平城宮跡&宮跡庭園〜奈良県奈良市〜


 世界遺産、古都奈良の文化財の1つに指定されている平城宮跡(へいじょうきゅうせき)。言うまでも無く、唐の都「長安」や北魏洛陽城を模して造られた奈良時代の日本の首都、平城京(へいじょうきょう/へいぜいきょう)の中心で、上写真の朱雀門をはじめ、かつては壮麗な宮殿建築が建ち並んでいました。
 藤原京に代わって平城京に遷都することが決まったのは708(和銅元)年のことで、710(和銅3)年に遷都されました。その後、段階的に町並みの整備が進んで行き、寺院の移築や建立も進行。聖武天皇の時代には、一時都を転々としましたが、結局は平城京に落ち着き、784(延暦3)年に長岡京に遷都するまで、日本の中心として栄えました。その規模は東西4.3km、南北4.8km。人口は20万人程度だったといわれています。
 長岡京、続く平安京への遷都後、平城京は荒廃します。しかし南都七大寺(東大寺、興福寺、元興寺、薬師寺、大安寺、西大寺、法隆寺)は残ったため(*法隆寺は現在の斑鳩町)、各寺院の門前町が栄えます。ただ、これらは平城京の東側、もしくは西側にあった寺院で、中央にあった平城宮跡周辺は田畑となっていき、いつしか場所も不明確になりました。
 しかし、江戸時代後期から明治にかけての研究で場所が特定され、1959(昭和34)年より本格的な発掘調査を開始。現在のところ30%程度の発掘が終わったとのことですが、このペースだと我々が生きている間に全容が解明することは無さそうです。 まして、平城京全体ともなると、あと何世紀かかるでしょうか。なお、既に朱雀門や東院庭園、宮内省の建物などが推定復元されていますが、これに加えて2010年に、朱雀門の真北に存在した第一次大極殿が復元されました。
 このページでは平城宮のほか、平城宮朱雀門から少し東へ、奈良市役所1階で展示されている平城京復元ジオラマ、長屋王邸跡や平城京左京三条二坊宮跡庭園も見ていきます。
(撮影&解説:裏辺金好)

○場所



○平城京復元模型


近くにある奈良市役所の1階ロビーには、平城京の復元模型が展示されています。


まずは全景から。南西から北東方向を見た姿です。


続いて南から北方向へ。


先ほどの写真とほぼ同じ角度で全体図


都への出入り口だった羅城門(らじょうもん/らせいもん)。朱雀大路の南端に位置しています。なお、詳細な大きさは明らかではありませんが、「続日本紀」によれば門前に「三橋」があったそうで、模型でも再現されています。なお、羅城門の名称は平安京でも使われています。



復元模型のうち、平城宮を中心に。現地に立ってみると平城宮だけでも広大な面積ですが、町並み自体はそれをはるかに凌ぐ面積。


東大寺や興福寺付近から西側を臨む。

薬師寺や唐招提寺の周辺

○長屋王邸跡



 奈良そごう建設のために発掘調査を行ったところ判明した世紀の発見。1986(昭和61)年から発掘が行われ、2年後に4万点もの木簡が出土。その結果、天武天皇の孫で高市皇子の子である右大臣、長屋王の邸宅跡であることが判明しました。長屋王は聖武天皇の時代、藤原不比等の死後に政権の中心的存在になりますが、巻き返しを図る藤原一族により謀反の疑いをかけられ、自害に追い込まれました。

 残念ながら発見された遺構が保存されることはなく、奈良そごうが開業。2003(平成15)年からはイトーヨーカドー奈良店、2018(平成30)年からは複合商業施設「ミ・ナーラ」として使われています。

○平城京左京三条二坊宮跡庭園


 長屋王邸宅跡から歩道橋を渡って向かい側にある平城京左京三条二坊宮跡庭園。1975(昭和50)年に発見された数少ない日本古代の庭園として貴重なもの。池の東側には庭園と春日山、御蓋山が眺められる建物がありました。
 かつては池に酒盃を並べ、詩歌と宴会に興じる雅な世界が展開していたことでしょう。


S字型の園池が特徴であり、かつてはこの池の脇に貴族たちが座り、宴会に興じていたことでしょう。奥は、例の長屋王邸宅跡ですが、かつては長屋王もここで遊んでいたのでしょうか。

それでは、平城宮を見ていきましょう。


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