ノツカマフ 1・2 号チャシ〜北海道根室市〜


○解説

 「チャシ」はアイヌ語で「柵囲い」を意味し、正確な年代は不明ですが16〜18世紀頃に造られたと考えられています。砦、祭祀の場、見張り場など多目的な用途で使われていたとされ、土塁と壕(堀)などで構成。どのような建物があったかは、よくわかっていません。根室市内に残る32ヶ所のチャシ跡のうち、24ヶ所が「根室半島チャシ跡群」として国指定史跡、日本100名城(1番)となっています。

 このうち、ノツカマフ1号・2号チャシ跡とヲンネモトチャシ跡の2ヶ所が良好に整備されています。ここでは、ノツカマフ1号・2号チャシ跡をご紹介します。

 ここは、ノツカマップ湾に突き出した岬の上にあり、オホーツク海を一望できる崖上に、半円形の壕があります。ノツカマップとはアイヌ語で「岬の上にあるところ」の意味。1754年には、松前藩の役人やこの地を経営する和人が住むようになりました。1778年にロシアの商人シャバーリンが来航し交易を申し出ており、日露外交交渉発祥の地でもあります。

 1789年には和人による過酷なアイヌ支配に対し、クナシリ場所(国後郡)のアイヌなどが蜂起。71名の和人が殺害される「クナシリ・メナシの戦い」が発生。松前藩は戦いに関わった37名のアイヌをこの地に集めて処刑し鎮圧しますが、これを機にこの地方の中心は根室港周辺へ移りました。
(写真:Mr.S/解説:裏辺金好)

○場所



○風景


チャシの分布図


ノツカマフ1号・2号チャシ跡周辺地形図


ノツカマフ1号チャシ跡
現在ではこの程度ですが、壕の幅は約5m、深さは2〜3mもあったそうです。また、一部には土橋と思われる盛り上がりもあります。

ノツカマフ1号チャシ跡

ノツカマフ2号チャシ跡
こちらは壕の幅は約2〜3m、深さは50cm程度と小規模。未完成の可能性もあります。


ノツカマフ2号チャシ跡


寛政の蜂起和人殉職碑
場所は納沙布岬近くなのでノツカマフ 1・2 号チャシとは違いますが、冒頭に御紹介したクナシリ・メナシの戦いで犠牲になった71名の和人の慰霊碑です。

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