山口県東部の商工業都市。広島湾にそそぐ錦川下流部を占める。江戸時代に毛利家分家の岩国藩・吉川家6万石城下町として栄え、1940(昭和15)年市制施行。面積は221.15km2。人口は約10万人。国の名勝・錦帯橋などの観光が盛んな一方、米軍岩国基地があり、夜間発着訓練(タッチアンドゴー)等の騒音問題がある。
岩国市という名前は、随分昔からあります。
なんと、平安時代の百科辞書である「和名抄」に周防(すおう)国玖珂郡石国(いわくに)郷として地名が登場。さらに岩国市東部の麻里布地区は、奈良時代の「万葉集」に「浜清き麻里布の浦」
として地名が登場しています。
さて、そんな堅苦しい前置きはともかく岩国市の観光の目玉は、なんと言っても美しいアーチ状の木造橋である「錦帯橋」。錦川にかかるこの錦帯橋は国の名勝であり、山頂にそびえる岩国城天守閣との組み合わせは絶景です。
もっとも、左の写真を見る限り、岩国城は非常に解りにくいですが・・・。
また、岩国城天守閣は戦後に復興された物で、錦帯橋との組み合わせをよくするために、本来の場所から錦帯橋側に移されました。あまり良い行為とは言えません。
さて、この錦帯橋についての歴史。
江戸時代初期の頃。この錦帯橋のある錦川には、何度も橋が架けられましたが、流れが急なためよく流され、丈夫な橋を造ることが急務でした。
岩国藩第3代藩主の
吉川広嘉(ひろよし)は、自身が病弱だったため、医師で中国の明の出身である
独立(どくりゅう)という人物に治療をしてもらっていたのですが、この独立医師が所持する「西湖遊覧誌」という明の書物を閲覧する機会を得ました。そして、その書物に出てくる橋を見た吉川広嘉は、「これを再現すればいい!」と考えつき、錦川に小島のような橋を置く台を造らせ、そこに石垣を置き、アーチ型の橋を架けさせました。
当然、何度か失敗はしたのですが1673(延宝元)年に錦帯橋が完成しました。
ちなみに元々は、このアーチ部分の1つ1つに「五龍橋」「城門橋」「龍運橋」などの名前があったのですが、1704年には早々に、錦帯橋と総称されるようになりました。幕府の一国一城令によって、江戸時代の初めに、殆ど完成したばかりの岩国城の天守閣は壊されていたこともあり、この錦帯橋は岩国のシンボルとなりました。
なんと言っても、釘を一本も使わずに木材の組合わせだけで見事に強度を高めた橋。現代の技術でも何ら改善の余地がないほど精巧な構造です。ところが・・・。
1950(昭和25)年9月14日。戦争も乗り越えた錦帯橋でしたが、「キジヤ台風」と名前の付くほど強い台風によって錦川は大氾濫を起こし、戦争直後で手入れも行き届いてなかった錦帯橋は、無惨にも流されてしまいました。確実に国宝になったであろう錦帯橋は、こうして276年で姿を消し、多くの人々はこれにショックを覚えました。
しかしそれから1週間後に早速、市議会は再建を声明。昭和26年2月22日に起工式が行われ、昭和28年に完成しました。そして観光名所として、岩国のシンボルとして復活したのです。さらに平成13年〜平成16年にかけて、元々の錦帯橋の形に完全に復元すべく、架け替え工事が行われました。つまり、橋の木造部分を取り替えたわけです。伝統的な大工の匠の技を、現在間近で見ることが可能で、大きな話題となりました。写真をちょうど架け替え工事の最中の時の模様で、見れば解るとおり、新しく架けられた部分は、木の色が明るいですね。
さて、錦帯橋を越え、ロープウェイで山頂へ行くと、そこは岩国城。
その前に、ここに吉川家が来るまででの話をしましょう。
まず平安時代に岩国の地を平家一族である岩国氏が治めますが、平家滅亡の
壇ノ浦の戦いで追い出され、この地を弘中氏が治めます。その後、弘中氏は山口を拠点に中国地方で勢力を大きくした大内氏の武将となりますが、戦国時代に、新興大名である毛利家と大内家が戦った厳島の合戦で敗北。大内氏もその後滅亡し、この地は毛利家の支配下に置かれます。そして毛利家は中国地方の殆どを支配下に置きました。
ところがその毛利家は、関ヶ原の戦いで徳川家と戦うことに。当主の
毛利輝元は、
石田三成によって総大将に仕立て上げられますが一族の
吉川広家は、これに強く反対し
徳川家康と示し合わせ、毛利軍を動かしませんでした。結果、西軍は敗北。吉川広家は、毛利家を動かさなかった代わりに、毛利家の所領の確保を図ったのですが、そこは徳川家康。毛利家の罪は重いとして改易、代わりに吉川広家に周防と長門(山口県全域)を与えよう、としました。
それはまずい、と吉川広家は必死に嘆願。結局、毛利家が周防・長門2カ国に縮小・減封され、吉川広家は岩国藩の藩主となりました。おかげさまで、毛利家の本家からは、江戸時代を通じて相当恨まれたようです。
さて岩国城。
平地に城を築くのが主流となる中で、
吉川広家は横山と呼ばれる要害の地に築城することにします。1603年に工事がはじまり、1613年に完成。山頂には三層四階の立派な天守閣が完成しました。ところが、1615年、幕府の一国一城令が出され、一つの藩に一つしか城を置いてはだめ、としました。
岩国藩は、岩国「藩」ですから幕府も岩国城取り壊しを命じなかったのですが、長州藩である毛利家の本家は、岩国藩はあくまで長州藩の一部であるとし、だから一国一城令によって取り壊せ、としました。こうして完成して早速、岩国城は壊され、以後岩国藩の政治は、山の麓のみで行われます。
それから時は流れ、1957(昭和32年)に岩国城の天守閣を復興することに。この時、錦帯橋との組み合わせを良くするために、本来あった場所よりも錦帯橋よりに少しだけ移動し、そこに天守閣を造りました。これが、今私がちが見る岩国城天守閣です。2枚目の写真は、元あった天守閣の天守台です。天守からは、岩国城下を一望でき、岩国の城下町の雰囲気を見ることが出来ます。
さて、この他にも岩国は見るべきところがいくつかあります。
まず、錦帯橋を岩国城方面へ進むと、
香川家長屋門があります。これは、岩国藩五家老の1つ、香川家が1693年に建造した物です(写真1枚目)。
そこから少し歩くと、
目加田家住宅というのがあります。これは18世紀中頃に造られた武家屋敷で国の重要文化財。目加田家は戦国時代からの吉川家の家臣です。水害があるためか、平屋が主流の武家屋敷の中では珍しく2階が存在しています(写真2枚目)。
また、その近くにある
吉川資料館では吉川家の文書を公開。
さらに、昭和15年に吉川家の始祖
吉川経義から700年を記念し、吉川報効会が設立し、昭和26年に岩国市に寄贈された
徴古館では、絵画などを展示しています。建物自体は、昭和初期の近代建築だったかな。
昭和15年と言えば戦争の真っ最中。だからこそ、吉川家では地元に、こうした博物館を造ったみたいです。そんな有り難い博物館ですが、残念ながら私は行っていません。殿様、ご免なさい。
さらに、ロープウェイ近くの岩国歴史美術館では、奈良時代から江戸時代までの甲冑(かっちゅう=鎧甲<よろいかぶと>)、刀剣、陣羽織(じんばおり)など古武具6000点を収蔵。
その近くにあるのが
吉香神社。その社殿は、治功大明神として、1728(享保13)年)に造営されたもので、始祖
吉川経義(1133〜93)から、13代岩国藩主 経健(1855〜1909)まで23人がまつられています(写真3枚目)。
そして、その周りを堀が囲んでいるのですが、城の櫓のような建物があります。これは、
錦雲閣といって、明治時代に旧藩時代の城郭一部を移築して造られました。実はこの場所は、藩主の屋敷があった場所で、神社の敷地は居館があったところ。
社殿は古いですが、その他は吉川家が明治維新で東京に移住したあと、明治17(1884)年に形成されました(写真4枚目)。一帯は、吉香公園と総称されます。
ちなみにこの公園の一角に、
佐々木小次郎の銅像があります。
佐々木小次郎は錦帯橋を飛ぶ燕を見て、ツバメ返しを思いついたそうで。
それから、近くに
岩国高校記念館というのがあります。これは、明治時代の岩国女学校の校舎、後に岩国中学校の武道場となった物です。その後、戦後に、この2つが岩国高校となったあとも武道場として使用されましたが、昭和45年に移転した跡、明治時代の校舎を今に伝える物として、記念館になったようです(写真5枚目)。
学校と言えば、錦帯橋からJR西岩国駅方向に歩いていくと、
旧岩国学校の校舎があります。1870(明治3)年の建築で、文明開化の影響からか、洋風と和風の入り交じった不思議な建築です。
なお、現在は岩国市立岩国学校資料館として使用。江戸時代から今に至るまで、実に多くの教科書を所蔵しており、1階で、一般公開しております。特に昭和の教科書類は、懐かしいと感じる人も多いのでは?閲覧も可能であり、さらに昔使われていた机もあります。繰り返しますが、所蔵量&閲覧可能量が凄いです。
この他、郷土の有名人を紹介するほか、元々職員室だった2階では、昔の様々な道具を展示してあります。
写真はそのうち、いわゆる戦後の黒塗りの教科書(案内してくれたお爺さんによると、墨で塗っていていると既存の価値観をぶち壊すみたいで楽しかったらしい)、福沢諭吉の学問のすすめ(最初に発行された頃の物)、それから昔のカメラ。
金ばかりかけて内容の無い、都会のくだらない博物館より、様々な物を間近で見ることが出来、実に素晴らしい場所であります。

最後に
JR西岩国駅を御紹介。JR岩国駅から岩徳線で1駅。錦帯橋からは、徒歩20分程度の場所にあり、個人的には、このJR西岩国駅から岩国学校、錦帯橋、岩国城、バスでJR岩国駅というコースを推奨したいのですが、さてこの西岩国駅。
今では無人駅で、1時間に1本程度のディーゼルカーが来るローカル線の駅ですが、それにしては非常に立派。
実は、岩徳線は、昭和の初めの一時期は、山陽本線を名乗っていたこともあります。地図を見て解ると思いますが、山陽新幹線とほぼ並行しているわけで、山間部を突っ切るショートカット路線です。ただ、大きい都市が海岸線沿いに出来てしまい、そこを走る柳井線が山陽本線に改称。こちらは岩徳線と改称されてしまいました。
ゆえに、西岩国駅はローカル線と思えないほど立派な1929年建造の近代建築であり、また各駅は長大編成用のホームが今も残っています。ちなみに、岩国の城下町には西岩国駅方が、岩国駅よりも遙かに近く、開業時は西岩国駅の方こそ「岩国駅」、今の岩国駅は麻里布駅でした。結局、昭和になると麻里布地区の方が発展し、さらに山陽本線の方に「岩国駅」の名を持っていかれてしまいました。

この岩国は、2003年3月にワタクシ裏辺所長、氷川相談役、八十八所員、片桐所員、後に2浪という真実を知ることになる水澄所員で行ったものです。帰りに、岩国駅近くの喫茶店でみんながケーキを頼む中、八十八所員だけパフェを注文。そしたら、このような素敵な・・。
ハッピバースデイ?
いやあ、しかし掲載しているのが2003年9月。取材も兼ねて日本各地を飛び回りますが、他に書く物も多く、なかなか掲載が出来ませんね・・・・。
(地図=白い地図工房 http://page.freett.com/rukuruku/)
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