一乗谷朝倉氏遺跡〜福井県福井市〜


 一乗谷朝倉氏遺跡は、福井県福井市城戸ノ内町にある戦国大名朝倉氏の本拠地跡で、九頭竜川水系足羽川支流である一乗谷川下流沿いの細長い谷あいに広がる東西約500m、南北約3kmの遺跡です。


 朝倉氏は越前国を支配した戦国大名で、元々は現在の兵庫県養父郡の豪族。南北朝時代に朝倉広景が、主家の斯波高経に従って越前に入国して勢力を拡大。応仁の乱で活躍した朝倉孝景は、その功績によって、それまでの斯波氏に代わって越前守護に任命され、朝倉氏は反対勢力を倒して越前を平定していきます。


 その朝倉氏の本拠となった当時の一乗谷ですが、この場所は交通の要衝でした。朝倉氏は、一乗谷城(山城)と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)を計画的に整備し、また周囲の山々を天然の要害とし、一乗谷城を築城します。しかし、1573(天正元)年8月、当時の当主の朝倉義景は、一乗谷城の戦い(刀根坂の戦い)で織田信長率いる軍勢に大敗。一乗谷を放棄して退却するや、織田軍によって一乗谷は火を放たれ、灰燼に帰しました。

 そして程なく朝倉氏は滅亡し、越前を領有した織田家重臣の柴田勝家は、現在のJR福井駅近くの北ノ庄に本拠を構え、これ以後、一乗谷が越前(福井)の中心となることは無く、田畑となっていきました。


 1967(昭和42)年以降、本格的な発掘調査が行われており、戦国時代の町並みの遺構がほぼ完全な形で残っていることが確認。1971(昭和46)年には国の特別史跡に指定されたほか、1991(平成3)年には発掘されて整備を受けた庭園が国の特別名勝に指定。さらに1995(平成7)年には町並み約200mが発掘成果や、同時代の絵図を元に復元が行われ、戦国時代の城下町を体感できる場所となっています。
(解説&撮影:裏辺金好)


○場所



○風景


一乗谷朝倉氏遺跡 地図
背後に一乗谷城を配して、守りを固めていたことがよくわかります。


背後は一乗谷城


朝倉義景館跡 唐門  義景館跡の正面、濠に面して建つ門で、元々は朝倉義景の菩提を弔うために建てられた松雲院の寺門で、豊臣秀吉の寄進と言われます。ただし現存するものは、江戸時代中期に建て替えられたもの。門内の上部に朝倉家の「三ツ木瓜」と豊臣家の「五三の桐」の家紋が刻まれているので要チェック。

朝倉義景館跡
発掘調査の結果、常御殿の南側中庭で日本最古の花壇であることが判明しています。

朝倉義景館跡復元模型
1つ上の写真とは正反対の方向から


朝倉義景墓
 1576(天正4)年に村民が小祠を建て、さらに1633(寛文3)年に福井藩主の松平光通が墓塔を建立したもの。


朝倉義景館跡庭園

南陽寺跡庭園
 朝倉館の北東の高台にある庭園。 後に室町幕府最後の将軍となる足利義昭を招き歌会を催したところ。

湯殿跡庭園
 朝倉館跡を見下ろす位置にある庭園。約100uの池を中心に、その周囲に石組みを配したのが特徴です。

湯殿跡庭園

中の御殿跡・中の御殿跡庭園
朝倉義景の実母光徳院の館と伝えられます。
庭園はとして耕作のために保存状態は悪く、庭園と建物の関係など不明な部分が多いとのこと。

諏訪館跡庭園
上下二段構成の回遊式庭園で、朝倉義景が4人目の側室・小少将のために造ったと伝わる館の庭園。

米津
諏訪館庭園の麓に位置する米津(よねづ)と呼ばれるエリア。
炉跡や金工細工が出土したことから、朝倉家お抱えの刀装具を製作する職人がいたと考えられています。

復原町並み



鍛冶屋


鍛冶屋内部

復原町並み


紺屋
発掘調査の結果、大きな甕(カメ)を据え付けていたことから、染め物を職業とする、職人の住居と推定。


商家

商家
焼き物を売る商人夫婦を想定して復原整備



復原武家屋敷
遺構保護のため盛り土して復原されているため、門に階段がありますが、本来は道路と同じ高さ。



復原武家屋敷

復原町並み


城戸
城下町の南北に土塁を築いて城門を配したもの。京に近い南側を上城戸、北側を下城戸と呼びます。
こちらは下城戸で、土塁と堀が現存しています。

↑ PAGE TOP