日本の旅 第42回
小峰城(白河城)〜福島県白河市〜
     A trip of Japan No.43 Komine-Castlei , Shirakawa City
○白河市の概要
福島県南部にある都市。県南の中心都市で、奥羽三関のひとつ白河関と寛政の改革を指揮した松平定信の居城・白河小峰城で有名。市は阿武隈川の上流域に広がり、南は栃木県に接する。1949(昭和24)に白河町と大沼村が合併して市制施行。54年に白坂村、小田川村(こたがわむら)の、55年に五箇村(ごかむら)を編入し今に至る。面積は117.67km2。人口は約4万8000人。

1.歴史ある城
 引き続き白河市の特集。今回は、小峰城です。白河市の城ですが、通称は小峰城となっております。

 この小峰城は、1340年に結城親朝が小峰ヶ丘に築城したのが始まり。その結城氏というのは、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした時に従軍した結城朝光を祖先とする名族で、小峰城を造る前は「白川」城というのを拠点にしておりました。場所は小峰城より北だったかなあ。

 さて、この結城氏は信長の野望にも登場するように戦国時代まで生き延びますが、江戸時代になると織田信長の家臣・丹羽長秀の息子・丹羽長重が初代藩主として入城。4年の歳月をかけて、今の近世城郭である小峰城を築城します。その後、合計で7家(丹羽、榊原、本多、奥平、結城、久松<松平>、阿部)21人の藩主によって統治され、その中には飢饉の時に餓死者を出さなかったという松平定信もいます(定信は徳川吉宗の孫だが、養子に出された)。最終的には慶應3(1867)年に阿部家が棚倉へ転封となった後、二本松藩主の丹羽家が管理することに。

 ところが、幕末の戊辰戦争において白河藩は、藩主がいないまま、新政府に対抗して奥羽列藩同盟に加入し抗戦。慶應4年4月〜7月の約100日にかけて、奥羽列藩同盟と新政府軍の激戦が繰り広げられ、白河城は落城し焼失しました。

2.建物解説
 さて、その後長らく石垣だけという状態が続いていた小峰城ですが、平成3年に三重櫓という、実質的に天守の役割を果たした建物が、正保城絵図という、1644年に幕府が提出させた城郭の正確な絵や規模などを記させた絵と、松平定信の家臣が記した小峰城御櫓絵図(1808年)を手がかりに、木造で復元されました。本丸の北東の隅に位置する櫓で、三層三階、高さ14mの大きな物です。

 写真左は三重櫓内部で撮影。昔ながらの工法で、気の温もりを感じさせる出来栄え。

 しかし、それだけでは貧弱な感じも否めなかったのですが、平成6年には引き続き三重櫓に隣接した前御門も復元。表御門との別名もあり、その名にふさわしい立派な門です。

 小峰城は、東北新幹線からも見ることが出来るので、白河に立ち寄らない人も注意深く窓の外を見てください。

 また、二ノ丸には白河城集古苑という博物館があります。これは、二ノ丸に所在した倉をイメージした物で、結城家と阿部家の文書を保存・展示しています。

 一方写真左は、JR東北本線と白河城南の道路との境界に設置された城郭風の塀。これが非常に長い!ある意味、圧巻と言ったところです。しかし、こんなところに塀を復興するのであれば、白河城そのものに設置して欲しいものです。

 さて、白河市はこの他、松平定信が造園した、日本最古の公園・南湖公園があります。定信は、とにかく庭が好きだったらしく、金沢の兼六園も彼の命名です。

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