国府台城〜千葉県市川市〜


○解説

 国府台城(こうのだいじょう)は、1479(文明11)年に扇谷上杉家の家臣である太田道灌と、その弟である太田資忠が千葉孝胤が守る臼井城を攻略するために築城したもの。臼井城は攻略したものの、太田資忠は戦死してしまいました。

 この城を有名にしたのは二度の国府台合戦で、まず第一次国府台合戦が1538(天文7)年に起こります。これは、小弓公方を自称した足利義明が里見義堯等を率いてこの地に陣を置き、北条氏綱と戦ったもので、足利義明が敗死し、北条方の勝利に終わりました。

 次に第二次国府台合戦が、1563(永禄6)年から1564(永禄7)年にかけて行われたもので、里見義弘と北条綱成が激突。国府台城に入城した里見義弘は、緒戦は北条方の軍勢に勝利しますが、北条綱成の奇襲によって大敗を喫しました。その後、北条家の領有するところとなりますが、1590(天正18)年の豊臣秀吉による小田原北条攻め後は、廃城となりました。

 現在は主郭部が里見公園として整備されており、空堀や土塁が一部残っています。また、ここには元々、全長40mと推定される前方後円墳「明戸古墳」がありました。太田道灌が陣を構築する際に盛土を除去したため、露出した2つの石棺が、今も残っています。ちなみに、19世紀の天保年間に書かれた「江戸名所図会」にも石棺に関する記載があり、「一つは里見長九郎弘次の墓で、一つは正木内膳(ないぜん)の墓だという伝承もあるが、どちらも誤りで上世人(じょうせいじん/大昔の人)の墓だろう」と正しく推定をしています。
(撮影&解説:裏辺金好)

○場所



○風景





羅漢の井
里見軍が国府台城に布陣した際に、飲用水として利用したとも伝えられます。



紫烟草舎(しえんそうしゃ)
北原白秋(1885〜1942年)が、1916(大正5)年から1年ほど、小岩(江戸川区)で住んでた家。江戸川の改修工事により解体されていましたが、所有者で市川市在住の湯浅伝之S氏からの寄付によって里見公園内に移築復元したもの。


バラ園
ここで合戦があったとは思えない、とても美しい西洋的な光景に変貌しています。


土塁


公園として模擬石垣などが整備されていますが、なんとか往時の雰囲気は感じられます。









明戸古墳石棺 【市川市指定重要有形文化財】






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