高松城(讃岐国)〜香川県高松市〜


 1588(天正16)年、豊臣秀吉配下で、前年に入封した生駒親正が玉藻(たまも)沖に築城したもので、このときに「野原」の地名を『高松』と改めました。今はフェリー乗り場として埋め立てられていますが、北側は海に面した城であり、日本三大水城(高松城、今治城、中津城)の1つに数えられています。現在も直ぐ目の前が海であり、往時の雰囲気を偲ぶことが可能です。
 生駒氏4代のあと、水戸徳川家の一族である松平頼重が高松藩を治めることになり、3層5階の天守閣を建造。この高松松平家は明治維新まで高松藩を治め、家中からは平賀源内などを輩出しています。
 そして1884(明治17)年に天守は解体され、さらに空襲で多くの建物を失うものの、艮(うしとら)櫓・月見(つきみ)櫓・水手御門・渡櫓が現存(いずれも重要文化財)。さらに旧藩主家12代目の松平頼壽(よりなか)が1917(大正6)年に、巨額の費用を投じて建設した披雲閣も現存し、現在は高松市の管理で利用されています。こちらについても2012(平成24)年に重要文化財に指定され、歴史的な価値が高く評価されています。
(撮影&解説:裏辺金好)

○場所



○風景


高松城下図屏風


北の丸月見櫓・水門・渡櫓 【国指定重要文化財】
 月見櫓・渡櫓は1676(延宝4)年築。水手御門は江戸末期の建築。後方に船が見えますが、本来はここまで海面に面していました。なお、北の丸(北新曲輪)は1671(寛文11)年の松平氏による大改修で増設されたエリア。


旧・東の丸艮櫓 【国指定重要文化財】
1677(延宝5)年築。1965(昭和40)年に、高松市が東の丸から太鼓櫓跡に移築したもの。

旭門

埋門 旭門の後ろに現存する埋門

天守台跡 天守閣は外観三重、地上四階、地下一階で地上四階と一階が外側に張り出していました。

玉藻廟 1920(大正9)年に高松松平家の初代藩主・松平頼重を祀った玉藻廟が天守台跡に建立されました。
しかし2006(平成18)年からの解体修復工事によって解体されています。

鞘橋 本丸と二の丸を繋ぐ橋

披雲閣 【国指定重要文化財】
1917(大正6)年に三の丸に建てられたもの。

披雲閣 【国指定重要文化財】
元々は1872(明治5)年まで、現在の2倍の規模の書院風建物「披雲閣」がありました。

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