七尾城〜石川県七尾市〜


○解説

 七尾城の正確な築城時期は不明ですが、室町幕府の管領職を務めた足利氏一門の畠山氏の有力諸流である能登畠山氏が、現在の市街地付近にあった能登府中の守護所に代わる居城として16世紀初頭に大規模に整備したと考えられています。
 標高300mの山頂部に位置する本丸を中心に、七尾の名前の山来と言われる7つの尾根に曲輪が造成され、250m下の麓には大規模な城下町を整備。七尾から港付近の能登府中まで約4kmもの家並みが続き、千門万戸と称えられました。また、応仁・文明の乱以降は多くの文化人が七尾を訪れたことから京風文化が栄え、国宝「松林図屏風」を描いた長谷川等伯は1539(天文8)年に七尾で生まれ育ちました。
 1576(天正4)年に上杉謙信が能登に侵攻し、七尾城は1年にわたる抵抗の末、内応によって落城。上杉方が領有しますが、1581(天正9)年に織田信長の重臣、前田利家が能登一国を与えられて七尾城に人城。しかし、翌年に新たに港近い場所小丸山城を築城して居城を移し、七尾城は1589(天正17年に廃城。小丸山城も1615(元和元)年の一国一城により廃城となりました。
 現在は曲輪と石垣が残っており、中でも上写真の桜馬場の石垣は五段に組まれており圧巻です。
 (撮影:リン)

○場所



○風景


七尾城の縄張り
山上に大規模な曲輪と建物が構築されていました。


堀切(関東橋)
本丸と長屋敷を遮断するために尾根を人工的に掘削したもので、江戸時代終わりごろの古地図では関東橋と呼ばれる橋を架けていた様子が描かれています。


調度丸跡
弓矢などの武具(調度)を整えていた場所で、多数の出土品が発掘されています。



安寧寺跡
畠山氏の墓碑や七尾城攻防戦で亡くなった城兵の慰霊碑があります。

三の丸
南北110m、東西25mの曲輪です。

大堀切
二の丸と三の丸を分断する人工的な堀切。幅40m、高さ26mにも及びます。





二の丸
尾根を大規模に造成し、南側斜面に石垣を二段積み上げているのが特徴。


温井屋敷跡
畠山氏の重臣、温井氏の屋敷跡。

九尺石
城の鎮護の要石で、名前は石の大きさに山来。



桜馬場跡
軍馬の訓練などを行。た馬場と言われ、長さ45、南北25の広さがありました。



遊佐屋敷跡
本丸のすぐ西側に接する曲輪で、守護代であった遊佐氏の屋敷跡と伝えられます。




本丸跡
東西の長さが50m、南北の長さが40mある、七尾城の中心たる曲輪です。

本丸から眺めた七尾市中心部の眺め。

城山神社

↑ PAGE TOP