? 両軍が過剰防衛のために起きた戦闘なのか、その判断はとても難しいですね、
だがこの戦いは、ハンガリーにおけるモヒの戦い、総大将のバトゥ4万、副将スプタイ4万がボロヴェツを追い、ベーラ4世とサヨ川での激突、ハンガリー軍10万が全滅に近い大敗北を喫したこの戦いね、
このモンゴル軍8万の本軍の横腹を北方のポーランド軍から突かれないために防衛部隊として、ハイダル軍3万が威力偵察中に、このモンゴル軍団の侵攻を防御すべき、ポーランド軍がドイツ騎士団の援軍を得て出陣したものであり、うーん・・・偶発と言えば偶発であるし、必然と言えば必然とも言えるし、とてーも難しいと思いますよ。
ただね・・・主戦場のハンガリー戦線に連動しての戦いであり、やはりこのモヒの戦い、モンゴル軍の東欧侵攻作戦が、最初からバトゥの戦略の中にあったのか? それともロシア戦線にて討ち漏らした宿敵、ボロヴェツを追っていったら、これも本土防衛の危機感から出撃した、ベーラ4世との激突になったのか?
こちらのほうをどう思うかが、この歴史事件の本筋だと思います。
私はこのモンゴルの征西に関しては、多くの文献を読んでいませんから
バトゥの戦略が南ロシアに限定していたのか、あるいはその戦略が欧州
まで包括していたのかはわかりません
ただ少ない資料を読んだ限りでは、圧倒的にバトゥの意識は、南ロシアに限定されていたとの意見が多いと思いますね
私、昔からねとてもおかしな気持ちを持っていたんですよ・・・
この大遠征はたしか1235年のクリルタイに決定され、モンゴル各家の総力を挙げてに事業でありますね・・・
大戦略の命令はオゴダイが下すのであって、バトゥの担当は戦術面に限定されていると思うのです・・・
だからこそオゴダイの崩御、つまり戦略命令が消滅したからこそ、モンゴル軍の総引き上げが開始されたのです・・
オゴダイの戦略は、南ロシアにあったのか?中東にあったのか?また中
欧まで含んでいたのか? あるいはバトゥ、お前が行けるとこまで進め?なのか、一体どれだったのでしようか? 

[798へのレス] Re: >バトウの遠征by城塞都市の攻略 投稿者:明倫北斗 投稿日:2004/03/01(Mon) 23:51
地欠王さま
わはは・・・ ご明察のとおり、右脳ではラテン帝国がコンスタンチノーブルを支配していることを理解しながら、左脳ではブザンチン帝国、アングロス朝健在と錯覚しておりましたよ、何んだーよ・・
ローマカトリックが支配するこの都市に、十字軍が救援のために入城する、ちっとも問題なんかありませんね、、本当に私、お粗末でしたね・・
さあー ところでバトゥは、フランス諸侯らの十字軍がベネチア海軍と
共に、この城塞都市に入る前に落とさなくてなりませんね、
可能でしようかね、名将バトゥ、キエフ攻略戦の時は、ありとあらゆる攻城兵器、投石機、移動高櫓、城壁突崩機、投硝薬弾台らを駆使し、歩兵部隊や坑道掘人足らを率いて、見事にこの堅城を落としました。
だが、今度はキエフに数倍する天下の城壁都市のコンスタンチノーブル
市内の人心を得ておらず、それほどの兵力を保持していないとはいえ、
戦いのプロ、ラテンの騎士が守るこの城を、短い期間にてバトゥが落とすことができたでしようかね・・・
想像の世界ですから、どのような発想もできますね、
地欠王さんは、その後のバトゥの運命をどのように空想されますか?
スゴスゴとロシアに引き返すか、あるいはこの地を一時撤退し、オーストリアからモラビアあたりに転戦するか?
どんなんでしようかね・・・本当に歴史って空想すると面白いですね・・、

[798へのレス] Re: >バトウの遠征by城塞都市の攻略 投稿者:地欠王 投稿日:2004/03/06(Sat) 10:57
>地欠王さんは、その後のバトゥの運命をどのように空想されますか?

 まず。レス遅くなって申し訳ありません。
 風引いてぶっ倒れてました。
 
 私的には、空想のお話ですし、先ずはコンスタンチノープルを「落とせると」したいんですがね…。元々、イフは考えるが、IF小説は読まないたちなんで。事の意味を考えるためにイフ大切なんですけど。例えば「信長が死ななかったら?」仮定してみて「困っただろう」と結論付けるような事に使うんですが…わかりにくいですね(笑)この例(読み流してください)。
 ここまで来ると空想と空論を重ねた過ぎた妄想になってしまって、柔軟性に薄い私の空想力ではどうも補いかねます。オゴタイが死なずに「遠征を続行して戦う」までは、何とか持ちますが(笑)。

 と、まあ、言い訳した上で、とりあえず私のつたない妄想を書かせていただきます。
 
 バトゥは城塞都市を手早く落とし、十字軍間に合わず。ここを拠点に一大帝国を…と行きたいのですが…。とりあえずまだ、脳の圧が落ちたままなのでこんなお粗末な答えですが勘弁してください。
 
 
 あと、別スレで失礼しますが、ドイツ騎士団私もあらためて調べてみたいかと。ヨーロッパの組織体系として独特のこの団体。面白みがあり、かつヨーロッパ文化思考理解に多くを得そうな気がします。


>もう一度、文献をよく読みなおしてから、また地欠王さまと騎士団談義をしようと思います。
>本当にいろいろなご指導ありがとうございました。

 こちらこそお教えいただきありがとう御座いました。
 私もこの次の(いつになるかな)騎士団談義を楽しみに益々精進させていただきます。

[789] 病気と有名人 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2004/02/28(Sat) 11:31 <HOME>
まずは、バトゥスレについて明倫北斗様にレスレス。

架空は別にオッケーですが、もちろんその際には「架空」であることを明記して頂ければいいです。それに、あのスレ自体、あくまで「架空」を前提にしていますから・・・(笑)。

というか、私別に閻魔大王じゃないので、そんなに気にしないで下さい。要は、感情的になって荒れなければいいのです。

さて、色々私も書きたいのは山々ですが、どうも風邪の具合が悪く、そのくせ久しぶりに歴史共有放送局(この掲示板は、裏辺研究所でも、歴史研究所でもなく、本来は歴史共有放送局という共同運営祭との管轄なのですね)の更新をくそまじめにやったら、フラフラして参りました。

そこで。
タイトルにもあります通り、病気と有名人に関する面白いネタがあれば、是非紹介して下さいませ。少々横道それても良いです。

[789へのレス] Re: 病気と有名人 投稿者:カレ−の虎 投稿日:2004/02/28(Sat) 16:21
タイトルと関係ないのですが、最近、ブラックジャックの
復刻版を買い揃えるのに凝ってます(汗
BJ先生のような無免許名医っているもんだろうか?と思い
以前、探りを入れてみたことがあります、えぇ、いるもんです、
その人の名はフェルディナント・デマラ、BJ先生は医大に
行っていたのですが、デマラ氏は医大すら行ってません、彼は
経歴詐称をしてカナダ軍の軍医募集で採用され、朝鮮戦争の
国連軍カナダ部隊の衛生隊に配属されます、彼は傷の手当て、
虫歯の治療など時には手術まで独学、医学本を見ながらやってのけ
心臓付近に銃弾を食い込ませた韓国兵のオペを成功させ命を救い
戦場の天使と言われ有名になったのですが、名が知られ本当の身元が
ばれて本国送還となりました。

[789へのレス] Re: 病気と有名人 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2004/02/28(Sat) 19:27
そういえば、中尊寺金色堂に安置されている奥州藤原三代(清衡・基衡・秀衡)はいずれも歯槽膿漏だったと聞いたことがある。

医学がまだ未発達だった当時歯の病は大変な苦労があったでしょうね。日本古来の風習お歯黒は虫歯防止の効果があったと聞いたこともあるなぁ。

[789へのレス] Re: 病気と有名人 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2004/02/28(Sat) 19:43 <HOME>
ブラックジャックといえば、
作者の手塚治の医師免許返還問題が有りましたけど、
あれって結局どーなったんですかね?


[789へのレス] Re: 病気と有名人 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2004/02/28(Sat) 19:52 <HOME>
↑のレスだけだと脇道逸れそうなので、別ネタで。
江戸時代以前は虫歯含めて、歯の病は死病ですね。

さて、死病と言えば、
瘡という病ですが
これってかなりいい加減な病気表現なんですよね。

その瘡ですが、一件の不振事で、
秀忠の兄弟の一件があります。
つまり、結城秀康と松平忠吉ですが、
同じ年に瘡で死ぬモノかどうか・・・・。

[789へのレス] Re: 病気と有名人 投稿者:脱走兵・壱 投稿日:2004/02/28(Sat) 20:40
ピョ−トル大帝は医術マニアで側近が軽い
病気になると自分が診たようで、特に虫歯は
大帝、自ら道具を持って抜歯したので側近から
恐れられたようだ。

[789へのレス] Re: 病気と有名人 投稿者:さくらもち 投稿日:2004/02/29(Sun) 02:48
 古代ギリシャの哲学者ピタゴラスは、権力者に追われて逃げている時に、空豆畑に遭遇しましたが、空豆畑の中に入って逃げることができず、そのまま捕まって殺されたということです。

 なぜ空豆畑の中に入れなかったかというと、一説にはピタゴラス本人、またはピタゴラスの家系にソラマメ病の人間がいたからではないかといわれています。
 ソラマメ病は、地中海沿岸に住む人だけに発生する遺伝病といわれています。ソラマメ病は大人にとっても重病で、時には死ぬ場合もあるといいます。

[789へのレス] Re: 病気と有名人 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2004/02/29(Sun) 10:25 <HOME>
へえ〜、皆さんさすが博識ですね。知らないことばかりでした。ピョートル大帝の医術マニアというのは面白いですね。徳川家康は薬マニアで、最後は自分の作った薬を飲み続けて死にましたが、ピョートル大帝は手術までしたのですか・・・。恐れられた、ということは腕は悪かったんですかね。

ちなみにピョートル大帝は、変名を使って97〜98年にプロイセン・オランダ・オーストリア・イギリスなどを見学し、40日にわたって造船工場で実際にハンマーを持って船造りを手伝ったそうですが・・・。腕は器用だったのかなあ。

>ソラマメ病
いわゆるアレルギーですね。でも、食べるならともかく触れるだけでというのは、恐ろしいですね。場合によれば避けようが無く。・・・ピタゴラスは、どちらに行っても死んだわけですが。

そうえば、酒乱というのは病気にはいるのでしょうか。
酒乱と言えば、夏目漱石なんかも凄かったらしいですね。ただでさえ、精神的に弱い部分があったそうですが、お酒が入ると暴れ出したそうです。

その上、大食家のくせに胃が弱く、胃潰瘍にもかかり明治43年には大量に嘔吐し、出血して危篤状態に陥ります(しかし奇跡的に生き返ります)。しかし、その後も痔やリューマチ、さらには糖尿病にまでなり、胃潰瘍の再発により大正5年になくなるという、壮絶な病気人生ですね。

[789へのレス] Re: 病気と有名人 投稿者:朝帰又寝太郎 投稿日:2004/02/29(Sun) 17:22
中世西洋では医者は患者から畏怖の対象で、麻酔薬や麻酔技術が
確立してなかったので手術は一種の拷問でした、またペストは血を
抜けば治る〜などといった数々の迷信療法があり医術は魔術と紙一重
の世界だったのでしょう。
私は昔、歯医者で麻酔無しで虫歯の乳歯を抜かれた事がありますが
ピョ−トル大帝に虫歯を抜かれる側近らの恐怖もよく分かります(笑

横山光輝さんの漫画・三国志では
曹操は脳腫瘍が出来て医者の華陀を呼ぶのですが、華陀がオペの手順
を曹操に説明、患者を麻酔薬で眠らせ、頭蓋骨を開いて腫瘍を切除
する、と聞いた曹操は、何と野蛮な療法だと怒り華陀を投獄、
曹操は脳腫瘍が悪化して亡くなる〜という場面がありましたが、
あの時代の中国に麻酔技術はあり得たのでしょうか。

[789へのレス] Re: 病気と有名人 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2004/02/29(Sun) 21:37
初期の麻酔の主原料はたしかチョウセンアサガオだったと思います。
これが自生していた東アジアではわりと民間の麻酔療法が存在したのかもしれませんね。華陀は確か曹操に処刑された後、その著書など廃棄されたはずですから、天才の創始した医学は普及することなく歴史に埋もれたのでしょう。こういうことって歴史では結構あると思います。

麻酔が存在したかはわかりませんが、インカなどでは脳手術の痕跡とおもわれる頭蓋骨があります。さらに骨の再生状況から術後数年生き延びたようです。
ま、よくはわかりません。インカの武器は石製の棍棒ですから頭蓋骨陥没の重傷を負っても生き延びた例なのかもしれませんし・・。
それとは別ですが、インカでは頭蓋骨を変形させる風習もあったらしい。おそらくは纏足のように幼少期のうちに頭部をきつく固定したのでしょう。結果頭蓋骨は上方に細長くなるというもの。こんなことすれば脳の発達に影響がありそうですけど、シャーマンの育成だったんでしょうか?

>中世西洋の医者
理髪師と兼業だったとか


>病気と有名人
古代ローマの上流階級は鉛製のグラスにシロップを溶かしたワインを飲用し、結果鉛中毒から来る痛風に悩まされたとか・・。
おかげで現在も「贅沢病」の異名のために痛風患者が揶揄される、別に贅沢してるわけでもないのに。

[789へのレス] Re: 病気と有名人 投稿者:朝帰又寝太郎 投稿日:2004/03/01(Mon) 16:14
>インカの麻酔
コカの葉は麻酔作用があるとか聞きますね。
脳外科手術の道具らしきものは発掘されているようで、
発掘物を下に復元した道具で穿頭手術を試してみた医者が
いるそうですが。

>鉛容器でシロップワイン
最近、ベ−ト−ベンの毛髪を科学分析したら鉛成分が多量に検出
され、この作曲家が鉛中毒を患っていたらしいとのことで
彼はワインをよく飲んだことが記録されていたようです。

[789へのレス] Re: 病気と有名人 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2004/03/02(Tue) 20:50
>鉛
鉛製だったのはグラスではなく、シロップを溶かし込む際のなべだったかもしれない・・。一応念のため。

古代ローマといえば直接病気とは関係ないけど、彼らはとてもゆっくり食事したらしい、そして食事の途中でおなかがいっぱいになると嘔吐誘導剤を服用して吐き出し、また食事を再開するという・・。
なんともお食事中の方は申し訳ないという感じの風習があったそうな。結構有名な話かな?

[789へのレス] Re: 病気と有名人 投稿者:さくらもち 投稿日:2004/03/04(Thu) 02:05
 >華陀
 
 実は華陀は、曹操が死ぬ十数年以上も前に既に死んでいるので、曹操が死ぬ前に華陀を呼んだというのは、フィクションです。
 ただ、華陀が曹操の怒りをかって殺されてしまったというのは事実です。また、曹操は頭痛の持病を持っていました。そのため華陀を召し寄せて、曹操が頭痛を起こすたび、華陀は横隔膜に鍼を打つと、曹操の頭痛がウソのように引いていったとのことです。

 とはいうものの、華陀の死後も、曹操の頭痛は完治してはいませんでした。また、息子の曹沖がわずか十三歳で死んだ時、
「もし華陀であれば、沖を助けることができただろうに」
 と、華陀を殺したことを後悔していたとのことです。

[789へのレス] Re: 病気と有名人 投稿者:脱走兵・壱 投稿日:2004/03/04(Thu) 11:17
ラスプ−チンの最期の話しって凄いですよねぇ
最初、暗殺者はラスプ−チンに毒入りお菓子を勧めたが
ラス君これは旨いと平らげて死なない、酒を飲ませて眠った
ところを不意打ちにしたが銃弾をブチ込まれても痛ぇなと
言って起き出して暗殺者に迫ってくる、結局は数人がかりで
寄ってたかってブチのめし簀巻きにして凍りついた川に
放り込んで凍死させたとか。

[789へのレス] Re: 病気と有名人 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2004/03/04(Thu) 21:54 <HOME>
ひえ〜、ラスプーチンの最期って、もちろん誇張はされていると思うのですが、なかなか壮絶な物であったことが想像できます。少なくともその逸話、ラスプーチンの怪僧ぶりがよく現れているエピソードですね。

しかし、どんなに強靱な人間でも寒さには勝てなかったわけだ(笑)。

>華陀
曹操が死ぬ十数年以上も前に既に死んでいるとは知りませんでした。ということは、華陀が関羽の手術をするエピソードがありましたが、あれも時間的に考えるとフィクションだったということでしょうか?

三国志演義は、三国志への興味をかき立ててくれる一方で、非常に余計な知識も与えてくれますね・・・。

中国史といえば、三国志の後の南北朝時代の南朝。
華やかな文化の裏では魏代末より南朝にかけて麻薬「五石散」が文化人・貴族の間で大ヒットします。これは疲労回復と気分高揚の効果があり一方で毒性があります。そのため、「行散(あんさん)」とよばれる散歩が必要で、町中で多数の知識人が徘徊する姿が見られたそうです。ちなみにこの五石散を飲めば仙人になるとも信じられていて、皇帝でも飲んだとか。名君でも飲む人がいて、皆早死にしているそうです。

[789へのレス] Re: 病気と有名人 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2004/03/05(Fri) 01:18 <HOME>
三国志演義>
作者にしてからが、存在の疑わしい事夥しい。
もっとも、小説ですから、作者が架空の人物でも一行に良いのですよ。それすらも小説の一事と受け止める訳ですね。

演義と正史が異なるのは、中国では当たり前の事で、
随唐演義なども、随史や唐史と比較すると、時間的ずれが大きく、
しばし前後し、死亡した人間が生きていたりします。

逆に言うと、『演義』と書かれたモノを鵜呑みにする方が、
奇特人だと言う事になるそうで。

鉱物を飲む>
これも中国の伝統みたいなモノですね。
とにかく何でも食べるし、何でも飲みますし、何でも薬にします。
だから、亜鉛なんかはポピュラーな不老不死薬で、
開元の治の英帝たる李隆基もその毒婦の楊玉環も飲んでいたそうでございます。
ちなみに宗代の頃は、食器に銀器が使われていたそうで、
銀中毒ないのかなぁ、と。

もっとも、少し前まで日常的に阿片が横行していましたから、
中毒の類は気にしていないのかも。

[789へのレス] Re: 病気と有名人 投稿者:カレ−の虎 投稿日:2004/03/05(Fri) 07:14
江戸時代に、ほ乳類(人間も含め)のミイラの粉末を飲むと
健康に良いという迷信が流行りミイラの粉末が高値で取引され
た頃があったとか。
これもやばそうですね、肉骨粉を食うようなものだし。
しかし、この時代は狂牛病のような病気があったかどうか。

[789へのレス] Re: 病気と有名人 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2004/03/05(Fri) 22:05 <HOME>
ミイラ薬にはちょっとした理由が有るんですよ。

ミイラの作成に於いて、表面にタール分を塗り込み、
保存性を高めるんですけど、
このタールには、殺菌成分が含まれて居るんです。

この時代に限らず、
ちょっと前までは怪我はイコールで死に直結しますから、
殺菌成分を含むアルコールと共にタールもまた薬物として使用されていたみたいです。

その結果、そのタール分を多量に含む、
ミイラは北アフリカや西アジアを中心に薬物利用され、
十字軍でヨーロッパに伝わり、
西欧伝来と共に日本に伝わり重宝されるんですね。

日本人は胃痛が多いですし、
胃痛の原因はストレスもさることながら、
日本人が日常的に保菌するピロリ菌もその原因なので、
殺菌成分と消炎作用の効果を考えると、
ミイラ薬は意外と効果があったのかもしれません。

そう言えば
広島で原爆を落とされた後、
原爆症や各種火傷に人骨の粉末が効果があると信じられ、
民間療法的に利用されたみたいですが、
これも端を欲すれば似た様な理由かもしれませんね。

[824] カエサルが元老院を許した理由 投稿者:幸村 投稿日:2004/03/04(Thu) 10:48
お世話様です。
こんにちわー(´・ω・`)。
カエサルはローマを占領した後、逃げた元老院議員の復帰を許してその元老院たちに殺されてしまいますよね。
彼はガリアのゲトリクスを危険人物として殺したのに、同じく危険な元老院議員たちを殺さなかったのが少し不思議です。
元老院議員のような優秀な人物を新たに登用するのは難しいというふうに考えたのでしょうか?
それとも、元老院たちが巧妙に服従を装ったんでしょうか?
いろいろ考えられるのですが、理由のわかる方がいたら
教えてください。

[824へのレス] Re: カエサルが元老院を許した理由 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2004/03/04(Thu) 19:30
その理由がわかるのは冥土のカエサルのみでしょうけど(笑)。

私もローマ史は『ローマ人の物語』を読んだだけなのであまり専門的なことはわかりませんが、とりあえずこの本はお勧めしときます。筆者はかなりのローマ贔屓なのでそこんとこ差し引いて読む必要はありますがかなりわかりやすい本なのでいいと思いますよ。

私自身はこの本を読んだ限りではスッラという人物の影響があると思いますね。
彼は元老院派の首領として、反元老院派を徹底的に弾圧し数多くの人物を血祭りに上げています。その処刑リストには若き日のカエサルその人も名を連ね、長きに渡る逃亡生活を余儀なくしています。
カエサルには第二のスッラになるつもりは毛頭なかったでしょうし、長きに渡る内戦状態はもう終わったとアピールする必要からも粛清劇は無用と考えたのかもしれません。

>元老院議員のような優秀な人物を新たに登用するのは難しいというふうに考えたのでしょうか?
というよりはもう反カエサル派の元老院議員に優秀な人材など残ってないと判断していたかもしれませんよ。

[824へのレス] Re: カエサルが元老院を許した理由 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2004/03/04(Thu) 20:05 <HOME>
あくまで推測になりますけどね。
大黒屋さんも書いておられますが、おそらく「反カエサル派の元老院議員に優秀な人材など残ってない。元老院、もはやとるに足らぬ」と考え、むしろこれを利用して自分の権威を高めていこうと考えたのだと思います。元老院側も、人気のあるカエサルに反抗するよりは、巻き返しの時期を計るべくカエサルと妥協したのだと思います。

ぶっちゃけ、双方とも相手を徹底的に潰すのは得策ではないと判断したのでしょう。もっとも、ブルートゥス達がカエサルを暗殺してしまいましたけどね・・・。

[824へのレス] Re: カエサルが元老院を許した理由 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2004/03/05(Fri) 01:23 <HOME>
オイラも大黒屋さんの意見に同じです。

帝国は粛正の時代から安定の時代に入ったとカエサル自体は思っていたんじゃないですかね。
ただ、元老院の連中を生かしていたからカエサルが暗殺された訳ではなくて、
カエサルには信頼に足る人物の多くを、自らが粛正している事自体が原因だと思いますよ。
ブルータスだって愛想尽かしますよ、そりゃ。

[824へのレス] Re: カエサルが元老院を許した理由 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2004/03/05(Fri) 01:24 <HOME>
ま、多くの皇帝、王者は
なかなか光武帝の様にはいかない、という事なんでしょうけれど。

[824へのレス] Re: カエサルが元老院を許した理由 投稿者:幸村 投稿日:2004/03/05(Fri) 15:08
皆さんありがとうございました。
勉強になりました。
元老院は信用できないとしてあえて軍隊を引き連れローマに入ったカエサルが元老院議員を再び登用していることはやはり重要な謎だと思います。
機会があったら自分でも調べてみようと思います。

[826] 設題 投稿者:通信大学生 投稿日:2004/03/04(Thu) 18:17
初めまして。大学の科目で文化交流論(歴史)を選択し、必死で勉強をしてます。古代オリエント〜第一次世界大戦まで、いろいろサイトを見ていたらこのサイトに漂流しちゃいました。
大学の「設題」が「歴史研究の方法が今日に至るまでにどのように変化したか論述しなさい」です。 教科書を読んでも、E.H.カーの「歴史とは何か」とか「歴史学」とかを読んでも、この設題にどう書いたらいいのかサッパリわかりません。ちなみに、設題は4000字までです。誰か、この設題にどうゆうふうに書けばいいか、教えて下さい。


[826へのレス] Re: 設題 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2004/03/04(Thu) 19:52
やっぱり、司馬遷やヘロドトスを引き合いに出して歴史を教訓とすることに対する問題点を叙述し、さらに、マルクス的な歴史段階発展論の一定の評価と問題点を追及する形ですかね?

[826へのレス] Re: 設題 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2004/03/04(Thu) 20:13 <HOME>
難しいですね〜。こういう問題は私が一番苦手としまして、だからこそ自分は学者にはなれないと思うのですが・・・。

まずは、地域ごとに分類してみましょう。
各地域ごとに、どのように歴史が研究されてきたのか。
ヨーロッパだったら、ヘロドトスだとか、それからマキャベリなんかも出した方が良いんですかね。歴史学者や、それに関連する人々の名前がよく思いつきませんが、まあ、歴史の資料集に載っている有名人あたりについて調べていきましょう。だいたい、これを1500字ぐらいでまとめます。

地域ごとに研究したら、今度は現在の歴史研究の手法についてみていくべきです。2000字ぐらいになりますかね。最近は、「戦争の記憶」や「証言」というのが、歴史的な文献に加えて注目されていますし、それからマスコミ報道、インターネットも大きく影響を与えています。

最後に500字ぐらいで、まとめを書いておきます。もちろん、自分が調べて解ったことを書かないといけないので、私がこれについてどうこう言うわけには行きませんので、分析方法についてはご自分で考えてくださいませ。

どのような流れで、その設題が出題されたのがよく解らないので、必ずしも正しい解答になっていないとは思いますが、こんな感じでしょうか。やり方が解っても、書くのは非常に大変なんですが、頑張ってくださいませ。

参考文献も、当然沢山必要になります。
場合によれば、英語の原文等も必要になりますが、時間との兼ね合いで判断してくださいまし。

[826へのレス] Re: 設題 投稿者:通信大学生 投稿日:2004/03/04(Thu) 22:18
なるほど!!地域別で研究方法とか人物だったりをまとめていけばいいですね。かなり参考になります。大黒屋さん&管理人さん感謝です^^

[826へのレス] Re: 設題 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2004/03/04(Thu) 22:30
E.H.カー・・・なんか学生時代の『史学概論』の講義を思い出す。

白髪頭、四角い眼鏡、蝶ネクタイと強烈な印象の教授をおもいだしますよ。

[826へのレス] Re: 設題 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2004/03/05(Fri) 00:27 <HOME>
まず大事なのは、テーマを絞ることです。
歴史研究の偏節とは言うのは非常に範囲が広いので、
歴史研究の観点で区別する必要があります。

それらは、政治的貢献からみた歴史、或いは歴史的貢献度から見た歴史、或いは純粋に客観的な主観による歴史。
ここのテーマ毎に様々な学者が居て、
それらもまた当時の社会の主観によって変わっています。

従って、歴史主観、地域、人物、と限定していけば、
参考とする資料が得やすく、
論文としてまとめやすいはずです。

例を挙げると
ヘロドトスのトロイヤの歴史文献を起点に
それに影響を受けたシュリーマン
そして現在のミケーネ周辺の歴史研究のあり方、

それらを個々の歴史主観の変動や、個々の時代的価値感と併せて、
論説を立てていけば、
それなりの、論文として成り立ちますよ。

[821] たまにはネタを振ってみる 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2004/03/03(Wed) 21:22 <HOME>
えーと、今日は3月の3日ですね。
桃の節句と言うヤツです。
ただ、桃の節句と言うには実は季節はまだ早い。
それもそのハズで、
3月の3日をして桃の節句と言えたのは、
旧暦の御代であったからです。

だから、あと一ヶ月弱後の話しなんですね。
とはいえ、この桃の節句の日頃までは帝都でも雪が舞い積もるらしく、
今から144年前の万延元年3月3日の江戸でも雪が舞い積もっていたそうです。

その日、彦根藩江戸上屋敷を居出て、江戸城桜田門に差し掛かる所を、怨恨の沙汰を発端とした一団により襲撃され、
不覚にも御首を頂戴された人物がいます。

井伊直弼です。

この人は、不遇の人であったとも思うのですが、
他方で歴史的意義を『暗殺された』一事で決められた人でもあり、
歴史を加速させた人でもあり、
しかし、彼の治績はあくまでも歴史の停滞を促し、
主家の体面の一事のみの為に、
夥しい人血の山を作り上げたとも言えます。

そこで今回は井伊直弼の功罪、歴史的意義などについて、
皆様の思う所を書いていただければ、と思う次第です。

[821へのレス] Re: たまにはネタを振ってみる 投稿者:研虫 投稿日:2004/03/03(Wed) 22:31
美鈴ちん様はじめまして中学生の研虫と申します。
早速ですが私は井伊直弼大老については世の中に出ているような悪い印象は持ちません。
実際かの悪名高き「日米修好通商条約」は結ばなければ
日本はアメリカの植民地になって
いまごろ日本で日本語話すような人いないかもしれませんし、
十三代将軍家定の跡継ぎを無理やり慶福(家茂)に決めたことは
それで国が荒れたりすることはなかったわけですからよかったと思います。
しかし、安政の大獄についてはやりすぎの一面が
あったと思います。
実際、親藩の御三家の徳川斉昭 御三卿の徳川慶喜を謹慎というのがありますが
いくら大老とはいえ親藩の大名を謹慎というのは・・・

[821へのレス] Re: たまにはネタを振ってみる 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2004/03/04(Thu) 19:47
国是であった鎖国体制から開国へと大英断を下したのでそこのところは評価していいと思います。
一連の不平等条約はこの当時すっかり外交音痴になっていた日本を考えればしょうがないのではないでしょうか?
為政者として反体制派を弾圧するのは当然のことと思います。
ただ、彼自身未来の展望をどのように持っていたのかそこのところはよくわからないのでちょっとコメントしようがないですね。
やっぱり家定を傀儡の君主として自身が独裁権力を振るおうとしたんでしょうか?

[821へのレス] Re: たまにはネタを振ってみる 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2004/03/04(Thu) 20:02 <HOME>
私も井伊直弼については肯定的な評価です。
ただ、大黒屋さんも書いていらっしゃるように開国後のビジョンがなかった、少なくとも見えづらいのは大問題だったですね。

ん〜、今の価値観から言えば、色々言えることもあるのですが(宣伝の不足など)、当時、もしも私が井伊大老の立場であった場合、どうすれば開国論を納得させられたか、難しいところではあります。

ただし、後に長州藩の長井雅楽が孝明天皇に堂々と積極開国論を唱え(欧米列強に伍する実力を備えた後に堂々五大陸へ押し出して彼らに神州固有の忠孝を施すことこそ重畳である)、孝明天皇を納得させてしまっているんですよね。

これを見る限りでは、もっとやりようがあったんじゃないかなあって思います。そうは言っても、今だから言えることであって、当時の状況下では思いつきようもなかったのでしょうが。

やはり、彼自身に色々と野望があったがために、野望自体はまあいいのですが、結局は中途半端な大物で、大した知識も力量もなく、かえって反発のみを無駄に招いてしまったのではないか、場合によれば、彼が舵取りを間違え誰がために、多くの志士たちが死ぬことになったのではないかと思え、その意味では、とんでもない人物であったのかもしれませんね。

ま、何も全て井伊大老の責任ではないですけど・・・。

[777] ドイツ騎士団 投稿者:明倫北斗 投稿日:2004/02/27(Fri) 00:36
地欠王さま
いえいえとんでもありませんよ、教えていただきたいのは、本当、私のほうですよ。 この掲示板の地欠王さまの投稿文を、ずっと前から読まさせていただいとりますけど、実にその博識ぶりに感心していたんです
おそらくは地欠王さま、内外のドイツ騎士団の論文、文献を読みあさり
その上での、私に対して、この騎士団についての感想を尋ねておられるものと思います。
私、外国文が本当に不得手であり、ドイツ語なんてまるっきり駄目ですわ、だから日本の研究家の阿部僅也先生、山田作男先生の本を、斜め読みした程度であり、ほとんどドイツ騎士修道会については無知同然なんですよ。 特にキリスト教が絡む問題は、多神教の日本に住む私にとっては、???まったくチンプンカンプン・・・わかっていませんね
ただ何も本質はわかってはいませんが、ぼんやりとはですが、このドイツ騎士団については何か、不気味なものを感じますね。またとても強い集団とのイメージがありますね・・・やはり宗教が絡むからなんでしようか? 私、このドイツ騎士団、後のベーメン(ボヘミア)王国の宗教軍隊のフス派と、中世ヨーロッパを二分した、最強の軍事集団だったと思っています。
何が不気味だといいますと、この騎士団の発展の段階で、古バルト族といわれたプロシア人が絶滅したといわれております。
キリスト教に入信しないこの蛮族を、騎士団は殺し尽くした。
モンゴルみたいに、己に反抗する民を殺しまくるのではなく、キリスト教に帰依しない民を、絶滅するほど殺したのです。
問題発言かもしれませんが、とても残酷非道の中に、宗教なのか侵略なのかはわかりませんが、それを実行する信念と強い力を感じます。
やはりあの時代、天下無敵、悪鬼羅刹のごときモンゴル軍に対抗できたのは、このような軍隊だったかもしれませんね

次ぎに実質的に、この布教団体なのか?移民団体なのか?ドイツ皇帝の出先機関なのか?ハンザ都市同盟なのか?よくわからない侵略集団の創設者、第4代総長のヘルマン・フォン・ザルツァは、チューリンゲン方伯のディーンスタマン(家人)階級の出であり、家人階級、これはフランク時代のミニステリーアスとよばれる農奴であり、日本的に言えば、郎徒、足軽階級ともいえる低い身分の家柄なのです。
この出身のザルツァが、宗教世界を舞台に、ドイツ管区長のヘルマン・バルクとのコンビ、さしずめドイツ版の木下籐吉郎、蜂須賀小六ですか? この二人で時のローマ教皇、ドイツ皇帝、ドイツ諸侯団、ハンザ同盟らを手玉にとり、「国盗物語」を実行し、一気にポーランド領内のバルト海沿岸に「キリスト教騎士団」をつくり、さらに先発部隊のドブリン騎士団、刀剣騎士団を次々に合併し、ついには東欧から北欧にかけての一大強国であるドイツ騎士団をつくりあげました。
この創設者は、とても能力があったればこそ、このような奇術がおこなえたかもしれませんが、やはりこの時代の歴史が求めた、新しい力だったんだしようね。
それが権力親子世襲のない僧侶国家、「歪いびつ」な社会であったとしてもね、やはりローマ法王庁ら中世キリスト教世界の一例かもしれませんね。 

[777へのレス] Re: ドイツ騎士団 投稿者:地欠王 投稿日:2004/02/27(Fri) 16:27
>明倫北斗 さん

 お答えどうもありがとう御座います。

>いえいえとんでもありませんよ、〜博識ぶりに感心していたんです

 そんなお言葉をいただけるとは、まことに恐縮です。身の縮む思いです。

>ほとんどドイツ騎士修道会については無知同然なんですよ。特にキリスト教が絡む問題は、多神教の日本に住む私にとっは、???

 そんなご謙遜なさらずに。まったくそんな事はないかと。
 確かにヨーロッパ史は、中国史に儒教が融合している以上に、キリスト教がベッタリですね。まあ、宗教関係が強く歴史に影響(というより浸透)しているのは何処の国も同じですが。

>キリスト教に入信しないこの蛮族を、騎士団は殺し尽くした。
>モンゴルみたいに、己に反抗する民を殺しまくるのではなく、キリスト教に帰依しない民を、絶滅するほど殺したのです。

 これは恐ろしい限りです。幕末に勤皇が攘夷の名のもとに蛮行を働いたと同じで、無茶苦茶やってます。宗教という色を抜いたらただ虐殺と略奪の限りを尽くしただけです…。誤解を招く言い方かもしれませんが、聖騎士団関係を勉強しているとナチスが行ったといわれているユダヤ虐殺とレベルが何ら変わりません。
 聖騎士団ってのは、聖戦の名をかたって悪逆非道以外の何物でも無かったりして…。厳しい見方をすると、ローマカトリックの腐のさんぶつですが。栄光と名声という麻薬なしに裏(行為)はとても語れません。実際行った事を冷静に考えると…。さらんに、よくよく考えると、聖地喪失後は無くても困らないし問題もない…。
 
>次ぎに実質的に、この布教団体なのか?移民団体なのか?ドイツ皇帝の出先機関なのか?ハンザ都市同盟なのか?

 ご承知かとは思いますが、本来は聖地巡礼者を守る(医療行為や宿泊など)という大事で有意義な目的がありました。が、先にも書きましたが聖地を喪失してから実質的な存在意義を失います(イベリアのレコンキスタの宗教騎士団をのぞいて)。
 無くても困らなくても、そこに所属している子弟貴族は困ります。まあ、ある意味、入学して卒業する前に学校が倒産すると困るのと似ているかと。まあ、困る理由の実際的なものは教団の莫大な財産の行方が主ですが。とにかく、存在意義と組織の存続の為に試行錯誤。

 そこで、テンプル騎士団は本拠地をフランスに総て引き上げ蓄財⇒フィリップ4世により早々に解体。ヨハネ騎士団は、マルタ、ロードスと拠点を移し異教徒相手に海賊行為を継続する事で存在意義を見つけ、ナポレンに降伏するまで三大聖騎士団中最も長く存続(現在も継承団体あり。ちなみに異教徒とは戦いませんよ(笑))。

 チュートン騎士団については、拠点をドイツに移して改宗を目的として、異教徒相手に戦う事に存在意義を見出しします。そのうち、その組織の存在を確固たる物にするために、どんどん活動がエスカレートしていったのが実情かと。まあ、創設の理由なんてその頃には誰も考えなかったし問題にもしなかったのかと。とりあえず、しばらくの間、名目上異教徒相手に聖戦をしてましたから布施も有りましたし、貴族からの子弟の新たな入団者ラインも途絶えずに組織化。その後もそれが解体まで続いたのが実情でしょうか。確かに発生の理由とその発展は、それまでヨーロッパには無かった組織体形を生みましたね。

 これを見ると面白いのが、最も存在理由からかけ離れた選択肢をした団体から潰れて行っているのがわかります。しかし、聖戦の名を語って最も略奪と虐殺を尽くしたのが最後まで残ったと言えるのが皮肉…。

 どこの国を見てもそうですが、坊さんというのは政治をつかさどると破滅的なのに、財産の管理運営を任すと素晴らしいものを発揮します。商業都市国家(商人)かおまけの蓄財のスペシャリストと言っても過言ではありません。極貧階級から王侯の大貴族まで、莫大に集まる御布施。さらに、入団した貴族子弟の残した財産で大金持ちです。しかも宗教法人には税金が無い。
 聖地喪失後は、その「莫大な財産を抱えた組織をどう存続させるか?」の選択肢が宗教騎士団の分かれ道だったと言えると思います。

[777へのレス] Re: ドイツ騎士団 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2004/02/27(Fri) 21:00
>明倫北斗さん
ドイツ騎士団てそんなことをやっていたのですか・・。
いつの間にか歴史地図にその版図が登場し、組織の話はプロイセン王国建国の際にちょっと出てくる程度の認識しかなかったので驚きました。
でも宗教騎士団という奇妙奇天烈な組織から言ってその実態が狂信者の集団というのはなんとなくわかります。十字軍そのものからしてそうですからね。

こう考えるともしモンゴルがヨーロッパに本格侵入していれば本当に歴史の流れに大変な影響があったのでしょう。
威張りちらし、搾り取るだけの聖職者たちが異教徒に次々と処刑されるさまを見れば庶民の認識が変わってくるだろう事は容易に想像がつきます。

>地欠王さん
>蓄財のスペシャリスト
「宗教を考え出したやつの商才はたいへんなものだ」というふうな台詞が出てくるあるSF小説を思い出しました。
でもよくよく考えてみれば僧侶というのは人類史上初の特権階級といっていいくらいのものですよね。どんなに遡ってもシャーマンだの何だのとそういった階級の人の痕跡はある。

[777へのレス] Re: ドイツ騎士団 投稿者:朝帰又寝太郎 投稿日:2004/02/28(Sat) 08:35
>キリスト教系各種騎士団
法皇の逆鱗に触れて異端と認定され全員、火あぶり刑になった騎士団
の話しも聞きますが、ドイツ騎士団は異端にはならなかったのですか?

中世の西欧では富の配分からあぶれた人々が東欧へ植民という
一種の民族大移動があり、ドイツ騎士団とシンクロしたという説
を聞いたことがあります、現在でも東欧、ロシア・バルト沿岸部まで
分布するドイツ系の人々はその名残と言われています。
中世西洋の童話でハメルンの笛吹きというのがあります、あの話しは
いろいろと当時の社会を暗示してます、笛吹き男をネズミ駆除に雇う
というのはネズミの被害に悩んでいた当時が忍ばれます、で、
ネズミ駆除の代金を払わなかった村の大人たちに笛吹き男は村中の
子供たちを笛で釣って連れ去り報復する筋で、子供たちは一体
どうなったかは不明と、結末を読者に色々と想像させる展開でしたが
笛吹き男は子供らを植民騎士団へ売ったとか、笛吹き男は
東欧植民向けの奴隷商人だったとかいう説もあるそうで。
当時、子供が集団で行方不明になる事件がよくあったそうです。

[777へのレス] Re: ドイツ騎士団 投稿者:地欠王 投稿日:2004/02/28(Sat) 11:23
>朝帰又寝太郎 さん
>ドイツ騎士団は異端にはならなかったのですか?

 一応、と言うよりちゃんと異教徒と戦っていたのでテンプル騎士団らとは一線を画してます。確か15世紀以降も東方の異教徒と戦ってますから。
 テンプル騎士団同様、聖地喪失後にベネチアに本拠地を移したチュートン騎士団もその財産を狙われます。テンプル騎士団弾圧にヒントを得て、チュートン騎士団含め他の宗教騎士団らも告発を受けますが、チュートン騎士団はテンプル騎士団とは違い公式に聖戦が行える東方に拠点以下総力を移して免れています。

 金融業に特化してしまったテンプル騎士団は、その財産をフィリップ4世に狙われ、フランスで大迫害にあい異端の判決を受けて解体しています。テンプル騎士団解体後の莫大な財産は、救護騎士教会として異教徒に善戦している聖ヨハネ騎士団の新設された海軍活動費として使われる事が決まっていたんですが、びた一文とも彼らの元には行きませんでした。さらに、フランス以外の外国の裁判ではことごとく無罪となっている事から明らかに@莫大な財産狙Aこれ以上の勢力広大の危惧などのフランスの私情でに潰された事がわかります。
 またこの時に法王は、聖ヨハネ騎士団と合同でアルメニア、キプロスから十字軍を出す事を提案していますが、当時の団長ジャック・ドゥ・モーレはこの申し出を「現実性皆無」として蹴っています。確かに現実性は余りにも低かった(いや無いか…)のですが、「十字軍を出す」というモーションに意味があったので、当時の団長は自騎士団の置かれた状況把握に疎かったのでしょう。
 もしこの時、実際に十字軍を出すに至らなくても「出す」と言って、現実へ向けての何らかの行動や働きかけでもすれば、騎士団はフランスから強い弾圧を受けたかもしれませんが、解体には至らなかったと容易に想像できます。これも外交交渉の失敗例の一つでしょう。

 ちなみにチュートン騎士団が東方で活動するに至った理由は、
@聖地に強力な拠点が築けず必然的に祖国ドイツとの繋がりを断てなかった
 三大聖騎士団の中で最も最後に出来てますから、聖地で取得地の分配がほぼ完了しており、新たに新勢力が活動拠点構築する余分な土地も少なく、聖地喪失までの時間も他騎士団より短いですし。
Aハンガリー王アンドラーシ2世からクーマン人に対して手助けの要求。(この事で東方活動に着眼)
 この時、ハンガリー王は成功報酬として騎士団にブルツェラント地方を与える事を約束。騎士団は本格的に移住を開始。しかし、これに対し勢力広大を危惧したアンドラーシ2世は法王庁と皇帝の双方の十字軍の認可を正式に受けていなかった事などを背景に、立ち退き命令。つまり約束を反故にされたわけです。騎士団は戦費も総て自費まかなったのでたまりません。チュートン騎士団の勢力は、この頃ハンガリー王に対向できるものではありませんでしたから渋々ながらも立ち退きました。
Bプロイセンで改宗者を保護するための初のプロイセン十字軍の負債
 しかし、プロイセン十字軍は、現地の凄まじいまでの報復活動を生み出す事に。ここで、危機に立たされたマゾフシェ侯が、チュートン騎士団に救援を依頼。しかし、騎士団はAの結果を踏まえ、正式に教皇と皇帝の認可があるまで活動を自粛。その後、1299年に名目上の宗主権を法王に残しながらマゾフシェ侯からグダンスク、ヴィスツラのクルム郡を取得に至り基盤を確固たる物に。

 @〜Bの流れが大まかなものです。チュートン騎士団は三大騎士団の中でも最も勢力を広大した騎士修道会ですが、聖地喪失後の新たな出発点では一番小さな勢力でした。

>大黒屋介左衛門 さん
>>蓄財のスペシャリスト
 
 テンプル騎士団が銀行業兼高利貸しで莫大な富を築いてますね。おそらく聖職者と言うのは、やはりと言うか、当然と言うべきか、集団の組織化と財産の経営に向いてるんですね。

 あ、あと先のレスで結構過激な事かいてますけど(勢いでつい…)、聖騎士団という安易な第一印象からは想像も出来ない事をやっているって書きたかった訳で。まあ、ナショナリズムというか、なんと言うか、とり合えずは、その時の本人たちのエゴで結構成り立ってるんですよね…。

[777へのレス] Re: ドイツ騎士団 投稿者:明倫北斗 投稿日:2004/02/29(Sun) 00:31
地欠王さま
ドイツのナチズムにおけるユダヤ人絶滅計画、第三帝国樹立思想になかなか染まろうとしない、ユダヤの民を狩り尽くす・・・
何かドイツ騎士修道会による、プルシア人のキリスト教布教作戦と一脈通ずる感じですね?
まあキリスト教アーリアは、一般的にこのような独善的感覚が強いのですが、前回の投稿では問題発言になると思い控えたのですが・・・・
やはり、ナチズム・ドイツは、この騎士修道会の遺伝子を一番、強く受け継いだのでしようかね・・・
それとこれは冗談ですから、まともにしないでくださいね・・・
このスレを送る前にテレビを見ていましたら、オウム真理教の麻原教祖の死刑判決の解説をしていました  思わずね・・・
うーん、麻原はひょっとしたらね・・ドイツ騎士修道会のような国家を
つくりたかったのではないか(笑いー)プルシア人が崇高なるキリスト教を理解しなかった、これと同じように愚昧なる日本人はオムムの心理を排除しようとした・・・この汚れた魂を浄化させるために、天国に送るポアの儀式が必要であったー(笑い)とー 不真面目でごめんなさい
・・へへへ・・・冗談!     
地欠王さま
確かにテンプル騎士団、ヨハネ騎士団もドイツ騎士団とよく似たところがありますね、、だけど私、思んですけれど、テンプル、ヨハネ騎士団とも何かね、ローマ法王庁や欧州諸侯らに、うまく利用されたお人好しの感じ、それは私だけの感覚かもしれませんが、何か明るいイメージがわくのですが、それに比べるとね、ドイツ騎士団は寒い地域に出向いたから、錯覚にてこのような感じがするのかもしれませんが・・・・
ローマ教皇、ドイツ皇帝、ポーランド王 ドイツ諸侯団を徹底的に利用した、陰険にてしたたか、とても暗い感じがするのですが、
これ私だけのへんな思い込みなのでしようか? へへへ・・・

[777へのレス] Re: ドイツ騎士団 投稿者:地欠王 投稿日:2004/02/29(Sun) 23:34
>明倫北斗 さん
>何か明るいイメージがわくのですが、

 まあ、テンプル騎士団は早々に解体されてますしね(しかも、ろこつな形で)。
 ヨハネ騎士団は、島に篭って海賊行為しただけなので、西欧諸国とは領土問題であまりやり合ってませんかれね。
 しかし、マルタ島の貰い受ける外交交渉とかは暗さがありますね。ベネチア相手には、異教徒取引する股座公約者として商戦を頻繁に襲ってますし。
 一面的な見方ですが、ベネチアとしては、ロードスとかマルタを航海路の安全確保の為に攻略、騎士団潰したかったでしょう(笑)。騎士団の略奪行為に対してベネチアは、ほぼ泣き寝入りです。ローマカトリック世界の世論が絶対にベネチアには味方しませんからね。

 まあ、極端な言い方すると、
 テンプル騎士団=聖戦の実績で蓄財
 ヨハネ騎士団=聖戦かたって海賊
 チュートン騎士団=聖戦かたって民族虐殺
 ↑も合わせて先に結構酷い事書きましたけど、別に嫌悪抱いてるわけではありません。何事も一面的には見れないと。文章にするのは難しいでせすね…。まあ、なんと言っても、新紀元社の販売の書籍:聖騎士団のサブタイトルは「その光と影」ですから。

 しかし、聖戦、聖騎士団。なんて響きがいいんでしょう。

>ローマ教皇、ドイツ皇帝、ポーランド王 ドイツ諸侯団を徹底的に利用した、陰険にてしたたか、とても暗い感じがするのですが、これ私だけのへんな思い込みなのでしようか?

 先にも書きましたがやはりヨーロッパ本土で軍事活動したため領土や利害問題で直接西欧諸国とやり合ってますからね。しかも、騎士団自体やはり本来国家と対立できるほどの組織ではありませんからね。宗教的なメリット以外は何もないので。それが国家とやりあうんですからそれは仕方がないかなと思ったりもします。まあ、汚さは三騎士団ともどっこいどっこいでしょう。

[777へのレス] Re: ドイツ騎士団 投稿者:明倫北斗 投稿日:2004/03/02(Tue) 01:06
地欠王さま
ほんとうに聖騎士団に関していろいろなことを教えていただき、ありがとうございました。私の知らなかったこともずいぶんあり、たいへんに参考と勉強になりました。
ドイツ騎士修道会については、1410年にポーランド・リトアニア連合軍と戦ったダンネンベルクの戦い、8万の大軍が、大砲や長銃を大量に使用しての、中世ヨーロッパ史代表する、史上まれなる大会戦、
この3年後に戦われた、英仏百年戦争のアジャンクールの戦い、両軍4万5千が、槍と弓そして剣をもって戦かったことと比較すれば、いかに
この戦いが大規模であり、当時のドイツ騎士団が、大国のポーランドとリトアニア連合軍を相手に、近代的な強力な軍事力、またその装備を保持できる経済力を有うしていたかは想像できますね・・・
おそらくは、バルト海交易にて莫大なる利を得ていたのでしよう。
この軍事と経済の強力なる力をもちながらも、
地欠王さまがご指摘のとおり、総長以下の長官ら官職がドイツ諸侯からの任命制のために、権力の集中と世襲ができず、本来、国家(ドイツ)とは対立できる政治的基盤組織を持っていない、致命的欠陥があったのですね・・・だからある点では、英仏独に列する軍事経済力がありなが
らもポーランドにやられるんですね、実に不思議な、国家?いや団体?ですね、、ホーエンツオレルン家によりこの団体が完全に国家として
登場するまで間、どのような編纂の道を歩んだのか?
もう一度、文献をよく読みなおしてから、また地欠王さまと騎士団談義をしようと思います。
本当にいろいろなご指導ありがとうございました。、

[761] バトウの遠征 投稿者:明倫北斗 投稿日:2004/02/25(Wed) 00:48
歴史のイフ?についてもう一つの例を
1241年の12月にモンゴル帝国のオゴダイ汗の崩御により、ヨーロッパ遠征中のバトウが率いるモンゴルの軍団15万が、そのまま東方への総引き上げを開始しますね。
この年の春、リーグニックの戦とモヒの戦いで、ポーランドとドイツ騎士団、ハンガリー、クマンは、完膚なきほど、ぼこぼこに叩きのめされ
、その後にモンゴルはバルカンからスロベニア、クロアチアも蹂躙し、神聖ローマ帝国、ビザンティン帝国の運命は、風前の灯火という状態になります。
この時にね・・・もしもですよ、オゴダイの寿命が、あと1年〜2年延びていたならばですよ・・ヨーロッパの地図はいったいどうなったんでしようか?
この問題に関して、過去に他の掲示板で投稿したのですが、多くの答えは、オゴダイの死に関係なく、バトウは東欧から南ロシアに撤退し、この地にて自らのウルス(国家)を建設しただろう・・・との意見でした
東欧に入ったのは、南ロシアからここに逃げこんだ、ボロヴェツを追撃したのであり、モンゴル騎馬軍団の適合しない欧州の地形、さらに軍馬の餌さである草の問題ら、ヨーロッパ征服がバトウの最初からの戦略目的に無い以上、東欧からの撤退は時間の問題であった。との見解でありました。
喧嘩の名人は、ちゃんと自己の限界をわきまえているから、百戦しても百勝する!とのことでした。
とても歴史をよく学んだ冷静なる分析ですね・・
だがね・・・私、戦いなんて(それは歴史の結果となる)、理屈、計算ではなく、その時の勢いと、その場の人間関係だと思んです。
時の流れが、勢いがモンゴルにあれば、地形、環境など糞くらえ!で、玄海灘の果ての九州博多、熱帯雨林のインドネシア、灼熱のエジプトの砂漠まで、出かけるのじゃーないのですかね? バトウもフンのアッチラのごとくピレネーを目指してね・・・
つまり、成吉思汗の遺命である
「モンゴル鉄騎の馬蹄の続くかぎりの土地を、汝ジュチ・・・」
この神にも等しい絶対的な家訓(憲法)がある以上、バトウは進撃を止めれなく、ジブラルタル海峡まで、走るしか仕方がないのですよ。途中で力尽きようともね。
進撃に嫌気がさしてそれを止めた時は、ジュチ家ウルスのライバルや仲の悪いオゴデイ家のグユク親派たちから、己の生命が奪われる時ではないでしようか? バトウにとっては、ほんとうにいい時にオゴデイが死んでくれて、内心、ホツとしたのではないでしようか?
助かった!これで南ロシアに戻り、理想のウルスが築けれると・・・・
みなさんのご意見はどんなでしようか?

[761へのレス] Re: バトウの遠征 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2004/02/25(Wed) 01:38
戦略や歴史の動向はとりあえず無視して、バトゥ征西軍がローマに入り略奪と完膚なき破壊、ローマ教皇の処刑を行えばヨーロッパではキリスト教の価値が違っていたかもしれないとは思います。

[761へのレス] Re: バトウの遠征 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2004/02/25(Wed) 01:57 <HOME>
オイラはオゴタイの余命があの時点で数年延びていたら、
バトゥとフビライの生命は無かったと思いますよ。

と言うのも、オゴタイはこの二人をかなり危険視してましたからね。
バトゥを西欧に送り出したのも、
戦死すればそれでよし、勝利すれば粛正の好機、と考えていた臭いですね。

モンゴル帝国が一枚岩でない事は大ハーンの死による些細な混乱がそれを証明しているかもしれません。
となると、無用の遠征は或いは、リーグニッツの辺りが限界点かもしれませんね。

>だがね・・・私、戦いなんて(それは歴史の結果となる)、
>理屈、計算ではなく、その時の勢いと、
>その場の人間関係だと思んです。

ん〜これは誤りかもしれませんよ。
戦術的勝利の最大の要素は情報であり、
それに伴う下準備です。

但し、モンゴルにとって確かにリーグニッツは限界点なのですが、
実は欧州勢力はもっと限界が来て居るんですね。
長い間の暗黒時代体制によって、小規模独立体制が敷かれ、
殆ど、集団と言うよりは、個人的組織の寄せ集めと化した西欧連合軍には勝てる道理が最初から薄いんですよ。

そうなると、如何に戦略的には限界とは言え、
組織的戦闘を辛うじて維持し得る限りに於いては、
モンゴルはなるほど、東欧、並びに西欧に於いて、
縦横無尽の槍働きをするかもしれません。

が・・・・
危惧すべきは、当時の騎士階級以上にいくさ人は居ないかもしれませんが、
これが民間で出現した際、
爆発的なエネルギーが発生するでしょう。

モンゴル軍が仮に、西欧に於いても各王国軍を撃破したとしても、
民衆による思わぬ抵抗運動に苦しめられる可能性はあるんですよね。

そうなった時、既に戦略的限界が生じていたモンゴル軍に、
戦線の維持が可能かは、言及するまでもないと思います。

或いは、オゴタイはその辺りも考慮して、
彼の者がその地で生命の幕を下ろす事に期待していたやもしれません。

[761へのレス] Re: バトウの遠征 投稿者:朝帰又寝太郎 投稿日:2004/02/25(Wed) 07:52
>各王国軍を撃破したとしても民衆による思わぬ抵抗運動
戦闘貴族や傭兵以外の民衆から常備軍を編成できる時代までまだ大分
前の時代ですよね、この頃は。農民の反乱が多発した時代よりも
更に前時代に、モンゴル騎馬軍団に抵抗できる民衆組織が期待
できたのでしょうか?

>南ロシアに戻り理想のウルスが築ける
タタ−ルのくびきは確かにロシア民衆には苛烈な統治であった
のは否定しません、モンゴルは、ロシア貴族を中間管理者として
ロシアを間接統治したと聞きます。
アレクサンダ−・ネフスキ−ですらもモンゴルの支持あればこそ
の英雄だったとか。

[761へのレス] Re: バトウの遠征 投稿者:美鈴ちん@岳飛@無責任管理人 投稿日:2004/02/25(Wed) 17:30 <HOME>
>モンゴル騎馬軍団に抵抗できる民衆組織が期待
>できたのでしょうか?

そうですね、初期段階での抵抗運等それ自体の正否は難しいのですが、民衆叛乱は一度始まると、なかなか治まらず、
初期に組織化されていないとしても、
続くウチに、思わぬ組織が作られてしまう事はままありますよ。

[761へのレス] Re: バトウの遠征 投稿者:カレ−の虎 投稿日:2004/02/25(Wed) 19:35
ロシアに侵攻したモンゴル軍、兵力的には単独モンゴル軍は
ロシア・ボロヴェツ連合軍に比し少なかったそうです、もちろん
蒙古騎馬軍団の機動力がロシア諸侯軍に勝っていたわけですが、
カルカ河の戦いなどは、ロシアの流民集団がモンゴル軍に加担し
モンゴル側の兵力不足を補いモンゴル軍はロシア側を撃破したそうで
モンゴル軍は占領地域から徴兵を出来たとしても、モンゴル人兵力の
絶対数が少ない不安は常にあったわけで占領民族の兵力の反乱を警戒
しながら西進したとして、危機感を持った西欧諸国が十字軍並み
どころか其れ以上の結束でモンゴル軍に当たれば、どうだったでしょう

思ったのですが、モンゴルに占領された諸国の中で、民衆の反乱が
モンゴル支配の瓦解に繋がったのは中国ではなかったですか?
西洋で中国のようなパタ−ンが考えられるか興味深いところですね。

[761へのレス] Re: バトウの遠征 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2004/02/25(Wed) 22:38
リーグニッツの後、何事もなければバトゥはどこに攻撃目標を設定したのでしょうねぇ?

ケルンか?
パリか?
ローマか?
コンスタンティノプールか?
ジブラルタルか?

>民衆の反乱
反乱を誘発するのはやはり聖職者階級でしょうか?
ヨーロッパには国家という概念は薄いですけど、思想面ではかなり統一されてますからやはり反乱の旗印になるのは十字架でしょうか?
でもバトゥ征西軍はまともな後方補給拠点を持ってないから、無謀な遠征で士気を保ち続けるのは至難の業ですね。特に西の果てに大西洋を補足した時には更なる征服欲以上に望郷の念が強まるでしょう・・。

[761へのレス] Re: バトウの遠征 投稿者:地欠王 投稿日:2004/02/25(Wed) 23:57
進撃目標としてエジプトは考えられませんかね?
飛躍してますが…。
コンスタンチノープルとかはどうですかね。

ちなみに遠征軍の内訳はほとんどが、現地兵だったと記憶しておりますが。それはフビライの時だったかかな?記憶があいまいです。

[761へのレス] Re: バトウの遠征 投稿者:裏辺金好@管理人 投稿日:2004/02/26(Thu) 00:22 <HOME>
エジプトはフビライの弟、フラグの担当でしたが、そこまでにたどり着く前にマルムーク朝でしたっけ? あそこによって阻まれ、攻略できずに終わったので、そこにバトゥが乗り込んでいくのは難しいかなと思います。領土面でも争いになることでしょうし。

コンスタンティノープルも同様でしょう。ここも、攻め込むとすればフラグの担当ではなかったのかと思います。

>モンゴル側の兵力不足
かなり影響しますね。モンゴルと言いますが、その内実は実に雑多な民族から構成されているので、協力をもらえる見込みの少ないヨーロッパだと現地で兵力が調達できないと思います。

オゴタイが死んで、その後もバトゥやキプチャク=ハン国の面々がヨーロッパに大規模侵攻を行っていないところを見ると、「どうもこれ以上は無理そうだな」と諦めたのではないかと思います。

>民衆の反乱がモンゴル支配の瓦解に繋がった中国
中国の場合、ただでさえ異民族であるモンゴル族に支配されていたのが許せなかった上に、しかも中東の人々が税務を担当していたので、二重に悔しかったんだと思います。

他のハン国に目を転じると、イル=ハン国は、かなりイスラム化するなど現地に同化する例が多いので、どうなんでしょう、モンゴルがキリスト教を取り入れ、ヨーロッパ人が要職に就くのであれば、西洋でも十分にやっていけたでしょうか。

[761へのレス] Re: バトウの遠征 投稿者:明倫北斗 投稿日:2004/02/26(Thu) 00:29
美鈴ちん@岳飛@無責任管理人さま
たいへんに面白い歴史分析、うーんなるほどなと感じ入りました。
私もバトウがあのまま、戦争を続行し続けていたら、最終的には欧州の野原で野垂れ死にの運命だと思います。
その意味にて、オゴダイの死はロシアにおけるモンゴルの命脈を繋ぎとめた結果になったのではないかとも・・
ただ、リーグ・ニッツの戦いが、モンゴルの西での戦争の限界線であったとの観かたはには、ちょっと疑問を感じるのですよ
それは、このワールシュタットの戦いの後にモンゴルバトウが、スロベニア、クロアチアを転戦中の1242年の4月、ドイツ騎士団がノヴォゴロド十字軍を結成し、はるか北方のロシアのチュー湖にて「氷上の戦い」で、アレクサンドル・ネフスキーと戦っているのですよ
当時の欧州の最強の軍事集団といわれたドイツ騎士団ですよ、そしてこの軍団は半年前には、モンゴルに戦争でコテンパンにのされているのです。これが当時の欧州の情勢なのです。
キリスト教最大の敵であるモンゴルが、どうも自国のプロイセンを奪う気配なしと観察したならば、本来は共同連合して戦わなければならない
ノヴォゴロドの領土をかすめとりに行っているのですよ
対モンゴル欧州連合なんて、糞くらえ!のバラバラの状態なんです
こんな状況下を放置して、西上戦の限界位置を悟り、東欧よりロシアに撤収したならば、バトウはオゴデイより総司令官の地位を解任されたでしよう。いやそれ以前に職務放棄の罪にて、副将のスプタイに逮捕されるか殺されていたのではないのでしようか?
私はオゴダイが存命だったならば、バトウは当然に西のオーストリアか
南のビザンティンに向かっただろうと思います。
そのバトウの征戦が成功したかどうかはわからないとしても?

[761へのレス] Re: バトウの遠征 投稿者:地欠王 投稿日:2004/02/26(Thu) 01:20
>エジプトはフビライの弟、フラグの担当でした〜

 バイバルスにやられたんですよね。本によっては運が悪かったと言うような事が書かれたてますね陳瞬臣とか。兵隊は元寇同様蒙古騎兵じゃないとか現地キプチャク傭兵とかとかだとか。

>モンゴルバトウが、スロベニア、クロアチアを転戦中の1242年の4月、ドイツ騎士団がノヴォゴロド十字軍を結成し、はるか北方のロシアのチュー湖にて「氷上の戦い」で、アレクサンドル・ネフスキーと戦っているのですよ

 ああたしか、ここの地域は湿地帯で沼や池が多くて、それらが凍る冬に戦争やるんですよね。確かドイツ騎士団は薄い氷の上に誘い込まれて、氷漬けなって負けてますね(氷が割れて)。

>当時の欧州の最強の軍事集団といわれたドイツ騎士団ですよ、そしてこの軍団は半年前には、モンゴルに戦争でコテンパンにのされているのです。これが当時の欧州の情勢なのです。
 
 明倫北斗さん できればドイツ騎士団について詳しくご教授願えませんか?新紀元社の聖騎士団では主に聖ヨハネ騎士団が扱われてましたから(これは聖騎士団の業績からして納得ですが)。宜しくお願いします。

[761へのレス] Re: バトウの遠征 投稿者:明倫北斗 投稿日:2004/02/26(Thu) 01:24
朝帰又寝太郎さま
アレキサンドル・ネフスキーに関しては、ロシアではほとんどに神格化された伝説上の英雄ともなっておりますが、またこれほどキプチャク汗国にへりくだり強力した君主もいませんんね・・
彼には一時的な恥を忍んでもルーシーの命脈を保つという崇高な使命感があったのかもしれませんが・・・
いずれにしても複雑な人間であり、またとても興味にわく対象でもありますね。

カレーの虎さま
バトウが実際にどれほどのモンゴル騎兵を率いたか? に関しては諸説があり、30万説、15万説 8万説らがあり、よくわかりませんが、モンゴル皇子4家から選抜されたとのことですから、中を取り15万が妥当なところではないでしようか?
だがバトウの戦力中、純粋なるモンゴル騎兵はわずか6000騎といわれますから、正直なところバトウの心内は、豪胆果敢とうわれながらも、心細かったのではないでしようかね。

大黒屋介左衛門さま
バトウの次ぎの攻略目標は、当然にビザンティンだと、私も思いますよ
これだけに兵力を握れば、中央アジアや西アジアの遊牧騎馬の民が目標するのは、彼らの垂涎の地、コンスタンチノーブルとなるのが当然の結末ですね、前の文でも述べたごとく、ドイツ騎士団も当然にバトウの戦略目標を承知していたからこそ、プロイセンの奥庭である、クロアチア、スロベニア方面に、モンゴル軍団が出没しても、北上せずに南下作戦を取るとみて、バルト海を北に走ったのでしよう。
だが何回も述べますが、このコンスタンチノーブル攻略戦が、キエフ攻城戦のごとく成功したかどうかはわかりません。
おそらくは、モンゴル軍兵力を上まわる、第6回の十字軍は、イェレサレムではなく、このコンスタンチノーブルに向かったでしよう、

[761へのレス] Re: バトウの遠征 投稿者:地欠王 投稿日:2004/02/26(Thu) 01:45
>第6回の十字軍は、イェレサレムではなく、このコンスタンチノーブルに向かったでしよう、

 モンゴル勢にボコボコニされそうですね。酷い言い方すると十字軍は烏合の衆の代名詞みたいなもんですから。第1回十字軍とレパントの海戦以外ではまともな軍事成績を残してませんし…あと成功例に加えるなら第4回十字軍でしょうが。まあ、カトリックから見ればギリシャ正教も異教徒ですからね。

[761へのレス] Re: バトウの遠征 投稿者:カレ−の虎 投稿日:2004/02/26(Thu) 08:08
>バトゥもしもコンスタンチノ−プルへ目指したならば
バトゥにとって、いくら当時の西洋で屈指の大都市だったと
いえど、ギリシア正教の総本山へ遠征することに、どれほど
欲望を掻き立てられたか?でしょうが、モンゴル遠征軍に
兵力を出して協力していたロシア諸侯集団が自分らが奉じていた
ギリシア正教の総本山へ野望があったとしたら、つまり、
ギリシア正教の後継者=ロシア正教という大きな野望を持ち
モンゴル側を納得させられれば、あるいは可能性は大いに興味ある
ところです。キエフはロシア正教にとり聖地だったんですが
モンゴルによって徹底的に破壊されロシア諸侯は復興することが
困難で、廃墟の都市を復興するのと既設の都市を占領するのと
どっちが楽かでしょうが。

>アレクサンダ−・ネフスキ−
ドイツ・ポ−ランド連合軍を北方で破ったのは、
南方のモンゴル軍の撤退の露払いをした形になりますか。

[761へのレス] Re: バトウの遠征 投稿者:大黒屋介左衛門 投稿日:2004/02/26(Thu) 20:10
コンスタンティノープル果たしかに目標としては申し分ないんですが、はたしてモンゴル軍に攻略できたんでしょうか?
この都市はヨーロッパ屈指の城塞都市ですからね。
それを差し引いても、長期間の包囲、強力な攻城兵器、海軍が必要で後方に拠点のないバトゥ征西軍が攻略できたか疑問なんですが・・。

>ドイツ騎士団
東欧諸国のキリスト教布教を目的に結成された宗教騎士団。
騎士団長は代々ホーエンツォレルン家から輩出し、後のプロイセン王国の母体となった。だと思ったんですがどうでしょう?

[761へのレス] Re: バトウの遠征 投稿者:朝帰又寝太郎 投稿日:2004/02/26(Thu) 21:49
ビザンチンとベネチアの共同体制は有名ですしね、
確かにモンゴル軍といえどもビザンチンの都を落とすのは
苦労しそうですねぇ、そういえばバトゥ軍団は一応クロアチア
までは到達したんですか?マルコ・ポ−ロって現在はクロアチア
領土で、当時はベネチア領だったダルマチアあたりの出身だったと
聞いたのですが。わたしの思いこみですが
何度か法皇の使者がカラコルムを往復していたようなので、
モンゴル帝国と、法皇を代表とした西欧諸国との講和は、バトゥ撤退
後、成されていたのではないかと思うのですが。
マルコ・ポ−ロは法皇の使者だったのかは知りませんが、
黒海貿易を結構重視していたベネチアならキプチャック汗国と
講和した方が得と考えたかは分かりませんが。

[761へのレス] Re: バトウの遠征 投稿者:カリウス 投稿日:2004/02/27(Fri) 00:41
フラグは、バイバルスと直接は戦っていなかったような。
バグダートを陥落させた後、モンケが死亡したためフラグは兵力を残して東へとかえっていきます。
モンケの死により、モンゴル中東攻略軍を構成していた諸ハーンの子弟の部隊はモンゴルへと引き上げ、事実上、遠征軍は瓦解。
フラグの命をうけたアリク・ブカは兵をすすめるも多勢のマムルーク軍団に敗れ去ります。

モンゴルがフラグによる中東遠征をはじめたのは、オゴタイの時代ではなく、モンケの時代ですから、まだこのころ中東は手付かずの状態でした。ですから、バトゥがエジプトに侵入しても、コンスタンティノープルに侵攻しても問題はなかったかと。
そういえば、キプチャクハン国とイルハン国は国境地帯の豊かな牧草地をめぐって争っていたので、バトゥが南下して中東を制圧というのもあながち考えられなくはないかもしれませんぞ。

[761へのレス] Re: バトウの遠征 投稿者:カリウス 投稿日:2004/02/27(Fri) 00:43
蛇足ながらバトゥの遠征によって、キプチャク高原にいた遊牧民・クマン族の少年・バイバルスは、捕獲され奴隷としてエジプトに売り飛ばされました・・・。
因果応報・・・?

[761へのレス] Re: バトウの遠征 投稿者:地欠王 投稿日:2004/02/27(Fri) 14:27
>大黒屋介左衛門 さん
>コンスタンティノープル果たしかに目標としては申し分ないんですが、はたしてモンゴル軍に攻略できたんでしょうか?

 確かに。
 コンスタンティノープル攻略には、金角湾の奪取が如何にかかってますから。海軍力の皆無なモンゴル勢が落とせたかは大いに疑問ですね。
 もし攻城戦をはじめとしたら、あの三重城壁を真正面から攻撃する事になりまね。はたしてできたか?
 歴史上二度の陥落では、金角湾の制海権を失って金角湾側か攻勢に耐えられなくなり防衛機構が崩壊する事で攻略を許すと言う結果ですから。陸側のみの攻撃では、鉄壁を誇ってますね。

 あと、最後になりましたが、ドイツ騎士団についてのお答えありがとうございます。

[761へのレス] Re: バトウの遠征 投稿者:明倫北斗 投稿日:2004/02/28(Sat) 01:51
大黒屋介左衛門さま、地欠王さま
果してモンゴルにコンスタンチノーブルが陥せたか?
そうね、本当にね、とても難しかったでしようね
カリウスさま、
バトウの南下もありうる。
これもありうるでしようね
ただ、架空空想上の歴史談義、そろそろ打ち止めにしないと、管理人さまから、もういい加減にしろ!ここは真面目な掲示版だぞ!と叱られるのではないかとビクビクしながらも、空想好きのために、ついついとね
管理人さまごめんなさいね・・・
オゴダイがまだ存命で、バトウが1242年の春から夏にかけて、もし、コンスタンチノーブルを攻めたら、というイフ?がさらに突き進んだ話ですね?
コンスタンチノーブルは、1204年に十字軍により陥落し、ニケーア帝国(1204−1261)のものになっていたが、市中でのキリスト騎士らの狼藉横行は激しく、市民の人心は失いつつあったといわれています。事実、1261年に東ローマ帝国のバレオゴロ朝(1261−1453)がラテン軍を追い出して再興するのですが、有名なる三重城壁は、このバレオゴロ朝の200年の間に、十字軍に占拠された苦い経験の基に、費用を厭わずにさらにせっせと増築されたものであり、この増強前のバトウ遠征があったなら、それを守る堕落したラテン兵士、また市民の協力度からも、この城郭都市はオスマントルコのムハメット2世の攻城戦の時とはことなり、あれほどの鉄壁の防衛城塞都市ではなかった!とも想定されるのです。
だがいずれにしろ、ブルガル、ハザール ルーシ サラセンの猛攻を守り抜いたのですから、モンゴルがいくら勇猛といっても簡単に落とせないのは当然でしようね
だがね・・コンスタンチノーブルのラテン帝国の占領が、どうもうまくいっていないぞ・・こんな噂は情報戦を大事とするモンゴルの作戦本部にすぐ入るでしょうね・・過去のモンゴルの戦歴を眺めれば、バトウはこのチャンスを見逃すほど甘くはない部将の感じですね
またバトウは他の皇子等の騎馬軍団とは異なり、城城兵器、投石兵器をはじめ、拠点制圧のための種々の武器や歩兵部隊を用意しての、今回の欧州遠征でしたね、そして見事にその軍を率いてキエフを攻略しています。そして今度はその歩兵のロシア軍団を己の指揮下に組み入れています。 バトウ直属軍だけでも南下作戦を敢行するかもしれません。
そしてなによりも後年のムハメッド2世のコンスタンチノーブル攻城戦と違うのは、バトウ軍の攻城のノウハウは、成吉思汗の中央アジア遠征から、数へきれないほどのオアシス城塞都市を葬り去った、まさしくプロ中のプロ軍団のものでありますね。
同じ遊牧民といっても、アナトリアに300年もすでに定住したトルコ族とは異なり、まさしく群狼集団そのものではないでしようか
そして徹底的なる差は、ムハメッド2世には自己の軍隊の死傷を痛む、まともな神経が存在する。 だがね・・悪いがバトウには、そのような人道的神経などあるのでしょうかね?
おそらくは、バルカン南下作戦中に降伏した、クマン人 ブルガリア人
セルビア人を先に立て、コンスタンチノーブルの北面のテオドシウス城壁を攀じ登らせるでしょう。反対の金角湾など目もくれないでしょう。
そして後から矢をもって追いかける。
登り手は、もう城内にころげこむしか命の助かる方法はないから死にもの狂いとなる、このような死神に近い攻め手に、守り手が右往左往する間に、濠に渡り橋を一気に架設し、攻城用兵器にて一点集中に城壁の門を突き破る。穴があいたならば、騎馬部隊の総突撃である
一番槍部隊は、落城後どんな略奪暴行も許される天下ご免の狼藉者になれるのであります。
モンゴルはいつもこの手をつかう、ルーシのキエフを落とす前に、カマ川流域のヴォルガ・ブルガルやモルトビンやピアトカを落とし、これらの人民を先頭に立ててキエフを攻めた、そしてキエフを落とすと、この人民を先頭に立てて次ぎの都市を攻めるのであります。
こんな人命を屁とも思わない無茶苦茶のことができるモンゴル軍相手に
中世の騎士道に酔う、ラテン軍の防衛隊はどうやって城を守るのでしようかね・・・
私、この時代のコンスタンチノーブルの北方のトラキアの平原地帯に、バトウ軍の軍馬、数万頭でよいでしよう、この軍馬の餌さとなる牧草地があれば、モンゴル兵は馬を殺しその肉を食い餓えを凌ぐ、その血を飲み渇きを癒すということですから、あとはロシアの歩兵部隊の食糧さえ賄えば、兵站問題はそれほど深刻ではないと思いますね・・
この草があるか? そして第6回十字軍がこの地に救援に駆け付ける前にバトウがこの城郭都市が落せるか、どうかですね?
その予測はまったくわかりません。攻略できずに両軍に挟まれ、あわてて北に逃げ出す可能性も十分にあると思いますね
ならば、コンスタンチノーブルを攻略した後に十字軍がこのトラキアに入った場合といえば、
これは予測できますね・・地欠王さまの意見と同じです
遠征疲にて厭戦著しいバトウ軍ならいざしらず、まだやるき満々のこの獰猛部隊に野戦で勝てる軍など、この時代には存在しないと思います
バラバラの状態の十字軍が、集団戦の猛者に勝てる要素はとても少なく、負けも負け、それも十字軍の大敗北となる可能性がとても高いと思いますよ。
管理人さま、ごめんなさい、空想活劇話はこれでやめます。