臼井城〜千葉県佐倉市〜


○解説

 臼井城は下総の名門、千葉氏の一族である臼井氏の居城として築城されたもの。
 
 その成立について確かなことはわかっていませんが、室町時代に鎌倉公方の足利氏と、関東管領の上杉氏の争いが勃発する中、千葉氏では足利氏が支援する馬加(まくわり)千葉氏と、上杉氏が支援する惣領家(※本家のこと)で内紛を起こします。

 そして、1478(文明10)年に千葉氏惣領の千葉自胤や扇谷上杉家の家宰である太田道灌は、馬加系の千葉孝胤を小金城近くの境根原(さかいねがはら)近くで撃破。千葉孝胤は、一族の臼井持胤が守る臼井城に籠城し、約7か月間の籠城戦を繰り広げ、太田道灌の弟である太田資忠らを討ち死にさせるも落城します。ただし、間もなく千葉孝胤は臼井城を奪還し、臼井氏が再び領有しました。

 1561(永禄4)年に里見義尭の家臣である正木時茂が臼井城を攻め落城。当時の城主、臼井久胤は結城城の結城晴朝の下への逃れます。さらに、1564(永禄7)年に臼井城は千葉氏一族の原胤貞が奪還しました。

 1566(永禄9)年には上杉謙信が、小田原の北条氏に味方する千葉氏を攻撃するため、その前線である臼井城を攻めますが、何と持ちこたえます。その後、1590(天正18)年に豊臣秀吉の小田原攻めによって北条氏が滅亡すると、千葉氏、原氏は没落し、徳川家康の家臣である酒井家次が3万石で入城。

 1604(慶長9)年、酒井忠次は高崎に転封となり、臼井城は廃城となりました。現在は、臼井城址公園として整備されているほか、京成臼井駅近くにある臼井田宿内砦が宿内公園として整備されています。
(撮影&解説:裏辺金好)

○場所



○風景


臼井城址公園案内図
残念ながら城の説明や、縄張りの案内図は掲示されていないのが残念。この公園の案内図では、とても上杉謙信を撃退できたようには見えませんが、上図の2つの内郭のほか、2つの外郭、さらにこれらを取り囲む惣構を形成していました。

臼井城入口
上図で至京成臼井駅と書かれている道から入ります。






西側の郭。


土塁


東側の郭(図面で本丸跡とされている場所)への入り口


本丸跡


石垣
本丸の北、搦手への虎口への道のわきに近世のものと思われる石垣が残っています。


本丸跡からの眺め
印旛沼が見えるほか、対岸には師戸城があります。


臼井田宿内砦
南側に配置された砦。現在は遺構がはっきりと確認できるのはこれだけですが、臼井城はこうした砦を周囲に配置し、各々が連携して防衛したと思われます。


臼井田宿内砦
ここからは臼井田宿内砦をご紹介。なんと、所有者の好意で公園として開放されているそうです。臼井城の遺構も続々と宅地化された中、なんという太っ腹!

土塁










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