2011年2月2日・3日 目指せ軍艦島!福岡・佐賀・長崎寄り道だらけの旅


  2月2日・3日に軍艦島目当てで佐賀・長崎に行こうと思うのですが、よろしければ所長も如何?とリン所員に誘われたのはいつの日でございましたか。 既に1月と2月の休日は予定が満載状態、この上に平日に有給休暇を取得してまで体力を消耗しにいくのは勘弁ではあったのですが、軍艦島という3文字に心動かされ、気がつけば航空券の手配をしていたのでありました。

 さて、遊びの予定が満載すぎて、佐賀と長崎で軍艦島以外にどこへ行くのか計画する時間が無く、ノープラン状態のまま福岡空港に到着。博多駅に移動し、8両編成の415系を撮影します。本当は12両編成の415系を撮影したかったのですが、ギリギリ間に合わず・・・。

こちらは787系特急「リレーつばめ」。トップナンバー編成です。多少、AROUND THE KYUSYU塗装を期待していましたが、従来塗装のまま。

そして笹原駅にて、広島県福山市より自家用車をかっ飛ばしてきたリン所員と合流。水城駅〜都府楼南駅間で787系などを狙いますが、あまりよい撮影ポイントに出会えず、しかも雨も強くて散々な結果に終わります。

結局、時間を浪費しただけに終わったので、せめて・・・と史跡である水城を散策。7世紀中ごろに唐の日本侵攻を警戒して、中大兄皇子ら朝廷が造らせた防衛ラインのようなものです。

まともに撮影したのは2000年以来で、今回は駅の西側で撮影してみました。西門があった付近だそうです。 続いてリン所員の提案で、旧国鉄佐賀線の筑後川昇開橋を見るために福岡県大川市へ。私は昨年4月にカジボー所員の車で訪問していますが、そのときは夜景であったため、昼間の風景を撮影するのは今回が初めてです。

・・・の、前に。 旧吉原家住宅(国指定重要文化財)という看板が見え、私が強行に寄り道を主張。そう言えば、去年も気になっていたのでした。

さて、こちらは柳川藩小保町の別当を代々務めた吉原家の住宅で、主屋は1825(文政8)年の建造です。藩の公式行事や、将軍の代替わりごとに幕府から諸藩に派遣される巡検使の宿泊にも使用されたことから、武家屋敷風の立派な空間と、家族が普段生活する農家風の空間の2つを見事に組み合わせています。

見ていただけると解りますが(・・・と思ったのですが、写真では解りにくいですな)、畳の縁がも接待用の上の間・次の間・三の間と、家族の居住空間でハッキリ異なっているほか、天井の高さも家族の居住空間の方が低くなっています。 ちなみにこの写真の場合、看板が立っている場所が三の間。奥が家族の居住空間で、家族用の畳は単純な黒い縁です。

上の間(写真で奥の部屋)と、次の間。

こちらは次の間の窓。机が斜めになっているのは、ここから庭を眺められるようにしているからとのこと。

23 上の間。

そしてすごいのが、この縁側。これだけ長いにも関わらず、それぞれ1本の木で構成。

さらにコーナー部分の処理も見事で、大工さんの高い技術が伺えます。

こちらは居住空間の建物。二の間・三の間と庭を挟んで向かい合っています。要するにこの建物、コの字型なんですね。

さて、我々を案内してくださったガイドさん。途中からその出自を明らかにしてくださったのですが、なんと吉原家直系の御子孫の方。大変に話が上手で、住宅の見所と当時の様子について事細かに語ってくださり、お互いにかなり話し込んでしまいました。ちなみに実際に住まれていたそうです。

あまりにも話し込みすぎて、土蔵や折角ご紹介いただいた色々な魅力的な部分を撮影し忘れましたが、せっかくなので付近を散策。こちらは中村家住宅。

まだ実際に使われているようで、かつての姿とは異なる家が多いようですが、この一帯は古建築の宝庫です。いつまでも大事に使っていただけるといいですね。なお、上写真は大川市指定文化財の高橋家住宅。

さて、嬉しいタイムロスをしながら筑後川昇開橋へ。非常に美しい姿ですね。

そして佐賀市に入り、佐賀空港へ。明日の私の帰還ルートですが、エアーニッポンのYS−11が近くの航空公園で保存されているので、ちょいと撮影。

と、ここでEF81形による長崎本線の貨物列車が来るということで、早々に撮影を切り上げて移動。銀ガマの304号機でした。

ついでに885系特急「かもめ」も撮影。黄色いのと・・・。

青い奴、両方撮影しました。九州新幹線全通を見据え、885系の塗装やロゴにも変化が現れていますので、良い記録にになりました。

さて、当初は漠然と松浦鉄道沿いに進もうかという計画もあったのですが、色々と寄り道しているうちに、もう夕方になってきたので、計画を変更し、佐賀城に行ってみることに。2003年3月以来の訪問です。 国の重要文化財に指定されている鯱の門・続櫓は、前と変わりありませんでしたが・・・。

何といっても、本丸御殿が復元されていたのは前と異なる風景です。とりあえず一周してみましょう。

右側の建物の部分だけ一部古い瓦を使用していますが、これは公民館などとして移築使用されていたものを、再移築したものだとか。このおかげで、古図面と比較しながら、正確な大きさで復元できたとか。

後に佐賀城ボランティアガイドの方が語ってくれましたが、熊本城の本丸御殿より正確な復元だ、幕末の佐賀の技術が日本全土に広められた(台場の築造技術や、反射炉による鉄製大砲の製造技術)、幕末の医学もトップクラス、ペリーが浦賀に来たのは佐賀藩が近代兵器で防衛する長崎を恐れたからだ!

それから鉄道を推進したのは佐賀の大隈重信、潰そうとしたのは薩摩の大久保だ、ついでに法律のスペシャリストの江藤新平や、優秀な佐賀の人間を佐賀の乱を起こさせ殺したのも大久保だ!云々・・・  ⇒だが、そんな佐賀の素晴らしさを披露できる場所が誕生した。それが本丸御殿なのです!とのこと。

とにかく佐賀への郷土愛にあふれる方で、ちょっと寄るつもりが、長時間にわたるご高説を賜り、大変な時間が・・・。でも、たしかに幕末の佐賀の技術は凄いんですね。ぜひ現代にも再生して欲しいものです。

で、では本丸御殿内部へ・・・。 ご自慢の一つがこの、約50m近くの長い直線の北廊下。ガイドさん曰く、江戸城にも負けな・・・ゲフンゲフン、と。いや、でも確かに壮大です。

大広間も凄い。二条城にも負けな・・・。確かに、この長さは凄いです。ガイドさんが胸を張るのも納得です。こちらは、殿様が座った場所から。

反対方向から眺めてみましょう。殿様の姿なんて見えないですね。

そして別棟に移動し、移築現存していた空間「御座間(ござのま)・堪忍所(かんにんどころ)」を見学。このあと、ガイドさんによる佐賀自慢がヒートアップしてまいりました。

なお、全体像はこんな感じ。建物の模型がある部分が復元された場所であり、全体の3分の1程度が復元されているみたいですね。復元部分だけでも、かなりの規模であるだけに、当時の佐賀藩の凄さがわかります。

佐賀市の最後に大隈重信生家を、閉館ギリギリで外観のみ見学。予想外のタイムロスに、もはやどこにも観光には行けず、佐賀県内でマンホールの蓋を探しながら、長崎へ向かいます。

走行中、こんなのいました。コワイヨコワイヨ。

そして長崎に到着。長崎電気軌道の思案橋電停近くの、この商店街。なんと国道324号線!通称「アーケード国道」です。

夕食は元祖トルコライスを、ツル茶ンというユニークな名前の喫茶店でいただきました。こちら、リン所員が食べたノーマルバージョン。

私はフリカンデルトルコとかいうのをいただきました。ハンバーグがスパイスが効いていて非常に美味しかったです。味がこってりしているわけでもなく、こんなに美味しいハンバーグは久しぶり。

そしてリン所員の提案で稲佐山の山頂より長崎の夜景を撮影。う〜ん、函館の方が凄かったような。意外と暗いなあというのが個人的な感想でした。色々なものを見慣れるのも善し悪しです。


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