日本の旅 第11回 松島
Travels in Japan Number 11 
Matsushima in Miyagi Prefecture



●はじめに
   松島町は人口1万7000人ほどの町。言わずとしれた、日本三景の一つ「松島」を擁する町です。観光の他、海苔やカキの養殖も盛ん。一方で、北部では農業も盛んで、農水共に重要産業となっています。

1.松島や、ああ松島や、松島や

 さて、当然ながらご紹介するのは「松島」。この不思議な島々が何故形成されたかと言いますと、元々は松島丘陵の南東端だったものが、多くの丘を形成しながら海に陥没していったものなのです。そして波によって浸食されて、あの不思議な形が形成されたのです。

 現在、島や岬はおよそ260ほど存在しています。中でも最大の島は湾東端に位置する宮戸島で、この島にある大高森と、北の富山(とみやま)、西の扇谷山、南の多聞山の景観は、それぞれ壮観、麗観、幽観、偉観とされ、「松島四大観」と称されています。一方で、前述の通り海苔やカキの養殖も行われ、さらに漁業用ボートも停泊。ちょっと雰囲気ぶちこわしの部分もあります。

 ず〜っと昔からこの場所を訪れた多くの人々が感動していましたが、その頃には、木の小型船が停泊していたのでしょうか。

 ただし、そこから駅を出て左の商業地側に歩いていくと、あまりいい風景ではないことを所長は発見。むしろ、右の方(つまり、南方向)に歩いていきましょう。とっても綺麗です。ただし、商業地側に歩かないと、次のものが見られません。

この彫刻の素晴らしいさよ・・。

2.五大堂(重要文化財)

 これは松島のシンボルとしてあまりに有名。セットで見ましょう。さて、五大堂は、大同2年(807年)、坂上田村麻呂が東征のおり、毘沙門堂を建立したのが最初。後に、慈覚大師が延福寺(瑞巌寺の前身)を開いた際、大聖不動明王を中心に、左右降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉の五大明王像を安置したことから、五大堂と呼ばれています。

 現在の建物は、伊達政宗が再建したもので桃山式建築手法の粋をつくして完工したもの。屋根下に彫刻がされているのですが、これが非常に細かい。まさに日本の美を凝縮した感じでした。

 ちなみに、上の写真だと左側の島の木の中から屋根が突き出ているのが見えるでしょうか。あれが、五大堂です。こんな感じのところに、右の写真の建物があるわけ。

3.瑞巌寺

 臨済宗妙心寺派の寺。正式には青龍山瑞巌円福禅寺といいます。

 この寺は、9世紀前半に天台宗の慈覚大師・円仁が開創したとつたえ(円仁は受験単語。覚えましょう(^_^)、初めは延福寺という名前でした。鎌倉時代に、執権・北条時頼が宋からの帰国僧、法身性西(ほっしんしょうさい)を住持として円福寺とあらため、鎌倉建長寺派の禅宗寺院となりました。北条時頼は禅オタクでしたね。いや、彼に限らず当時の武士の間で禅が大ヒットしたのです。禅寺に改められてしまうのも無理はない。まあ、そんなわけで以後、東北地方の臨済禅の拠点としてさかえます。

 とはいえ、中世末に戦乱やいろいろで一時さびれます。しかし、救いの手が。虎哉禅師のすすめにより伊達政宗が1604年(慶長9)から5年をかけて再建、一大伽藍となし、名称も瑞巌円福寺と改めます。

 さらにその息子の2代仙台藩主の忠宗(ただむね)が、京都妙心寺から雲居希膺(うんごきよう)を中興開山にむかえて以後、全国に広く知られるようになり、江戸時代には伊達家代々の菩提(ぼだい)寺として栄え、また、藩主を迎える場所などが整備され、建築物としても一級の仕上がりになりました。

 政宗時代にたてられた堂舎も多くのこっていて、方丈(現在の本堂)、庫裏(くり)、庫裏回廊は桃山文化を代表する建造物で国宝。前述の五大堂や御成(おなり)門、中門などは重要文化財に指定されています。また、宝物殿もあって、色々伊達家ゆかりの文化財なども拝顔できます。ちなみに、宝物殿は、最近造られたものです(写真は瑞巌寺庫裏)。

 また、瑞巌寺本堂へ行く途中の並木も素晴らしいものです。 松島の見るべきところは、松島だけではないんですね。

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