月山富田城〜島根県安来市広瀬町〜


○解説

 月山富田城(単に富田城とも)は戦国時代における難攻不落の城として大いに有名な城。標高197mの月山(がっさん)全体を利用して築城された巨大な城郭で、平安時代末期に平氏によって築城されたとも言われますが、源頼朝が1185(文治元)年に、佐々木義清を出雲の守護に任命して入城させたことから、この地方の中心として歴史が始まります。これ以後、塩治氏、佐々木氏、山名氏、京極氏が領有し、そして戦国時代には出雲国守護代の尼子経久が1486(文明18)年に占拠すると、ここを拠点に山陰、山陽11カ国を支配するまで成長し、1508(永正5)年には京極氏に代わって出雲守護に叙任されています。
 繁栄を極めた尼子氏でしたが、次第に安芸の国人である毛利元就が台頭。経久の嫡孫である尼子晴久は尼子氏の最盛期を作り上げますが、彼が亡くなるや毛利元就の猛攻の前に降伏。月山富田城は毛利氏の領有するところとなります。一時は尼子遺臣の山中鹿之助が奪還を試みますが失敗しています。
 そして関が原の戦い以後、防長2カ国に削減された毛利氏に代わって堀尾吉晴が入城。近代城郭として、石垣や山中御殿などを行い大改修を加えます。しかし1611(慶長16)4年に堀尾忠晴は松江へ本拠を移したため、月山富田城と城下町は中世以来の出雲の中心としての役割をついに終えました。
 現在は堀尾氏時代の石垣が良く残るほか、写真上の花ノ壇と呼ばれるエリアには、発掘調査に基づいて尼子氏時代の主屋と侍所を想定した建築が復元されています。
(本文・撮影:裏辺金好)

○場所



○風景


末期の月山富田城
堀尾氏によって近代城郭へと整備された月山富田城。壮大な規模を誇る城でした。

末期の月山富田城
その中でも、これから紹介するのはこの範囲のエリア。

大手門跡


山中御殿跡
 月山富田城中腹に位置する御殿跡で、「さんちゅうごてん」と呼びます。ただの御殿跡ではなく、山麓から山頂にある本丸に行くためには、どの道を経由してもここに至るため、重要な防衛ラインでした。


山中御殿跡
山麓・・・と思いきや、既にこれでもかなり高い位置にあります。徒歩で来る場合は一苦労。

山中御殿跡から本丸を望む

山頂への道
 山中御殿から本丸などがある山頂に至るまでは、長い山道を登ります。歩けるように整備されてはいますが、良くも悪くも昔ながらの状態となっているため、登る際には十分な準備が必要です。


三の丸跡

二の丸跡


二の丸跡

二の丸より周囲を見る
 かつては、大内氏が月山富田城を攻めたこともあり、ここから多くの兵士たちが見えたことでしょう。


二の丸より本丸を望む


本丸


勝日高守神社
尼子氏時代は城内の守り神でした。

城安寺山門
城安寺は菅谷口にある臨済宗の寺院で、山門は広瀬藩9代藩主松平直諒の寄進。

城安寺庫裏・本堂
1897(明治30)年に建築されたもので、本堂は南禅寺様式。

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