会津武家屋敷「西郷邸」〜福島県会津若松市〜
  Aizu Samurai Residence in Aizu Wakamatsu City , Fukushima Prefecture

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▼アクセス
JR会津若松駅よりバス

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会津武家屋敷公式ホームページ
 会津武家屋敷は、幕末に会津藩の家老を務めた西郷頼母邸(復元)を中心に、福島県の重要文化財である旧中畑陣屋、茶室、 藩米精米所、会津歴史資料館等からなる歴史博物館。かつての場所に建っているわけではありませんが、江戸時代の会津藩の様子を体感できる空間であり、一軒の価値があります。
 まずは西郷頼母邸から見て行きましょう。さすが、会津藩23万石の家老ともなると立派な屋敷です。ちなみに西郷家は代々、会津藩の家老を務めた家柄。西郷頼母は朝廷への恭順論、藩主の松平容保が京都守護職に任じられることに反対しましたが、意見は通らず、そして戊辰戦争で官軍が会津に攻めてくると、西郷頼母の母や妻子など西郷家一族21人が屋敷で自刃するという悲劇を生みました。

(撮影&解説:裏辺金好)

御成の間
正面の人形は会津藩主である松平容保。このように藩主が訪れたときに使用した部屋です。

御成の間専用の厠

御成の間専用の厠
食事中の方は申し訳ありません。このような構造になっており、排泄物を速やかに外に出すことが出来ます。

家老屋敷外観

客待(きゃくたい)の間
家老が来客を応接する場所。

自刃(じじん)の間
1868(慶応4)年8月23日、官軍と会津藩が激しく交戦する中で、
西郷家の婦女子21名が「足手まといになるから」と自刃した場所。

奥一の間
家老の寝室として使われた場所。

風呂場
家族が使用したヒノキ造りの風呂。

子供部屋・化粧部屋
子供部屋は嫡男(長男)が床の間のある右側の部屋を与えられ、次男以下は中央の部屋を一緒に使用。
化粧部屋は家老の妻が身支度をした場所で、幕末は西郷頼母の妻、千重子が使用しました。

藩米精米所
1813(文化10)年頃、白河藩(現、福島県白河市)が領内に建てたものを移築。

会津歴史資料館
かつては武器や家財を収納した土蔵を歴史資料館として活用したもの。

片長屋
家老屋敷の警護のために、下級武士を住まわせた場所。表門の片側についているため、片長屋といわれます。

片長屋(家臣の居宅)
独身で持ち家の無い家臣が住んでいました。

旧中畑陣屋 【福島県指定重要文化財】
1837(天保8)年頃築。中畑村など7つの村を支配した幕府5000石の旗本、松平軍次郎の代官所。
代々岡崎家が所有しましたが、同家の改築に伴い現在の矢吹町から移築され、旧状に復元されました。
意外とこういう代官所は現存せず、大変貴重な例だとか。また、岡崎家住宅は会津藩校日新館に移築されています。

佐々木只三郎の墓
 会津藩士佐々木源八の三男として会津若松に生まれた佐々木只三郎。幕臣佐々木矢太夫の養子となり、幕府が結成した京都見廻組の与頭(くみがしら)として活躍。坂本龍馬を暗殺した人物との説もあります。戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦いで負傷し、和歌山の紀三井寺で没しました。
 1975(昭和50)年に墓石がここに移され、生まれ故郷でようやく眠りについています。