広島県竹原市 
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竹原市観光協会
竹原市役所ホームページ 文化財
 竹原市は広島県中南部、瀬戸内海沿岸の都市。室町〜戦国時代は竹原小早川氏の、江戸時代は広島藩の領地として発展。主に塩田を中心とした製塩と輸送の拠点として栄えますが、塩田整備法により、1960(昭和35)年に塩田は廃止となってしまいました。それもあってか残念ながらあまり発展はせず、1958(昭和33)年に市制がスタートしてからも人口は基本的に微減が続き、3万8000人いた人口は増えることなく、現在は人口3万人となっています。
 しかし、その代わりに竹原市中心部には、塩に関係する産業で栄え、そこから富を得た豪商の屋敷や商家が立ち並ぶ、豪勢な街並みがそっくりそのまま残りました。福山市鞆の浦地区と並ぶ、極めて美しい街並みで、今でも観光地化しておらず、昔ながらのただ住まいが残っています。
竹原市 重要伝統的建造物群保存地区


竹鶴酒造
 「小笹屋」として古くから酒造を営んできた家。しかも、「日本のウイスキーの父」と言われたニッカウヰスキーの創始者竹鶴政孝氏の生家でもあります。
松阪邸 (竹原市指定重要文化財)
 江戸末期(1820年頃)建築。さらに1879(明治12)年に全面改築した物。塗込めの窓額つき菱格子(ひしこうし)の出窓など、建物の随所が特徴的です。
 なお、松阪氏は、初代が1674)延宝2)年に広島から移住。沢田屋として塩田の必需品である「薪・石炭の問屋、塩田経営、廻船業、醸造業と多角経営を行うかたわら、下市庄屋、割庄屋、竹原塩浜庄屋、竹原町長などをつとめました。
初代郵便局跡
初代郵便局跡(書状集箱)
1871(明治4)年、郵便事業創業当時の郵便ポストを復元し設置したもの。
頼惟清旧宅  [県史跡]
 1775(安永4)年頃の建築。日本外史の著者として知られる頼山陽の祖父、頼惟清が紺屋を営んでいた家で、入母屋塗込造、本瓦葺の母屋と単層屋根、切妻造本瓦葺の離れ座敷からなっています。
頼惟清旧宅(内部)
春風館頼家住宅 [重要文化財]
 1855(安政2)年築。頼山陽の叔父、頼春風(1753〜1825年)の家です。もっとも、彼の死後に家は焼失し、翌年に現在の建物が建っています。
 なお、頼春風は「竹原書院」の設立に努力し、竹原の文化向上に尽力したほか、頼山陽にも多大なる影響を与えています。
復古館頼家住宅 [重要文化財]
 1859(安政6)年築。頼春風の孫の三郎が分家独立して構えた屋敷で、春風館西に隣接。酒造業や製塩業を営んだため、商家としての建築となっています。
 敷地内にもかつての建物が幾つか残っていますが、非公開となっています。
照蓮寺
照蓮寺からの風景
西方寺本堂 [市指定重要文化財]
 1702(元禄15)年築。西方寺は、1602(慶長7)年に火災で焼失した妙法寺に代わって、翌年に移ってきた寺。同時に浄土宗に改宗しています。
西方寺普明閣
 1758(宝暦8)年築。西方寺本堂横の高台に位置し、元々は戦国武将として有名な小早川隆景が建立したもの。方三間宝形造、本瓦葺の二重屋根、舞台造で、ミニ清水寺といった雰囲気です。
 また、この建物の中には妙法寺の本尊であった十一面観音像を安置していますが、この観音像は、もと平重盛の護身仏であったともいわれています。なお、重盛は、将来を嘱望されながらも若くして死んだ平清盛の嫡男です。
 また、ここからは竹原の街並みを一望できるのが魅力。そして竹原の街並みからは、この建物がよく見えます。
西方寺地蔵堂
 1927(昭和2)年築。 
 西方寺がある高台の麓にあるお堂。
旧町立竹原書院図書館(現 歴史民俗資料館)
 1930(昭和5)年築。古い日本家屋の街並みの中に擬洋風の建築が特徴的です。竹原書院は先ほど御紹介しましたが、現在は市立竹原書院図書館として別の場所で存続しています。
河野通直の墓
 伊予の戦国大名、河野通直の墓。河野氏は鎌倉時代以来の名族でしたが、戦国時代になると一族の内紛、そして土佐の長宗我部元親の侵攻でボロボロとなり、通直は長宗我部元親に降伏します。ところが直ぐに、豊臣秀吉の四国征伐に遭い、敗北。所領没収の上、この竹原の地に移され、失意のうちに病死しました。
 この墓は豊臣方の先方として河野氏を滅ぼした小早川隆景が建立したものと伝えられています。写真は西方寺近くの長生寺にて。