岩村城と古い町並み〜岐阜県恵那市岩村町〜


○解説

 標高717メートルの山城・岩村城は日本三大山城の一つとして名高く、別名「霧ヶ城」とも呼ばれます。その起源は源頼朝の寵臣・加藤景廉が1195年(建久六年)に築城したことに始まります(諸説あり)。後に加藤氏は岩村城のある遠山荘にちなみ遠山氏を名乗り美濃国東部を治め、戦国時代には武田氏との交流を深める一方で織田氏とも縁戚関係を結びました。

 織田・武田の抗争が本格化すると美濃・信濃の国境にある岩村城の激しい争奪戦が行われ、最後は織田信忠が1575年(天正三年)に攻略。戦国後期の岩村城主は、女城主となった遠山景任の未亡人(織田信長の叔母)・秋山虎繁(武田信玄の将、景任未亡人と結婚)・川尻秀隆・森蘭丸・森長可(以上信長の家臣)に引き継がれますが、そのいずれも非業の死を遂げています。

 江戸時代に岩村藩の成立に伴い現在の石塁を含む近世城郭が整備されましたが、城主は山麓の藩主邸に移ったため山上の本丸などは詰め城として扱われました。明治維新を経て廃城となり、1990(平成2)年に山麓の太鼓櫓など(上写真)が復元されています。
(写真:リン ※特記を除く)

○場所



○風景


岩村散策マップ

知新館正門
岩村藩の藩校である知新館は、1702(元禄15)年に藩主・松平乗紀が開いたもの。正門が岩村歴史資料館に移築されています。

岩村城案内図


藤坂
大手道のうち、藩主邸から一の門へ続く急な坂道は、フジの大木があったことに由来して、藤坂と呼ばれます。

初門(はつもん)
写真奥側が鉤の手のように大きく曲げられ、有事の際に臨時の門を構築し、通行を遮断できるようになっています。

一の門
大手一の門とも呼ばれ、左側に単層の多聞櫓がありました。

土岐門跡
岩村城第2の門。名称は土岐氏を打ち破って門を奪い、移築したとの伝承によるもの。


移築現存する土岐門
土岐門は徳祥寺(岩村町飯羽間)に移築されて現存しています。

畳橋
床を畳のようにめくることが出来たことから、この名称がありました。

追手門跡

三重櫓跡
岩村城の実質的な天守閣。城下町の馬場と本通りは、三重櫓を正面に見るように設計されています。

追手門・三重櫓・畳櫓を再現したARアプリ


霧ヶ井(きりがい)
岩村城の別名「霧ヶ城」の由来となった井戸。城内秘蔵の蛇骨を入れると、霧が湧いて城を守るという伝承があります。

菱櫓跡


六段壁
元々は最上段のみの高石垣だったものが、崩落防止のために前面へ補強を重ねた結果、このような姿になりました。


長局埋門





埋門(うずみもん)
門の右側には納戸櫓(二重櫓)が設けられていたほか、左側の石垣は江戸時代初期のものと考えられています。





本丸
内部に特に施設はなく、広場となっていました。




○岩村町岩村本通り伝統的建造物群保存地区


下町枡形と高札場跡(写真左手)



岩村藩鉄砲鍛冶 加納家

勝川家
江戸後期の建物で、木造2階建て2軒の建物などがあります。勝川家は年貢米などを扱う藩内でも有数の商家でした。以下、内部を少しのぞいてみましょう。








浅見家
幕末には三代にわたって大庄屋を務めた家で、資金面などで岩村藩を支えました。明治以降は県会議長、貴族院議員を輩出しています。


まち並みふれあいの舘(観光案内所)

木村家 【恵那市指定文化財】
浅見家と共に資金面などで岩村藩を支え、藩主が何度となく木村家を訪れるほど。藩主出入りの玄関や表通りに面した武者窓・上段の間などが特徴的です。

○岩村城 (解説&撮影:Kircheis様 禁転載)


岩村城には多数の櫓があったが天守閣はなく、ここにあった三重櫓が実質的に天守に相当した。



六段壁と呼ばれた石塁は江戸時代後期に積み直されたもの。長方形の石材を交互に組み合わせた「落とし積み」と呼ばれる技法が用いられている。


本丸跡

岩村城には17か所の井戸があった。霧ヶ井は城主専用の霊泉で、敵襲に際し秘蔵の蛇骨を井戸に 投じると雲霧が城を覆い尽くしたという。

 岩村城下町。こちらは2008年の撮影で、先に掲載したリン所員の写真(2019年)と比べると、電線が目立ちます。約10年で景観が一気に向上したことが分かります。

↑ PAGE TOP