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艦船論第4回 海軍と艦船の成り立ちと種類 4


○意外と戦闘は世界共通

 今の所、地中海世界の事情を説明するのに、紀元前1500−紀元300年あたりまでの国家や事情を一括して書き進めている。これには、この時代の戦闘がどこも同じ様な形態のまま時間が推移していたという理由がある。都市国家アテネにしても、海洋民族フェニキアの末裔カルタゴにしても、或いはカルタゴを破って全盛を極めるローマにしても、海戦の考え方は基本的に横並び、同レベル・・・というより同質なのである。


 例えば、ギリシア戦争におけるサラミス海戦は有名ではあるが、これは三段櫂船と気象を利用した戦闘であった。
 確かに三段櫂船という地位の確率には貢献したが、結果的に当時の地中海世界の人々に、硬直した概念を与えてしまった。すなわち、大日本帝国海軍にはびこった大艦巨砲主義に似た状態である。大艦巨砲構想は別段何の問題もない兵制構想の一つである。構想が生まれた時代は飛行機が未発達であったから、時代にも合っていたと言えるだろう。


 サラミス海戦以降に蔓延した重段櫂船優位構想も同様である。
 彼らは戦いの方法を変化させたのではなく、兵器の強化により強く傾倒したのである。

 しかし、どの様な兵器もそれを生かしきれなければ意味がない。


 サラミス海戦におけるテミストクレスは用意された兵器の性質と戦場想定設計に基づく戦術プランであった。故に倍近いペルシア艦隊を相手にして、彼らを手玉に取る事が出来たのである。しかし、この当時、或いはそれ以降におけるしばらくの間、海軍の司令官は陸上の将軍が一時的に指揮杖をふるうのが一般的であった。当時の戦争自体が陸上での『会戦』を主としていたからである。その為に、海上での戦闘も会戦を擬した物が多いのは当然である。それだけに海上の専門家ではなくても、艦隊の指揮を執る事は可能であったのだ。

 それに何よりも、この当時の海上戦闘は確かに概念としては現在に通じる海戦思想を持っていたにもかかわらず、それを活用はせず、陸上の戦闘方法を軸に相手の船に乗り移り、陸上の攻城戦よろしく、白兵戦を展開させていた。結局は海戦と称しても内実は陸上の戦闘と大差がないのである。

 無論、戦略や戦術の概念は陸上であろうと、海上であろうと、空であろうと、普遍である。

 問題は前回を踏襲する価値観であろう。

 或いは上手く事が進んだ場合、それと同じ事を繰り返そうとする行動である。
 頭がいかに柔軟な思想で満たされていたとしても結局、硬直した行動を採らせてしまうのである。
 無論、当時の地中海世界は確かにそれでも充分であった。とは言え、海軍の必要人員は増すばかりである。

 多重層櫂船の1本の櫂の漕ぎ手は3人になりしまいには10人になった。
 船は巨大化し、鈍動になり、変わりに乗り込む戦闘要員が増えた。
 1地区の制海権を奪う一つの海戦に10万人規模を動員するという状況であった。

 それでも、軍隊として破綻しなかったのは、戦争をする双方共に補給基地が目鼻の先に存在していたからである。その様な中で海軍の組織はどうであったかというと、組織としては全く成り立っていないのである。というよりも、陸上戦闘の組織がそのまま海軍の組織に一時的に変わるからに過ぎないからである。船乗りや船長は確かに海軍専属ではあるが、正規の軍人とは見なされていない感が強い。

 実際、カルタゴにしても、ローマにしても、ペルシアにしても、海軍の専属要員は支配階級以外の者や異民族や奴隷で構成される、被支配者の集団であった。各船の航海要員の上に戦闘要員があり、船長以下船専属幹部の上に戦闘司令部が形成される、そしてその上に陸上部隊兼海軍の指揮を執る戦隊或いは部隊司令部が置かれる。
この図式が大航海時代が本格的に始まるまで続くのである。

 更にこの膠着した状態の悪化を決定づけた物はゲルマン人国家の群立と興亡、それに続くキリスト教の協会権力の強大化と、他教の迫害に付随する過去の知識の忘却がある。必然的に海軍という組織がが本格的に必要になり、本格的に活動するまでは大航海時代を待たなければならないと言う事でもある。それも実質的には1から出直しするという形で・・・。


 しかし、その間にも西欧の海軍力は人員が膨れる反面、海洋諸国に比べて鈍化するのである。


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