伊勢亀山城は、1265(文永2)年に、この地方を支配する関氏が築城したものが始まり。1573(元亀4)年に関盛信が織田信長によって追放されるまで関氏代々の居城となっていた。
そして、1590(天正18)年に豊臣秀吉配下の岡本宗憲が近世城郭としての伊勢亀山城を築城。天守閣も築いたが、これが不運な運命をたどってしまった。
と言うのも、三宅康信が藩主のとき、出雲松江藩主の堀尾忠晴が幕府の「(丹波)亀山城を修理せよ」命令を勘違いし、この(伊勢)亀山城の修理を始めてしまったのである。この際、石垣の修理の邪魔になる天守閣を一時的のつもりで撤去したところで、亀山城違いであることが判明。
しかし、こんな小藩に天守閣は不要であろうとし、以後も天守閣の再建は無かった。また、ちょうどこの頃、三宅康信が亡くなり、江戸にいた息子の三宅康盛が跡を継いだ時だったため、幕府がドサクサにまぎれて「わざと」天守閣を破却し、その理由に・・・と言う可能性も指摘されている。
さて、交通の要所にあった伊勢亀山城主はその後、本田氏、石川氏、板倉氏、松平氏、板倉氏、石川氏とめまぐるしく交代。それでも、最後の石川氏(6万石)は1744(延享元)年以降、明治維新まで城主を務めることになった。
そして、明治時代になると建物の殆どは破壊され、僅かに多門櫓と、外堀、土塁の跡が見かけることが出来る程度である。かつては、約2000m余りの白亜の土塀によって、チョウの群れが舞うような姿に見えたことから粉蝶(こちょう)城とも呼ばれていたのだが・・・。
(写真&本文:mustafa & 裏辺金好)