大磯宿・鴫立庵・吉田茂邸など〜神奈川県大磯町〜


 今回は東海道の宿場町だった大磯町を御紹介。国道1号線沿いを中心に旧東海道の面影が随所に残るほか、明治時代以降は要人の避暑・避寒地として邸宅や別荘が多く建てられ、「政界の奥座敷」との別名も。特に伊藤博文と吉田茂の邸宅には多くの要人が訪れています。
 これまでは数多く残る洋館は企業等が保有し、あまり活用されないまま老朽化が進む一方でしたが、2017(平成29)年には国が中心となって、「明治150年」関連施策の一環として、旧伊藤博文邸等を中心とする建物群及び緑地を「明治記念大磯邸園(仮称)」として整備し、歴史的な建物群等の一体的な保存・活用を図ることが発表。今後の活用が楽しみな状況です。
 さて、上写真は大磯町の玄関口であるJR大磯駅。1924(大正13)年の建築です。
(撮影・解説:裏辺金好)

○地図



○風景


旧・木下家別邸(現・大磯迎賓館) 【国登録有形文化財】
 1912(大正元)年築。切妻造スレート葺で、左右の屋根上にドーマー窓を開くのが特徴。現在はレストラン「大磯迎賓館」として活用されています。ツーバイフォー工法で、輸入材ではなく国産材で造られた住宅としては、国内最古だそうです。



旧東海道 江戸見附
大磯宿の江戸側の入り口。松並木が残っています。



旧東海道
大磯八景碑 化粧坂の夜雨



旧・南組問屋場跡
大磯八景碑 化粧坂の夜雨




旧東海道沿いの景観
風情ある昔ながらの店舗や老舗が幾つも残っています。


新島襄終焉の地
大河ドラマ「八重の桜」でもお馴染み新島襄は、同志社英学校(後の同志社大学)設立者で、1899(明治22)年に群馬県前橋市で倒れ、大磯の旅館・百足屋で静養。急性腹膜炎だったそうですが回復せず、翌年に亡くなったそうです。


湘南発祥の地 大磯
最近は江ノ島や逗子の方まで湘南のようなイメージですが、本流はあくまでココ。



鴫立庵
平安時代の歌人である西行の歌「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」にちなみ、1644(寛文4)年に小田原の崇雪が草庵を営んだ場所。1695(元禄8)年俳人大淀三千風が入り、第一世庵主となったのが始まりです。


滄浪閣
 伊藤博文邸である滄浪閣は元々、1890(明治23)年に小田原へ建築したものでしたが、伊藤博文はここを引き払い、同名で1897(明治30)年に建築したものです。

当初は別荘として計画しますが、本邸として使用。伊藤博文死後の1921(大正10)年には朝鮮の李王家別邸として譲渡され、1923(大正12)年の関東大震災で被災したため修復。戦後は政治家・楢橋渡の所有を経て1951(昭和26)年に西武鉄道が取得し、大磯プリンスホテルの別館となりました。

2007(平成19)年にプリンスホテル別館として営業を終了し、大磯町が買収を試みますが価格が折り合わず断念。それから10年経っても廃墟・・・。



旧・池田成彬邸
1917(大正6)年築。滄浪閣にほぼ隣接して残るこちらの洋館は、戦前に三井財閥の事実上の総帥や第14代日本銀行総裁、第1次近衛内閣で大蔵大臣兼商工大臣を務めた池田成彬(いけだしげあき)の屋敷。元々は西園寺公望の邸宅だった場所を取得したものです。




旧・吉田茂邸
 元々は明治17年に吉田茂の養父である吉田健三が別荘として建てたもので、吉田茂が引き継いだ後は、約8回の増改築を行いました。

 吉田茂は1944(昭和19)年から住みはじめ、応接間棟と玄関、食堂を木村得三郎が設計。さらに昭和30年代に新館(中2階、2階)を吉田五十八の設計で、京都の宮大工が建築。豪壮な総檜造とし、あわせて玄関や食堂も改築されました。
 吉田茂死後は、西武鉄道株へ売却され、大磯プリンスホテルの別館として利用されていましたが、神奈川県が整備を検討していた矢先、2009(平成21)年に火災で焼失。

 大磯町が寄付を募り、神奈川県が再建に着手し、2016年に応接間棟、玄関、食堂、新館部分が復元されました。訪問時はまだ、内部の一般公開は行われていなかったのですが、2017(平成29)年4月1日からは公開が開始されています。

 なお、入口にあたる兜門は焼失を免れた貴重な建築物です。

旧・吉田茂邸 日本庭園
日本庭園は世界的に著名な作庭家である中島健が手掛けた当時のまま残ります。

旧・吉田茂邸 七賢堂
 1960(昭和35)年に滄浪閣(伊藤博文邸)から移築した五賢堂も焼失を免れています。ちなみに、吉田茂死後に吉田茂と西園寺公望を加えて七賢堂と改められました。

 ちなみに他の5人は三条実美、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、そして伊藤博文(当初は四賢堂で、伊藤は死後に加えられた)です。




末社丸山稲荷本殿 [国指定重要文化財]
大磯を気にいった藤村が、1943(昭和18)年に71歳で亡くなるまで、最後の2年間過ごした家です。

間もなく静子夫人も戦火を避けるために箱根に疎開しますが、作家の高田保が1949(昭和24)年から亡くなる1950(昭和27)年まで居住。その後は再び、静子夫人が1963(昭和48)に亡くなるまで過ごしました。

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