河後森城〜愛媛県松野町〜


○解説

 河後森城(かごもりじょう)は伊予と土佐の国境付近に位置し、広見川、堀切川、鰯川に囲まれた独立丘陵に築城された、愛媛県内では最大級の山城。最高所の本郭を中心として、山の稜線部には馬蹄形に曲輪が展開されているのが特徴です。
 築城時期は不明ですが、発掘調査では15世紀から17世紀前半にかけての遺物が多数出土しています。この地は戦国時代には黒土郷河原渕領(くろつちごうかわらぶちりょう)と呼ばれ、土佐の一条氏と長宗我部氏による抗争の舞台に。永禄期には一条氏の一族から養子として迎えられたという河原渕教忠(かわらぶち のりただ)が城主であったと云われます。
 1575(天正3)年に長宗我部氏が土佐を統一し、その勢力下に入ったと考えられるほか、1585(天正13)年の豊臣秀吉による四国平定により、当地域を含む宇和郡は、戸田氏、藤堂氏、冨田氏へ支配が移ります。さらに1614(慶長19)年、伊達秀宗(だてひでむね/伊達政宗の長男)が宇和島藩を興すと、付家老の桑折(こおり)氏が居城しますが、1615(元和元)年の一国一城令の発布によって廃城になったと考えられます。
 1997(平成9)年に国の史跡に指定され、1999(平成11)年から環境整備事業を実施。西第十曲輪では掘立柱建物跡と虎口を立体的・平面的に表示しているほか、土塁などを復元しています。また、山麓にある永昌寺の山門は河後森城の城門を移築したと伝わります。
(撮影:リン)

○場所



○風景


全体図


永昌寺山門
前述のとおり河後森城の城門を移築したと伝わります。


登城口(風呂ヶ谷)
井戸跡も見つかっています。



西第十曲輪
発掘調査をもとに、掘立柱建物や土塁が復元されています。逆L字型に2棟配置されており、もう一棟は平面表示されています。

西第十曲輪

西第十曲輪

西第五曲輪

西第四曲輪

西第二曲輪と西第三曲輪を分断する堀切
現在は盛り土で保護されていますが、長さ約17m、幅約1.3m〜2.2m、深さ約1.3m〜1.8mありました。堀の底は平らであったことから通路としても使われていたと考えられます。


本郭へ続く虎口
土橋が残るほか、16世紀後半から17世紀初めごろに石垣が整備されています。




本郭
主従関係などを確認しあう武家儀礼が執り行われていた「主殿舎(しゅでんしゃ)」などが発掘調査で見つかっています。

東曲輪

古城
東西約8.5m〜南北約6.5mの規模の掘立柱建物の跡が見つかっており、城主に次ぐ階級の有力者が使用したと考えられます。

東第四曲輪と古城第二曲輪の堀切
上端の幅約7m、下端の幅約4m、深さが約3mで、門の跡が見つかっています。

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