水戸城&弘道館〜茨城県水戸市〜


○解説

 水戸城の歴史は非常に古く、1193(建久4)年、源頼朝により、この地域の地頭に任じられた馬場資幹が屋敷を構えたことに始まります。そして1426(応永33)年、馬場満幹の留守を狙って河和田城主の江戸通房が占拠し、いよいよ城としての構えを整え始めました。

 そして戦国時代は江戸氏の居城として使われますが、豊臣秀吉による小田原攻めの際に当時の江戸家当主である江戸重通は秀吉への協力を拒否。そのため、いち早く秀吉に臣従した常陸守護、佐竹義宣によって攻められ1日で落城。水戸城は佐竹氏のものとなり、これを機に佐竹氏は本拠を太田城(茨城県常陸太田市)から、ここに移し水戸の整備を行いました。

 ところが佐竹義宣は、関ヶ原の戦いで西軍に組したため、秋田へ転封。代わって、家康五男の武田信吉が15万石で入封するが早世したため、家康の10男である徳川頼宣、そして1609(慶長14)年に家康の11男である徳川頼房が入封し、のちに水戸徳川家35万石の居城として繁栄することになりました。

 明治維新後は大半の建物が解体され、解体を免れた天守代用の御三階櫓も1945(昭和20)年の空襲で焼失。そのため、土塁と堀が残るのみとなっていましたが、1981(昭和56)年、城下の祇園寺に払い下げられていた薬医門(※上写真。元々は本丸橋詰御門と推定)が旧本丸跡の県立水戸一高敷地内に再移築されています。佐竹氏時代に造られたものと考えられ、安土桃山時代の建築として大変貴重なもので、茨城県指定文化財に指定されています。

 また、9代藩主の徳川斉昭が三の丸に開設した弘道館は、正庁、至善堂、正門の3建築が現地で今も往時の姿を今に伝えており、国の重要文化財に指定されています。

 さらに、2015(平成27)年4月には水戸城南側の出入り口だった「柵町坂下門」と、同じく北側の出入り口だった「杉山門」が復元されたほか、2019年度までに大手門と二の丸角櫓や土塀などが復元される予定です。
(写真&解説:裏辺金好)

○場所



○風景




JR水郡線が再利用した本丸の堀


柵町坂下門
二の丸の南口にあった高麗門を復元したもので、本来はこの場所よりも下にありました。この門をくぐり坂を上ると、柵町門がありました。


杉山門
二の丸の北口にあった高麗門を復元したもので、当時は敵の侵入を遅らせるために土塁によって桝形を形成していました。


杉山門周辺
県立水戸第三高校などの周囲は城郭風に整備されています。


彰考館
水戸藩主の徳川光圀(いわゆる水戸黄門)が『大日本史』の編集のために設けた研究所の跡。



大手橋と大手門跡
今後、復元が行われる予定です。


弘道館 【国指定重要文化財】【日本遺産】
弘道館は、第9代藩主の徳川斉昭によって1841(天保12)年に三の丸へ創設された水戸藩の藩校で、武芸一般から医学・薬学・天文学・蘭学まで様々な学問が教えられました。現在も正庁、至善堂、正門の建築が残り、国の重要文化財に指定されています。

弘道館正庁 【国指定重要文化財】【日本遺産】


弘道館正庁 【国指定重要文化財】【日本遺産】

弘道館正庁 【国指定重要文化財】【日本遺産】

弘道館正庁 【国指定重要文化財】【日本遺産】

弘道館正庁 【国指定重要文化財】【日本遺産】

弘道館正庁 【国指定重要文化財】【日本遺産】

弘道館至善堂 【国指定重要文化財】【日本遺産】
徳川斉昭の子で、第15代将軍となった徳川慶喜も弘道館で厳しい教育を受け、そして大政奉還の後、水戸へ戻ると至善堂で謹慎して明治政府への恭順を示しました。


大日本史

茨城県三の丸庁舎(旧・茨城県庁)
 1930(昭和5)年築。置塩章の設計で、水戸城三の丸に建てられたもの。1999(平成11)年まで県庁として使用され、現在は県の福祉関係の組織や水戸市パスポートセンター、NHK文化センターなどが入っています。尖塔や車寄せなど、いかにも昭和初期の役所建築といった雰囲気。以前は後年に増築された4階部分もありましたが、現在は撤去されています。
 なお、現在の茨城県庁は水戸駅からバスで20分という非常に不便な場所へ移転しています。


水道低区配水塔  【国登録有形文化財】
 1932(昭和7)年築。市内への給水設備として建造された、鉄筋コンクリート2階建て、高さ21.6m、そしてクリーム色の洋風デザインや二階壁面を飾るレリーフ、一階入り口のゴシック風装飾などが特徴の非常に優美な建築です。2000(平成12)年まで使用されました。
 一時は外壁が剥離するなど老朽化が著しく進んでいましたが、2006(平成18)年に改修され、再び美しさを取り戻しています。

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