盛岡城〜岩手県盛岡市〜


○解説

 盛岡城は、三戸から不来方(こずかた)の地へ本拠地を移すことを決定した、南部信直(盛岡藩初代藩主)が1597(慶長2)年に嫡子である南部利直(のち盛岡藩2代藩主)を総奉行に築城を始めたもので、このときに地名を不来方から盛岡に改名しています。

 北上川と中津川を天然の要害とし、この合流地点に突き出した丘陵に造られているのが特徴。豊臣家の重臣である浅野長政の助言による縄張りであるといわれています。

 しかし、この川の氾濫に悩まされて工事は長期に及び、1633(寛永10)年に第3代藩主の南部重直が入城し、これより南部家の本拠地として明治維新を迎えます。維新後は陸軍省の所管となり、城内の殆どの建物が破却。1906(明治39)年に岩手公園となり、建物こそ殆ど無いものの、石垣の保存状態は良好で、さらに縄張りも本丸、二の丸、三の丸、さらに三の丸から突き出した下曲輪が残っているのは圧巻です。

 なお2006(平成18)年からは盛岡城跡公園として案内されています。
(写真・本文:裏辺金好)

○場所



○風景


現在の盛岡城跡公園(岩手公園)


下曲輪の堀


櫻山神社


御三階櫓復元模型
櫻山神社にて。御三階櫓は天守代用とされたものでした。


瓦御門跡
三の丸への入り口


三の丸跡


渡雲橋
二の丸(手前)と本丸(奥)を結ぶ橋

本丸跡

南部中尉銅像台座  日露戦争で戦死した、南部家第42代当主の南部利洋(陸軍奇兵中尉、当時24歳)の奮戦を称え(明治維新の際に朝敵とされた汚名をそそいだとした)、五戦数百名の市民の賛同によって銅像が造られました。しかし、太平洋戦争中の1944(昭和19)年に軍需資材として供出され、以後は再建されていません。

南部中尉銅像
かつてはこうだったそうな。

御三階櫓跡

本丸石垣(左上は隅櫓跡)

二重隅櫓(大櫓)跡
本丸の下、淡路丸を守る櫓の1つ。

彦御蔵
江戸時代後期に建てられたものと考えられ、城内に唯一残る建造物。市道の拡幅により、100m西方から移築。
かつてこの場所は米内蔵があった場所です。

腰曲輪の石垣

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