草津宿本陣とその周辺〜滋賀県草津市〜


 東海道五十三次の52番目の宿場であった草津。東海道と中山道が分岐・合流している交通の要衝で、1843(天保14)年の「宿村大概帳」によると2軒の本陣(田中七左衛門本陣、田中九蔵本陣)と、2軒の脇本陣、72軒の旅籠、586軒の家がありました。
 江戸時代における本陣とは、宿場で大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡など有力な寺院、外国使節などのみが使用できる宿泊施設のこと。草津宿では現在も田中七左衛門本陣が残り、草津宿本陣として一般公開されています。その主要部は1718(享保3)年、膳所藩(ぜぜはん/現・大津市)の藩主別邸である「瓦の浜御殿」(大津市)を移築したもので、1839(天保10)年にその上段向を建替えました。
 街道から向かって左側に休泊者のための座敷棟、右側に田中家の住居棟、敷地奥には厩(うまや)、土蔵が配されています。明治以降は郡役所や公民館として利用され、建物の一部改変があったものの形状をよくとどめており、1949(昭和24)年に国の史跡に指定されました。
 東海道では二川宿本陣(愛知県豊橋市)とともに、貴重な本陣建築を今に伝えています。
 このページでは草津宿本陣を中心に、周辺の見どころもご紹介します。
(撮影・解説:裏辺金好)

○地図



○風景


表門前の関札(または宿札)
一般の旅籠では禁止されていた表門があることが、本陣の1つの特徴。「近衛殿御休」との関札が表門に掲出されています。これは、利用者を示したもので、「近衛」「御休」ということは公家の近衛氏が昼食のために休んでいるということ。
なお、「宿」・・・宿泊者側が食事の材料(米、味噌、醤油)や道具(鍋、釜など)を持ち込み、連れてきた料理人が調理する宿泊、「泊」・・・本陣側が調理する宿泊、「休」・・・昼食休憩、「小休」・・・昼食以外の休憩、という種類があります。また、関札は利用者側が持ってくるため、大きさはバラバラです。宿泊料金は交渉によって決定したそうですが、大名は「心づけ」として支払うため、本陣側に決定権はなく、赤字になることも・・・。




壁紙は鳳凰に見立てた柏の大葉を描いており、明治時代に明治天皇が本陣へ行幸された際に使われたといわれています。なお、現在の壁紙は復元されたもの。






上段の間
大名など主客が滞在する場所で、滞在中は基本的にここから動きませんでした。一段高い座敷、格天井、違い棚など格式高い部屋の設えになっています。






上段雪隠




湯殿
大名など主客専用の風呂場です。









土蔵
草津宿本陣には4棟の土蔵があり、それぞれ用途が異なっていました。上写真は布団蔵と呼ばれ、利用者の道具をしまったと考えられています。建築年代は不明ですが、1832(天保10)年に床板を取り替えた際の墨書が残されており、それ以前の建築と考えられています。

○風景


草津宿復元模型その1(草津宿街道交流館にて)
幕末期を想定した200分の1模型。写真手前が西側(京都方面)です。


草津宿復元模型その2(草津宿街道交流館にて)
写真左側が西側(京都方面)、右側が東側(江戸方面)。東海道は草津川の手前で逆L字型に曲がり、中仙道(中山道)が真っ直ぐ進んでいます。



道標(右 東海道いせみち 左中仙道美のじ) 【草津市指定文化財】
現在も東海道、中仙道の分岐合流地点に残る道標(みちしるべ)。この場所は追分(おいわけ)とも呼ばれ、草津宿の中心にあり高札場もあったことから、多くの人の目に留まる場所でした。そのため、道中の安全と旅人が迷わないように1816(文化13)年に多くの人の寄進で建立されました。


草津文化センター
元々は草津警察署がこの場所にあり、1887(明治20)年に草津で初めての煉瓦造り建築として建てられました。玄関部分に元の煉瓦の一部を残しています。



吉川芳樹園店舗兼主屋 【国登録有形文化財】
江戸末期(1830〜1867年頃)築。東海道に面して残る、江戸時代以来の貴重な建築。正面に虫籠窓の意匠をつけ,出桁等を漆喰で塗り込めています。


田中九蔵本陣跡




草津宿街道交流館




八百久店舗兼主屋 【国登録有形文化財】
1928(昭和3)年築。

宇野毛糸店
かつては藍染商を営んでいました。

万善呉服店
江戸時代から続く商家です。

双葉館魚寅楼本館・塀・奥座敷 【国登録有形文化財】
1936(昭和11)年築(※奥座敷は昭和初期の建築)。角地に建つ料亭建築で、2階に80畳敷の大広間があります。

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