姫路城 〜兵庫県姫路市〜


○解説

 姫路城が最初に築かれたのは諸説ありますが、1346(正平元)年に赤松貞範が小さな砦を造ったのが起源と考えられています。そして本格的な城郭が造られたのは1555(天文24)年〜1561(永禄4)年頃、黒田重隆が主君の小寺則職の許しを得て築城したのが始まりです。
 
 そして黒田重隆の孫である黒田孝高(官兵衛)は、織田信長の銘を受けて播磨へ侵攻してきた羽柴秀吉に味方し、姫路城を拠点とするよう進言。これにより羽柴秀吉は姫路城に三重の天守閣の建設や石垣の整備などを大々的に行い、中国地方の大大名である毛利輝元に対する拠点として利用。織田信長が本能寺の変で倒れると、秀吉は東へと進み、姫路城は羽柴秀長(秀吉の弟)、さらに木下家定(秀吉の正妻おねの兄)が城主となりました。

 そして1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いの論功表彰で、播磨国52万石の大名となった池田輝政がこの地を治めることになり、姫路城の大改築工事が行われ、1609(慶長14)年に現在私たちがみる城の姿がほぼ完成し、城下町も大々的に整備されました。

 さらに1617(元和3)年には池田輝政病没に伴い、譜代大名の本多忠政が城主となり西の丸などを整備。その後、奥平松平家、越前松平家、榊原家など譜代大名が度々入れ替わり、1749(寛延2)年に酒井忠恭が入城すると、このまま酒井家が姫路を治めて明治維新を迎えました。
 
 酒井家は明治維新に際して幕府方につきますが、本格的な戦闘になる前に新政府軍に恭順。そして姫路城も役目を終え解体の運命が待ち受けるかに見えました。ところが、陸軍の中村重遠中佐が「要塞として興味深く、またデザインも素晴らしい」と保存を働きかけ、一部応急修理の上で解体は免れましたが、放置されることに。そのため、折角残ったのに荒廃が進み、崩れかけていきます。しかし新聞で状況が報じられたことから、明治43年、ようやく陸軍省が動き出し1年間かけて大修理を実行。さらに1956(昭和31)年、やはり再び荒廃の進んだ姫路城の修理が本格的に行われ、保存措置が講じられました。

 1997(平成5)年には世界遺産に指定。世界的に注目を集めています。また、2009(平成21)年6月から2015(平成27)年3月まで大天守を中心に平成の修理が行われ、大天守の白漆喰の塗り替え、瓦の葺き替え、耐震補強などが行われました。
(写真・本文:裏辺金好)

○場所



○風景


姫路城復元模型
今でも多くの建造物が残る姫路城ですが、それでも現在は広場となっている場所等にも、多くの建造物があったことが分かります。




桜門
三の丸への入り口。まずはここから姫路城へ入ります。


三の丸跡
現在では広々とした空間ですが、かつては屋敷や長屋、蔵などが建ち並んでいました。仮にここが復元されれば、姫路城の壮大さが一層際立つことでしょう。


菱の門 【国指定重要文化財】
そして二の丸への入り口。二重目に漆塗りの格子があり、飾り金具があるのが特徴。門の名前の由来は、門の上に菱の飾りがあることから。

三国掘
姫路城が建つ2つの山、姫山と鷺山の間の谷部に設けられた堀で、防衛及び溜池という2つの機能があります。


「い」の門 【国重要文化財】
菱の門の奥、「い」「ろ」「は」「に」・・・と次々と門があり、敵の侵入を阻みます。なお、今回はまず西の丸へ向かいますので、この門には入らずに写真左手へ行きます。


西の丸全景
 【国指定重要文化財】
姫路城大天守からの風景。西の丸は江戸時代初期、本多忠政が嫡男・忠刻と千姫夫妻(家康の孫娘で、豊臣秀頼の元妻)が暮らすために造られたもの。姫路城の西側の防衛機能を強化する狙いもありました。


西の丸より姫路城天守閣を見る


西の丸長局(百間廊下) 【国指定重要文化財】
1618(元和4)年築。300mもの廊下に部屋が並んでおり、千姫に仕えた侍女たちが住みました。櫓の名前は細かく書くと、手前から「ヨ」の渡櫓、「ヌ」の櫓、化粧櫓といいます。


西の丸「ル」の櫓・「ヨ」の渡櫓、「ヌ」の櫓、化粧櫓 【国指定重要文化財】

西の丸「カ」の櫓 【国指定重要文化財】
西の丸南東部を守る櫓です。


西の丸渡櫓内部
どの渡櫓を撮影したものだったかは忘れましたが、このように廊下脇に部屋が幾つもあるのが特徴です。

西の丸化粧櫓 【国指定重要文化財】
千姫がこの櫓を休息所としたことが名称の由来。

西の丸化粧櫓内部 【国指定重要文化財】
内部は畳が引いてあり、見所の1つです。

「は」の門 【国指定重要文化財】
西の丸から今度は本丸へ。「ろ」の門は通らず、直接「は」の門へと進みます。

「ろ」の門 【国指定重要文化財】
通過した「ろ」の門の背面。典型的な高麗門形式です。

「に」の門 【国指定重要文化財】
「は」の門をくぐると櫓が見えてきますが、これは「に」の門の一部。

「に」の門への道
「に」の門(写真左上)へ行くためには、一度奥へ進み、さらに手前側に登らないといけません。

「に」の門 【国指定重要文化財】
ようやく到着した「に」の門。櫓と結合した意外と複雑な構造です。 そしてまた、写真右上へ登っていきます。

乾小天守(左)/西小天守 【国指定重要文化財】
乾小天守は「東」「西」「北西」にある3つの小天守の1つで、北西の小天守。
外観は3層、内部は地下1階・地上4階で、3つの小天守の中で最も大きいものです。

水の五門 【国指定重要文化財】
西小天守と大天守の間にある重要な門で、門扉の前面は鉄板張りの頑丈な造りになっています。

大天守地階 【国宝】

大天守一階 【国宝】

大天守一階 【国宝】
このように火縄銃など武具を備えることが出来ました。


大天守二階 【国宝】

大天守三階 【国宝】

大天守五階 【国宝】 *4階の写真は撮り忘れました・・・。

大天守六階 【国宝】
最上階の六階には、刑部神社があります。


大天守より三の丸全景


西小天守(左)・大天守(右) 【国宝】
平成の大修理前後の写真を掲載。大天守は全国の現存天守閣で最大の規模。五重六階地下一階で、後期望楼型。最上部は周囲に廻縁高欄が無いため、外に出てぐるっと回って歩くことは出来ません。写真手前が備前丸と呼ばれるエリア。かつてはここにも御殿があったと考えられています。

備前門 【国指定重要文化財】
備前丸に入るための門。では、姫路城の東側を歩きながら下っていきます。

帯の櫓 【国指定重要文化財】
実は、この櫓の石垣は城内で一番高く垂直方向に約23mもあるとか。櫓は地上一階、地下1階の構造です。

帯郭櫓 【国指定重要文化財】
帯の櫓の下にあるのが帯郭櫓です。


「り」の門・太鼓櫓 【国指定重要文化財】
 「り」の門は木下家定によって建てられたと伝えられている古い門です。また太鼓櫓には時を知らせる太鼓がお買われていたといわれています。で・・・ここから「ぬ」の門まで上山里曲輪といい、秀吉時代に整備されたといわれています。


「ぬ」の門 【国指定重要文化財】

「る」の門 【国指定重要文化財】
そしてこの左が三国掘。これで二の丸→西の丸→本丸→備前丸→上山里曲輪→二の丸と一周しました。

秀吉築城の姫路城天守閣模型
豊臣秀吉が姫路城を使用した際には、三層の天守閣が造られたと考えられています。

姫路市立美術館(旧第十師団兵器庫)  【国登録有形文化財】
大天守から姫路城東側の眺め。レンガ造りの建物は元々、城郭の一角に造られた陸軍の兵器庫で、1905(明治38)年頃の建築。

姫路市立美術館(旧第十師団兵器庫)  【国登録有形文化財】

姫路市立美術館(旧第十師団兵器庫)  【国登録有形文化財】

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