総社古墳群と総社城跡、光厳寺など〜群馬県前橋市〜


 前橋市の総社古墳群は、榛名山裾野(すその)の末端、南北約4km(現在のJR群馬総社駅付近)に点在する古墳群。お隣の高崎市にある保渡田古墳群と共に、非常に見ごたえがあります。
 古墳時代の後期から終末期(6〜7世紀)に、遠見山古墳→王山古墳→(王河原山古墳/消滅)→総社二子山古墳→愛宕山古墳→宝塔山古墳→蛇穴山古墳の順番で造営されたと考えれています。いずれも横穴式石室を有しており、実際に中へ入ることが出来る古墳も多いのが特徴です。
 また、この地には1371(応安4)年に赤松氏(後に関口と改姓)によって勝山城が築城。1566(永禄9)年に長野氏の箕輪城が落城した後に武田家によって落城。後に北条家が領有し、さらに秋元長朝(あきもとながとも)により1607(慶長12)年に総社城が築城されると、一部が取り込まれています。
 秋元氏は、初代長朝から二代泰朝(やすとも)までの約30年、総社を治めて城下町や用水路の整備などに取り組みますが、甲斐国谷村へ転封となり廃城となりました。勝山城、総社城ともに利根川の浸食や河川改修、宅地化によって遺構は全く残っておらず、僅かに案内板が残る程度です。
 ただし、秋元長朝が父の元景(景朝)の菩提を弔うために建立した元景寺や、同じく秋元長朝が菩提寺として建立した光巌寺(こうがんじ)が残っています。特に光巌寺は、多くの建物が江戸時代のまま残っており、非常に見ごたえがあります。
(撮影:裏辺金好)

○場所



○総社古墳群の風景



遠見山古墳 【前橋市指定史跡】
 形状:前方後円墳/5世紀後半頃の造営と推定。
 墳丘の長さは約70mで、江戸時代には総社城の城内に取り込まれ、櫓が置かれたことからこの名前が付けられています。




王山古墳 【前橋市指定史跡】
 形状:前方後円墳/6世紀初頭の造営と推定。
 墳丘の長さは約75.6mで、扁平な川原石が整然と葺かれていました。一部が見られるようになっています。



(総社)二子山古墳 【国指定史跡】
 形状:前方後円墳/6世紀後半の造営と推定。
 墳丘の長さは約89.9mで、表面に葺石があったことが確認されています。前方部、後円部双方に石室があるのが特徴で、後円部石室が造られた後、前方部石室が造られたと考えられています。



愛宕山古墳
 形状:方墳/7世紀前半の造営と推定。
 一辺約56m、高さ8.5mで、玄室の奥には凝灰岩製の家形石棺があります。



宝塔山古墳 【国指定史跡】
 形状:方墳/7世紀後半の造営と推定。
 一辺約60m、高さ12.4mで、玄室の奥には家形石棺があります。


宝塔山古墳(秋元氏墓地)
 江戸時代初期に総社藩主を務めた秋元氏の歴代当主が墳丘の上にあります。秋元氏は転封後も歴代にわたって総社に葬られ、何かと旧領民の支援を行っています。





蛇穴山古墳 【国指定史跡】
 形状:方墳/7世紀末の造営と推定。
 一辺約40m、高さ約5mで、総社古墳群最後の古墳です。墳丘の周囲に二重の周掘を持っていました。


前橋市総社歴史資料館
総社古墳群や山王廃寺、総社藩主の秋元氏や五千石用水について紹介しています。

○勝山城跡



利根川沿いに唐突に看板が現れます。遺構は全く残っていません。 

○総社城跡



勝山城の後に築城された総社城。なかなか立派な縄張りを持っていましたが、江戸時代初期に廃城となったこともあり、こちらも遺構はほとんど残っていません。

ただし、藩主の秋元氏が整備した天狗岩用水は今も残り、地域の財産として大切に活用されています。

○元景寺



元景寺は曹洞宗の寺院で、 総社藩初代藩主の秋元長朝が父の元景(景朝)の菩提を弔うために建立したものです。


秋元氏墓地 【前橋市指定史跡】
秋元景朝と正室の春、側室の成の墓が並んでいます。

○光巌寺

 秋元山光巌寺は天台宗の寺院で、初代総社藩主の秋元長朝が1607(慶長12)年に元総社の徳蔵寺を移し、開基したもの。山号は秋元氏の姓、寺号は秋元長朝の母である光巌院から取られています。宝塔山古墳に隣接しており、古墳の上には秋元氏代々の墓地があることは前述のとおり。


長屋門
天明5年築。

楼門
文化年間(1804〜17年)築。

鐘楼
1772(明和9)年築。

本堂
1820(文政3)年築。また、左隣の庫裏は1813(文化10)年築。

七重石塔(左)【前橋市指定文化財】/秋元氏霊廟 
七重石塔は総社町高井の東覚寺跡にあったといわれる層塔で、室町時代の建立。霊廟は1812(文化9)年築。

力田遺愛碑
力田(りょくでん)遺愛碑は1776(安永5)年築。領民が約150年前の藩主、秋元氏の治世に感謝して建てたといわれるもので、非常に珍しい事例です。

薬師堂

元三大師堂

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