金沢城 〜石川県金沢市〜

○解説

 戦国時代、一向一揆で本願寺門徒の拠点となった金沢坊を中心に寺内町が成立し、安土桃山時代に佐久間盛政が金沢坊を攻め落とした跡に尾山城を改築したのが、金沢城の始まりです。

 1583(天正11)年、前田利家が領有するようになると、キリシタン大名で縄張りの名手高山右近の設計で築城されます。しかし、1602年には早々に天守閣が落雷で焼失。以後、天守閣は造られませんでした。江戸時代も加賀100万石と称される前田家の総本拠地として、城と町は大きく発展しますが、その後も火災で多くの建物を焼失しています。

 明治維新後、兵部省(翌年から陸軍省)の管轄となり、大半の建物を失い、さらに1949(昭和24)年には金沢大学の建物が城に置かれました。そのため、長らく金沢城は石川門と、手前にある兼六園を観光できる程度でしたが、1995(平成7)年に金沢大学が移転したことから復元工事に着手。

 2001(平成13)年には菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓、2011(平成23)年には河北門、2015(平成27)年には橋爪門と玉泉院丸庭園、2020(令和2)年には鼠多門及び鼠多門橋が復元。加えて三十軒長屋、鶴丸倉庫などは江戸時代から残り、今や往時の雰囲気を大きく取り戻しています。
(撮影・解説:裏辺金好)

○場所



○風景

金沢城復元模型


石川門 【国指定重要文化財】
兼六園と対になった位置にある石川門。1787(天明7)年に再建されたもので、外側に高麗門形式の一の門、内側に櫓門形式の二の門、そして二重櫓を配置しています。上写真2枚目は二の門の内部。

石川門 【国指定重要文化財】
こちらは櫓門形式である石川門の二の門。

鶴の丸土塀橋爪門(一の門)・橋爪門続櫓・五十間長屋・菱櫓 (写真左から順番に)
1881(明治14)年に焼失しましたが、2001(平成13)年に復元。全て木造で造られており、木造建築としては戦後最大級といわれます。なお、菱櫓はその名の通り、菱形に建築されているのが特徴。また、3層3階の菱櫓と橋爪門続櫓を2層2階の五十間長屋でつないでいるのが特徴です。ちなみに写真は橋爪門二の門が復元される前の姿。トップの写真と景観の違いをご覧ください。

橋爪門続櫓・五十間長屋・菱櫓 (写真左から順番に)
別角度から。

橋爪門一の門と橋爪門続櫓  
一の門は高麗門形式。



橋爪門二の門と橋爪門続櫓    
二の門は櫓門形式。橋爪門は二の丸の正門にあたる枡形門で、石川門、河北門とともに「三御門」と呼ばれました。1809(文化6)年に再建された際の姿で復元整備されています。なお、2015(平成27)年3月に橋爪門二の門が復元されたことにより、三御門全てが久々に揃いました。


河北門
金沢城三の丸の正門にあたり、橋爪門、石川門と共に三御門と呼ばれました。現在の建物は2011(平成23)年に復元されたもので、1772(安永元)年に再建され1882(明治15)年頃まで残っていたものを忠実に再現しています。なお、枡形門形式で、上写真は櫓門である二の門。

河北門
こちらは一の門を撮影したもの。高麗門形式です。

三十間長屋 【国指定重要文化財】
約40mの長さ。安政年間(1854〜1860年)の建築で、金沢城に残る江戸時代からの建物の1つです。


鶴丸倉庫 【国指定重要文化財】
1848(弘化5)年に建築された武具土蔵。明治以降は陸軍が被服庫として使用し、かつては軍による建築と考えられていましたが、2000(平成12)年の石川県による調査で江戸時代の建築であることが判明しました。

切手門(きりてもん)
ちょっと地味な存在でありますが、二の丸に現存する門です。

旧陸軍第六旅団司令部
1898(明治31)年築。切手門の奥に現存する、旧軍時代の洋風建築。


玉泉院丸庭園
 城内に引かれた辰巳用水を水源とする池泉回遊式の大名庭園。加賀藩の第3代藩主である前田利常が、1634(寛永11)年に京都の庭師剣左衛門を招き作庭したのが始まり。その後、歴代藩主が手を加えつつ廃藩時まで存在していました。ちなみに、すぐ近くに兼六園がありますが、兼六園は饗応の場として、玉泉院丸庭園は藩主の内庭的なものとして、役割を異にしていたと考えられます。明治期に失われ、戦後は石川県の体育館が置かれましたが、2015(平成27)年3月に発掘調査の結果に基づき、遺構を盛土保存した上で復元されました。
 写真2枚目は鼠多門復元後の姿です。


玉泉院丸庭園

庭園の特徴としては、池底からの周囲の石垣最上段までの高低差が約22mもあること。起伏に飛んだ庭園であり、さらに背後の石垣を庭園の景観要素の1つとして使っています。


玉泉院丸庭園「段落ちの滝」

発掘調査に基づき復元されたもので、斜面を4段で流れ落ちる滝です。



鼠多門・鼠多門橋

2020(令和2)年7月に木造で復元。鼠多門は、金沢城の西側の郭である玉泉院丸に位置し、木橋である鼠多門橋によって金谷出丸(現在の尾山神社境内)と接続していました。外壁は白漆喰塗りで腰壁は海鼠壁が用いられています。なお、海鼠壁の目地が黒漆喰であることが、他の城門と異なっています。


鼠多門

こちらは側面と背面の様子



鼠多門

こちらは内部の様子


旧・金沢城二ノ丸門(現・尾山神社東御門)
桃山御殿様式の唐門で、1760(宝暦9)年の火災を免れた金沢城初期の貴重な遺構。彫刻された二頭の龍が、水を呼んで火災を免れたとの伝説もあります。


尾山神社からみた鼠多門


尾山神社神門 【国指定重要文化財】
尾山神社は、前田利家を祭る神社で、元々は1599(慶長4)年に加賀藩第2代藩主前田利長によって卯辰山に創建されたものが、歴代の藩主によって中心部に移転。神社の神門は、1875(明治8)年にオランダ人技師ホルトマンの設計で津田吉之助が建てた三層造り。神社と思えないような、イスラム風というか、非常に異国情緒漂うエキゾチックな建物です。

尾山神社神門 【国指定重要文化財】
こちらは夜景。ステンドグラスが輝いています。

いもり堀

金沢城の南西側を囲む外堀。明治時代になって埋め立てられ、陸軍用地を経て、戦後はテニスコートとなっていました。写真手前は鯉喉櫓台(りこうやぐらだい)で、上部が失われていましたが、いもり堀の復元整備に合わせて復元されています。

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