出島〜長崎県長崎市〜



○解説

 出島(国史跡名としては出島和蘭商館跡)は江戸時代、いわゆる鎖国政策をとっていた日本にとって、西洋との玄関口となった場所。1636(寛永13)年に当時は海だった場所に、キリスト教を布教されないよう、ポルトガル人を収容するために「出島町人」と呼ばれる豪商25人に人工島を造らせたのが始まりです。

 元々は出島という名前ではなく、海を埋め立てて築いた島=「築島(つきしま)」、または形状が扇型をしていたことから「扇島」と呼ばれていました。そして、3年後にはポルトガル人は全て国外追放に。無人島になった出島は、1641(寛永18)年には平戸からオランダ商館が移転され、日本の数少ない対外窓口としての役割を担うことになります。

 1810年〜1815年には一時的にオランダ本国がフランスに占領されたため、世界で唯一オランダ国旗を掲げている島になってしまったことがあります。困ったのは出島のオランダ人達で、本国からの補給が来ない。そこで、幕府が意外と面倒をよく見て、食料品などを供給したそうです。それでも生活は苦しかったそうですが。

 そして幕末になると、出島も終焉の時期を迎えます。1856(安政2)年、日蘭和親条約が締結されてオランダ人達は出島に閉じこもる必要が無くなりました。1866(慶応2)年には外国人居留地に編入され、出島の周辺の埋め立ても始まります。最終的には1904(明治37)年の港湾改良工事で内陸化され、あの特徴的な扇形の島は姿を消してしまったのです。

 しかし1922(大正11)年には国の史跡に指定。そして昭和26年には長崎市が復元整備計画に着手し、翌年から復元工事を開始して多少の体裁を整えます。1990(平成2)年に表門が復元されたほか、2000(平成12)年にヘトル部屋など5棟、2006(平成18)年にカピタン部屋など5棟、2016(平成28)年に筆者蘭人部屋など6棟が復元されるなど、復元工事が次々と進められています。
(解説&撮影:裏辺金好)  

○場所



○風景



出島復元模型

表門
本来は陸地から橋がかけられ、もっと(写真から見て)手前側にありました。2017(平成29)年秋には架橋と周辺工事が完了します。


水門
まずはここが物品輸出入の最初の入り口。2つの通り口のうち南側は輸入用、北側は輸出用でした。


南側護岸石垣
長らく埋め立てられ陸地になっていましたが発掘の上で、道路と分離。石垣も再利用されています。




ヘトル部屋
ヘトル(商館長次席)の住まいとして使用されていた建物。 屋根を見ると、ちょっとした物見台があるのがお解り頂けるかと思います。


一番船船頭部屋・一番蔵
1階は砂糖などを収める蔵。2階は、オランダ船船長の宿泊所および商館員の住まいとして使用さました。



一番蔵



一番船船頭部屋


二番蔵
輸入品の蘇木(そぼく)=染料に使った木が保管されていました。



三番蔵
砂糖が保管されていました。




料理部屋
その名のとおりの施設。料理は日本人が行ったそうです。


カピタン部屋
オランダ商館長であるカピタンの住居。



カピタン部屋(1階)


カピタン部屋(2階)
2階玄関脇にあり、商館の重要な事務を行う場であったと考えられます。1817(文化14)年12月に行われた、前商館長ドゥーフから、新商館長プロムホフへの引継ぎ風景を再現しています。


カピタン部屋(2階)


カピタン部屋(2階)
商館員の事務室



カピタン部屋(2階)
こちらは大広間。クリスマスの宴会が再現されています。


カピタン部屋(2階)
商館長の寝室。ベッドが置かれていました。




乙名部屋
長崎奉行によって長崎の有力町人から選任された出島乙名が貿易期間中に居住したり、金庫番役人や見張り番人の詰所として使われていました。



拝礼筆者蘭人部屋
オランダ商館の首席事務員の住居でした。エレキテルなどが展示されています。


十六番蔵
輸入品の丁子を保管していました。



筆者蘭人部屋
オランダ商館員の住居。



十四番蔵
かつては砂糖蔵でした。


組頭(くみがしら)部屋(左)と乙名詰所(右)



乙名(おとな)詰所
表門から出入りする人を監視するため、出島の管理者である乙名が詰めている場所。



組頭(くみがしら)部屋
銅蔵を取り囲むように建っており、輸出品である銅を計量したり、梱包する場所。



銅蔵


新石倉(出島シアター)
1865(慶応元)年に建てられた石倉を再建したもの。



旧・出島オランダ屋敷跡石造倉庫
安政の開国後に建てられた石造倉庫。坂本龍馬率いる海援隊も取引で利用しました。



旧・長崎内外クラブ
1903(明治36)年築。出島が役目を終えた後の建築で、江戸時代のものではありません。トーマス・グラバーの息子である倉場富三郎の尽力によって、長崎に在留する外国人と日本人の親交の場として建てられました。



旧・出島神学校
1878(明治11)年築。出島に造られた日本初のプロテスタント系の教会に隣接して造られた神学校。ただし教会の方は取り壊され、その後に宣教師宿舎部が増築されたとか。

出島橋 【土木遺産】  
現役の鉄製道路橋としては日本最古で、1890(明治23)年の完成。元々は中島川の河口に新川口橋として架けられたもので、1910(明治43)年に老朽化した先代の出島橋に変わって、ここに移設されました。土木学会の選奨土木遺産に選定されています。

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