吹屋の古い町並み〜岡山県高梁市成羽町〜


○解説

 高梁市成羽町の吹屋地区(坂本地区、中野地区、下谷地区を含む)は、標高550mに位置する鉱山町。平安時代以来からの銅の産出と、江戸時代からのベンガラの精製で大正時代まで繁栄し、ベンガラ格子と石州瓦による赤褐色の重厚な商家の町並みが残り、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。坂本地区の西江邸、中野地区の広兼邸については別途紹介します。
 (写真&解説:裏辺金好)

○場所



○風景


旧片山家住宅 【国指定重要文化財】
片山家は、弁柄の製造及び販売を手掛けた家柄。18世紀末期築を基本に,1830(文政13)年までに増築が続けられて現在の形に。通りに面して主屋と宝蔵が並び建ち,主屋後方に米蔵などがあります。





旧片山家住宅(主屋1階) 【国指定重要文化財】
仏間から、主婦居間・奥座敷へは1段高くなっているのが特徴。




旧片山家住宅(2階) 【国指定重要文化財】
2階は客間、後継者居間、当主夫妻寝室が並びますが、1段ずつ高くなっています。


旧片山家住宅(米蔵) 【国指定重要文化財】


旧片山家住宅(弁柄蔵) 【国指定重要文化財】
弁柄粉が運ばれ、南蔵で等級別に選別した上で、北蔵で計量、袋詰などが行われて商品にしました。


旧片山家住宅(仕事場及び部屋) 【国指定重要文化財】
2階には各種木工材料を保管。


旧片山家住宅(玄米蔵) 【国指定重要文化財】


旧片山家住宅(道具蔵) 【国指定重要文化財】






中胡屋(中片山家)※手前/片山家(郷土館)※奥
中片山家は慶応2年頃の建築で、明治期には薬屋、大正初めから終戦までは銀行の代理店を務めていました。奥の片山家は明治12年の建築で、中片山家に似た意匠で建築されています。




片山家(郷土館)


叶屋(仲田家)
表の建物は江戸時代末期の建築。奥座敷は大正11年の増築。

長尾屋(本長尾家)
弁柄窯元の一軒で、建物は1700年代末頃築をベースに大正時代まで増築を重ねたもの。


東長尾屋(東長尾家)
明治中期の建築。弁柄屋を営みました。

吹屋郵便局
1993(平成5)年に建て替えられた3代目の郵便局ですが、町並みに合うようにデザイン。1871(明治4)年の郵便事業創業当時の書状集箱のレプリカが設置され、実際に使うことが出来ます。

中野屋(中山家)
1700年代末の建築で、なまこ壁が特徴。中山家は弁柄窯元の一軒ですが、明治・大正頃は醤油業を営んでいました。


町並み
さて、一旦通りを反れて、旧吹屋小学校を見に行きましょう。

吹屋小学校 【岡山県指定文化財】
1900(明治33)年に西校舎・東校舎(木造平屋建)が竣工し、1909(明治42年)に本館が竣工。現役で使用される日本最古の木造校舎として知られていましたが、在校生の大幅な減少によって2012(平成24)年3月に廃校。今後は、耐震補強の上で資料館として公開されます。


吹屋小学校(本館) 【岡山県指定文化財】




吹屋小学校(西校舎) 【岡山県指定文化財】

吹屋小学校(東校舎) 【岡山県指定文化財】


ラ・フォーレ吹屋
吹屋小学校に隣接していた成羽町立吹屋中学校跡地に、吹屋小学校を模して建てられた高梁市立の公共の宿。

町並み
それでは、再びメインストリートに戻ります。

赤木家
明治中期の建築。1965(昭和40)年頃まで、松栄館の屋号で旅館業を営んでいました。

吉川家
江戸時代末期の建築。吉川家の先住は旅館業を営み、吉川家は大正末期から1965(昭和40)年ごろまで理髪業を営んでいました。


城井田家
江戸時代末期の建築。元々は弁柄製造業を営なむ大黒屋(大国家)が建てたものです。

那須家(旧永野旅館)
江戸時代末期の建築。 昭和初期から2代にわたって旅館業を営んでいました。

城井田家
明治中期の建築で、元々は借家。

松浦本家(旧日向家)
江戸時代末期の建築。雑貨商、木賃宿などを経て、1950(昭和25)年から約60年、日向氏が美容院を営み、名物おばあちゃんとしてテレビにも登場。

赤木家
明治中期の建築。

町並み

町並み
この辺りは吹屋の町並みへの入り口。先ほどまで紹介した場所から、少し離れた場所にあります。

戸田家(旧内海家)
大正時代に坂本地区から移築改造したもの。

田村家(松店)
主屋の創建は安政3年頃と云われ、明治期に増築。 明治33年に弁柄商の田村家が移り住み、昭和49年まで営業していました。

藤森家
江戸時代の部材も利用して明治期に建築。さらに表側は1979(昭和54)年に修理され、薪材に取り替えられています。


吉岡(吹屋)銅山 笹畝坑道
江戸時代から大正時代まで操業した銅山を復元し、観光客向けに坑内を見学できるようにしたもの。吉岡(吹屋)銅山は、807(大同2)年に発見され、江戸時代の大部分は天領幕府直轄地で代官の支配下に置かれ、明治時代になると三菱金属(株)が経営し、日本初の洋式溶鉱炉が造られました。

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