福岡県太宰府市〜大宰府政庁跡・大宰府天満宮〜



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太宰府天満宮ホームページ
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 福岡県太宰府市は福岡市の南、福岡県中部の都市です。福岡平野と筑紫平野の間に細長くのびる地溝部に位置し、中世には朝廷の西日本における拠点となった大宰府が設置され栄えました。のち、朝廷の権力が衰退するに従い、九州の中心は博多(福岡市)へと代わって行きますが、次第に太宰府天満宮を中心に新たに発展。現在でも多くの参拝客を集めており、2005(平成17)年10月16日には国立博物館としては東京、京都、奈良に次いで4番目の、九州国立博物館が誕生。「日本文化の形成を、アジア史的観点から捉える」をテーマに、展示方法も色々工夫が凝らされており、新たな名所となっています。
(写真上:太宰府天満宮楼門)

中世大宰府の特徴


 大宰府といえば学問の神様菅原道真が祀られている太宰府天満宮でお馴染みですが、歴史学上では大宰府政庁が重要なところです。ちばみに、天満宮をはじめ、現在は宰府。しかし、古代は宰府。太いか大きいかの違いがあります。時代の中で、点が抜け落ちてしまったわけですな。



 さて、太宰府市は人口は約6万人。今は福岡県の1都市ですが、奈良・平安時代は九州地方の中心として、そして日本の海外との窓口として機能していました。さらに、大宰府政庁周辺は平城京や平安京のように、碁盤の目のごとく整然と街が整備されていたのでした。



現在の大宰府政庁跡


 よく、大宰権帥に左遷され失意にうちに病死・・・と、平安貴族に降りかかる災難がありますが、とんでもない。あくまでも右大臣や左大臣や大納言などと比べて位が低いだけで、この大宰府は九州一帯を統括し、日本の国防・外交を取り仕切る大きなものでした。

 実際、藤原隆家(979〜1044年)は、藤原道長との権力闘争に敗れ、またそもそも貴族らしからぬ武骨な人物であったこともあって、大宰権帥を拝命して赴任していましたが、中国東北部から刀伊という民族が攻めてきた時、九州の武士団を統率し、これを撃退しています(ただし、朝廷は事態を把握しようとせず、恩賞も出さなかったそうですが)。

 さらに政庁の背後に大野城(福岡県大野城市)、博多湾側には水城とよばれる堅固な城壁を持ち、まさに権力者の象徴を装備した存在でした。その長の大宰権帥の位は一般貴族ならのどから手が出るものであったはずです。(写真は大宰府政庁跡。背後の山が大野城)  



 しかし残念ながら大宰府は現在の九州の中心にはなれませんでした。なぜならばまず、藤原純友の乱で焼き討ちにされ、その後復興を果たしたものの、今度は朝廷そのものの威光が衰え衰退。当然、大宰権帥の位も名誉職のような形になり、役人も赴任してこず。そして港湾都市・博多が鎌倉時代に急速に成長。いつしか人々の記憶からも遠い過去のものとなってしまったのでした。


 ただし大宰府の地そのものは、政庁の東に出来た、太宰府天満宮の門前町として発展しました。明治35年には二日市との間に馬車鉄道も開通します(現在の西日本鉄道 天神大牟田線/大宰府線)。

 では、政庁周辺はどうなったでしょうか。 
 政庁そのものの場所は残り、旅人達の旅情をかき立てるようになりました。ただ、いわゆる役人の屋敷や民衆の家があったところは、いつしか田んぼになり、そして今では住宅街へ変貌しています。ですからここを掘り起こせば何かしら出てくるでしょうし、可能な限り発掘も行われています。

●大宰府の発掘

  大宰府の発掘調査は1793年、福岡藩の調査から始まります。ただ本格的には1968年の福岡県教育委員会の発掘調査から始まりで、それまで考えられてきた大宰府像を大きく塗り替えていきました。藤原純友の乱の後、復興したというのもその1つです。


 以前は藤原純友の乱での焼き討ちにより、大宰府が崩壊したと考えられていました。しかし、調査域の拡大により、大宰府が想像以上にしっかりとした組織・街並みであることが判明したわけです。また、水城がいかなるものであったかも判明しました。なお、この水城は、現在JR鹿児島本線や西日本鉄道や高速道路によって分断されています。本来は一直線上に、中国の城壁の小型版のようにとして存在し、非常に長いものでした。



 なお、大宰府政庁跡を見たら、すぐ隣にある観世音寺に行きましょう。ここは746年に落成した寺で、筑紫で崩御なされた斉明天皇の御冥福を祈るため、息子の天智天皇の発願して建てさせたものです。菅原道真の漢詩にうたわれていますし、万葉集や源氏物語にも登場する、非常に歴史ある寺。現在の建物は江戸時代のものですが、梵鐘は大きさ形状がそっくりの京都・妙心寺の梵鐘と兄弟鐘といわれる7世紀のもので、国宝です。


水城跡
 現在は木に覆われていたり、一部が西日本鉄道の線路で分断されている状態ではありますが、その痕跡をはっきりと確認することが出来、大宰府の防御体制の一端を見ることが出来ます。
水城跡
 
 
水城復元模型
 現在の様子と、築造時の雰囲気を再現したもの。
(九州国立博物館にて)
大宰府政庁跡より
 かつては政庁の建物群が整然と並び、さらに奥には街並みが形成されていたことでしょう。
大宰府政庁跡
大宰府政庁復元模型
 時代によって規模は変遷しますが、このように朱塗りの立派な門が政庁に構えていたと考えられています。 (九州国立博物館にて)
観世音寺
 ひっそりとした雰囲気の観世音寺。かつては西日本でも有数の規模を誇る大きな寺でしたが、度重なる戦乱で衰退。江戸時代に福岡藩主の黒田家によって復興されていますが、それでも往時の規模は取り戻せませんでした。
観世音寺講堂 【県指定文化財】
 1688(元禄元)年頃築。福岡藩三代藩主の黒田光之と天王寺屋浦了夢一族の尽力によって再建されました。入母屋造の本瓦葺の建物で、創建時の平面規模と比べると、約2.5分の1に縮小されているとか。
観世音寺金堂 【県指定文化財】
 寛永年間(1622〜44年)ごろの建築。講堂から向かって左側に建てられたもので、福岡藩主の黒田家によるもの。礎石の一部には、奈良時代の礎石を転用したものがあるそうです。

太宰府天満宮

 太宰府天満宮は、菅原道真が葬られた場所の上に建てられた神社。門弟の味酒安行が祠廟(しびょう)を創建し、続いて左大臣の藤原仲平が勅命によって社殿を建立したのが始まりです。以後、戦火によって幾度か建物が焼失しますが、菅原道真を祀る神社として保護され、現在は学問の神様となった菅原道真に「合格祈願」、と多くの人が訪れています。

 ちなみに、宮司の西高辻信良氏は菅原道真の子孫。主管の味酒安則氏は、前述の味酒安行の子孫だとか。


参道
 太宰府天満宮前の参道は古来より賑わっており、現在も多くの店が軒を連ねています。
参道鳥居
 
志賀社 【国重要文化財】
 1458(長禄2)年築。和、唐、天竺の三様式を持って構成された建物で、当初は黒漆と金製品をふんだんに使った美術工芸的な建築だったそうです。
絵馬堂
 1813(文化10)年築。
参堂
 それでは、いよいよ楼門をくぐって本殿へ。
本殿 【国重要文化財】
 1591(天正19)年築で、五間社流造で、屋根は桧皮葺。戦災によって荒れていたものを、戦国大名毛利家の一族である、小早川隆景が造営させたのが、現在の建物です。


本殿
 各部に施された美しい彫刻の数々。正面に唐破風造をもち、桃山時代の建築の美しさを堪能できます。


如水の井戸
 福岡藩主黒田長政の父、黒田如水こと黒田官兵衛孝高

深く天満宮を崇敬し、ここに2年間草庵を構えていました。その時に使用した井戸、だそうです。

九州国立博物館

 冒頭で紹介しました九州国立博物館は色々な物に触れながら歴史を感じることの出来る博物館として非常に評価の高い博物館。太宰府天満宮とエスカレーターで直結しています。 日本のみならず、海外の文物も比較展示を行い、様々な文化的なつながり、もしくは差異について紹介するなど、海の玄関口ならではの切り口で非常に貴重な文化財の数々を「魅せる」ほか、元寇で元の軍勢が使用した「てつはう」なんかも見られます。


九州国立博物館内部
 1階部分は非常に広々とした空間。ミュージアムショップは他では手に入りにくいものばかりで、オススメです。
塩屋湾のハーリー船
 沖縄県北部の大宜味(おおぎみ)村で約50年間使われたもの。これを使って競漕する行事は、豊穣祈願祭である「海神祭」の中でも、特に目を引くものです。
 
ジャワのガムラン
 ジャワの人々の生活の節々で使用される民俗楽器、ガムラン。どんな楽器があるのか、ここで見ることが出来ます。
浦ノ田遺跡
 九州国立博物館アクセス道路建設時に発掘されたもので、出土したものから鎌倉後半〜室町初期の大規模なお墓だと考えられています。過去の太宰府天満宮との関係もあるようで、一部の石塔などが、ここに移築復元されています。

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