三内丸山遺跡〜青森県青森市



○解説

 JR青森駅から南西3km、青森市の郊外にある日本を代表する古代遺跡の1つ。
 日本最大級の縄文集落跡で、約5500年前〜4000年前の1500年間にわたって人々が生活していました。遺跡については江戸時代から知られており、紀行家の菅江真澄は1799年に著した「すみかの山」で非常に詳細な縄文土器のスケッチを残しています。
 本格的な発掘調査が開始されたのは1992(平成4)年、県総合運動公園拡張に伴う県営野球場建設工事によるもので、想像以上の規模と歴史を持つ遺跡であることが判明。直径1mの巨木を使った大型掘立建物跡などが発掘されると保存への機運が一気に高まり、1994(平成6)年8月に県は野球場建設の中止と遺跡の保存と活用が決定。三内丸山遺跡は、遺跡の規模の大きさ、出土量する遺物の多さ、1500年と長期間にわたり継続使用されたということから、縄文時代に対する人々の認識を大きく塗り替えました。2000(平成12)年には国特別史跡に指定されています。
 御覧のように多くの建物が復元されたり、実験などにも使われています。すっかりお馴染みになった同遺跡ですが、まだまだ本格活用の歴史は始まったばかり。これからの発掘や復元にも期待したいものです。
(解説&写真:裏辺金好)

○場所



○風景


 三内丸山遺跡への入り口。縄文時遊館という施設があり、この遺跡の歴史や特色が勉強できます。

 三内丸山遺跡の復元模型。現在公開されているエリアよりも、はるかに広大であったと考えられています。

大型掘立柱大型竪穴住居
 発掘調査に基づき推定復元された大型掘立柱跡の用途は謎に包まれており、屋根があったかどうかも不明。しかし、柱の間隔が4.2mと均等であることから、長さの基準があったのでは?と推測されています。また、大型竪穴住居は長さ32m、幅9.8mという三内丸山遺跡最大の建物。集会場や冬場の共同家屋に使われた・・・など、こちらも用途については諸説あります。

大型竪穴住居跡の内部

南盛り土  
1000年にわたる人々の生活からでた、廃棄物の跡。大量の土器や土偶、ヒスイ製の玉も発見されています。

住居の復元について  現在までに復元された竪穴住居は、このような方針に基づいて複数の様式があります。





老朽実験に使われているもの






 (冒頭で紹介した)大型掘立柱跡

大人の墓

北盛り土

子供の墓
子供の墓は土器に入れられたもので、居住地近くに埋葬されています。また、多くの土器の中にはこぶし大の石が1〜2個入っていたとか。

出土物の一例

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