武家の古都鎌倉の寺院群〜神奈川県鎌倉市〜
  
Buddhist temples in kamakura City , Kanagawa Prefecture

 鎌倉市は、源頼朝が開いた鎌倉幕府で有名な都市。相模湾に面し、景色が素晴らしい。昭和初期には川端康成らが別荘を構えた他、高度経済成長期には高級住宅地街へと変貌していきます。そのため、1966年に京都や奈良と共に「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法」が制定され、古都の景観が守られるようになりました。

 今回は、そんな鎌倉の寺院と鎌倉幕府の史跡をご紹介します。
(撮影・解説:裏辺金好)

 ▼MAP
 ▼アクセス
 JR・江ノ島電鉄鎌倉駅より徒歩

 ▼関連サイト
 Welcome! Kamakura
 鎌倉市観光協会

円覚寺

 JR横須賀線に乗車し、鎌倉駅より1駅北に位置する北鎌倉駅を下車すると、直ぐにその背後に見えて来るのが円覚寺。禅の一派である、臨済宗円覚寺派の総本山で、鎌倉幕府執権北条時宗が、蒙古襲来こと元寇での戦没者を供養するために、無学祖元を開山として建立しました。

 現在でも歴史的建造物が幾つか残っていますが、既に鎌倉時代から室町時代にかけて火災で多くの建物を失い、特に1563(永禄6)年の大火で全山を消失してしまいます。そのため、今残っているの建物の多くは江戸時代に再建されたものということになりますね。

山門
 1783(天明3)年築。円覚寺に入ると、直ぐに見えてくる巨大な門です。なお、円覚寺創建時は、山門がもっと南にあったそうで、最初はもっと大きなお寺だったようです。また今の円覚寺の山門は、後述する建長寺に残る山門より8年あとに完成していますので、似ているようで似ていない、その違いを調べてみると面白いですね。


居士林
 在家修行者のための坐禅道場。
現在の建物は、昭和3年に柳生撤心居士から、東京牛込にあったより剣道場を寄進されて移築したもの。


方丈庭園


妙香池
 円覚寺創建当初から見られる池。近年、江戸時代初期の絵図に基づいた姿に復元。

妙香池
 円覚寺創建当初から見られる池。近年、江戸時代初期の絵図に基づいた姿に復元。

舎利殿
 室町時代中期築。1563年に太平寺から移築されたもの。

建長寺
 円覚寺から少々南へ歩くと建長寺に行くことが出来ます(バスを使う手もあります)。それほどの距離ではありませんが、しかし近いと思ってなめると、そこそこ距離があるので要注意。

 さて、建長寺も臨済宗のお寺ですが、建長寺派の総本山。1249年、鎌倉幕府執権北条時頼(時宗の父)が建立しました。臨済宗は禅の一派ですから、親子2代禅オタクだったわけです。こちらも室町時代の14世紀〜15世紀にかけて戦乱で多くの建物が燃え、現在目にすることが出来るのは江戸時代ぐらい物が大半なのがちょっと残念。それでも、見るべき物はたくさんあります。


総門
 1783(天明3)年築。「巨福山」という立派な額を掲げるこの門は、元来は建長寺の物ではなく、1933(昭和18)年に京都の般舟三昧院から移築されたものです。

山門
 1775(安永4)年築。見所としては、下層部より上層部が大きく張り出していること。それ以前のお寺の建築だと、たいてい上層部の方が小さいですね。圧倒感があって、この建長寺のデザインも好きです。

仏殿 [重要文化財]
 1628(寛永5)年築。
 元々は、江戸の芝にある増上寺のもので、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の正室(於江の方)をまつる御霊屋だったとか。1647年にここに移築されました。徳川家光に目の敵にされたのか?(笑)

法堂
 1814(文化11)年築。
 禅宗で最も重要な建物で、仏の教えを説く場所。これを建築することで、それまで仏殿を法堂と兼用することが無くなりました。なお、仏殿より一回り大きいです。

唐門 [重要文化財]
 1628(寛永5)年築。

方丈
 1732(享保17)年築。江戸時代後期築。禅僧が生活の場所として使った建物です。なお、総門と同じく京都の般舟三昧院から移築されたもの。

庭園
 建長寺創建当初から見られる庭園です。

英勝寺
 鶴岡八幡宮から西へ、JR横須賀線を渡った場所にある浄土宗の寺。鎌倉唯一の尼寺で、江戸を開いた太田道灌の子孫、太田康資の娘(徳川家康の側室・お勝局)が開基しました。


仏殿
 1636(寛永13)年築。
 創建時の面影を残す立派な仏殿です。

唐門・祠堂
 1643(寛永20)年築。
 祠堂は写真右上の小屋の中にしまわれています。非常に色彩豊かな建物で、窓ガラス越しからでも必見。


寿福寺
 臨済宗建長寺派の寺院。かつて源頼朝の父、義朝の屋敷があった場所で、頼朝は当初、この場所に屋敷を構えようとしましたが、岡崎義実が義朝を弔うお堂を建てていたため、諦めたとか。幻の鎌倉幕府建設予定地ということですね。
 頼朝が死去すると、妻の北条政子の発願で伽藍を建立。鎌倉五山第3位の寺として鎌倉末期から南北朝時代にかけて大いに発展。しかし、1395(応永2)年の大火以降は、次第に衰退していきます。
 入り口の朱塗りの総門、仏殿前の山門は江戸時代初期の建築。また、墓地の山際にある「やぐら」群には北条政子、源実朝の墓と伝えられるものもあります。また、高浜虚子や陸奥宗光の墓もあります。


仏殿
 1714(正徳4)年築。通常は非公開ですが、内部には釈迦如来像(重要文化財)などがあります。

伝北条政子墓


伝源実朝墓

伝北条政子・源実朝墓付近

 鎌倉の墓として非常に特徴的な「やぐら」群。


大蔵幕府跡および源頼朝墓など
 鶴岡八幡宮を東に歩き、現在は清泉小学校が建っている場所が、源頼朝が鎌倉に入って建てた館跡で、初期の鎌倉幕府の中心地でした。これを、大蔵幕府といいます。1225(嘉永元)年に執権の北条泰時が若宮に幕府を移すまで使われました。
 清泉小学校の北には、白旗神社がありますが、ここには源頼朝の墓があります。


石碑
 鶴岡八幡宮境内から東へ行き、横浜国立大付属小中学校に沿って進むと桜並木があります。この付近一帯が大蔵幕府の跡です。1917(大正6)年に建立された石碑が建っているので、すぐに解ります。

源頼朝墓
 ここは、1247年、三浦泰村が第5代執権・北条時頼に対し挙兵し敗北(宝治合戦)。そして、一族で自害をした場所でもあります。頼朝公の前で、ということでしょうか。  
 ちょっと歴史の話。ここで、毛利家の祖先・毛利季光は三浦方について自害しています。本当は娘婿の北条時頼に荷担しようとしたのですが、妻が三浦家の人だった。そのため、さんざんに説得されて三浦方につき、敗北して自害する羽目になった可哀想な人です。


大蔵幕府跡
 源頼朝の墓がある高台のふもとからの風景。かつてはこの付近が鎌倉幕府の中心地でした。

大江広元・毛利季光・島津忠久の墓
 源頼朝の墓から東に少し歩くと存在。大江広元は、源頼朝の招きで政所の別当などとして鎌倉幕府草創期に大活躍した人物。その子、毛利季光は大名、毛利氏の祖となった人物です。
 一方、島津忠久は薩摩の大名、島津氏の祖。江戸時代になって、源頼朝墓などと共に島津重豪などが整備しました。これらが、実際に本人の墓かどうかは不明。


鎌倉宮
 1869(明治2)年に明治天皇の勅命により創建された神社。かつての東光寺跡に建立されたもので、この地で殺害された、後醍醐天皇の皇子である護良親王を祭神としています(北条時行による中先代の乱が起きた際、足利直義の命で、淵辺義博が斬首)。
 
 境内には彼が幽閉された土牢や、吉野城で親王の身代わりとなって戦死した、村上義光の木像、通称「身代わりさま」があります。

覚園寺

 真言宗泉桶寺派の寺院。起源は1218(建保6)年に執権、北条義時が建立した大蔵薬師堂。これをベースとして、1296(応永4)年に北条貞時が心慧上人を開山として覚園寺を創建しました。

 境内には薬師堂(1689年築/県指定文化財)、旧内海家住宅(1706年/県指定文化財)、愛染堂(江戸後期築)などがあり、必見です。


東勝寺跡および北条執権館跡


東勝寺跡
 1333(元弘3)年、新田義貞の攻撃で鎌倉幕府は滅亡するのですが、得宗・北条高時らが一族郎党と共に立てこもり、全員で自害した悲劇的な地が、この東勝寺。この時鎌倉では6000人が自害したともいわれます。なお現在は、何も残っておらず、まさに強者どもが夢の跡状態。(右へ) 

宝戒寺
 というのも、北条高時らの死後、足利尊氏は麓に寺を移したからです。それが、今も残る宝戒寺です。この宝戒寺は、14代執権、北条高時の館(北条執権館)があった場所で、鶴岡八幡宮から東に歩いていけばあります。
 なお、本尊の
地蔵菩薩像(重要文化財)は1365(貞治4)年に造られたもの。


本覚寺
 1436(永享8)年、一乗房日出が開いた日蓮宗の寺。若宮大路の東に位置し、2世日朝が身延山から日蓮の遺を分骨し、「東身延」と称しています。


楼門
 江戸末期築。
 創建時の面影を残す立派な仏殿です。

鐘楼


妙本寺
 日蓮宗の寺院。1203(建仁3)年に北条時政に滅ぼされた、鎌倉幕府の実力者の比企能員(ひきよしかず)一族の菩提を弔うため、能員の末子である能本(よしもと)が、日蓮の弟子である日朝を開山に迎えて1260(文応元)年に創建しました。


二天
 1848(嘉永元)年築。参道の石段を登ると見えてくる立派な朱塗りの門。境内の右側には、比企一族の墓があります。

祖師堂
 1838(天保9)年築。