長野県長野市松代町(2)〜松代城下と松代大本営〜
  Matsushiro Area in Nagano City , Nagano Prefecture

▼MAP

▼アクセス
JR長野駅よりバス
長野電鉄屋代線松代駅

▼関連サイト
エコール・ド・まつしろ ホームページ
 現在は長野市に属する松代の地は、戦国時代、武田信玄VS上杉謙信の川中島合戦に於いて、武田方の海津城が築城された場所。武田家滅亡後は、森忠政が入り「待城」と改名。さらに、松平忠輝が入ると「松城」と改名。そして1622(元和8)年に上田から真田信之が入り、以後は真田家の城下町として発展します。
 さらに1771(正徳元)年、3代藩主の真田幸道のときに、幕府の命令で「松代」と地名を改名します。明治になると長野県埴科(はにしな)郡松代町となり、1966(昭和41)年、篠ノ井市などと共に長野市と合併して自治体の名前としては消滅しました。
 さて、松代観光のスタートなるのは長野電鉄屋代線の松代駅。何ともレトロな雰囲気が漂っています。駅前には、川中島合戦で有名な海津城(のち松代城となり、真田家10万石の居城)跡が残り、現在は掘と石垣、そして太鼓櫓など多数の建物が復元されています。
 また、城下に残る古い建築は殆どが松代駅周辺の徒歩圏内に点在。残念ながら長野電鉄の本数が少ないため、実際にはJR長野駅からバスで訪問するのが早そうですが、城と駅、城下町の3点セットで堪能したいものです。
(解説&写真:裏辺金好、樺太南半分)

昭和の香りが漂う松代駅構内。


一部が復元されている松代城。これについては、別ページで御紹介しています。


矢沢家の表門 【市指定有形文化財】
 1792(寛政4)年築。松代藩の無役席(筆頭家老格)を代々勤めた、矢沢家の邸宅表門です。矢沢家は真田家興隆の祖である真田幸隆の弟、矢沢頼綱に始まる家で、真田一族として真田六文銭が門の意外なところ(?)に取り付けられています。


旧松代藩鐘楼 【市指定文化財】
 1624(寛永元)年、真田信之が鐘楼を設置し、2時間ごとに鐘をつかせたのを起源とする鐘楼。1849(嘉永2)年には、佐久間象山が日本で初めて電信機を作って、伊勢町御使者にある居館から、ここまで電線を架けて通信することに成功しています。なお、現在の鐘楼は1991(平成3)年につけられたもの。

旧白井家表門 【市指定有形文化財】
 1846(弘化3)年築。松代藩の中級武士であった白井家の表門。中級武士とは言え、長屋門形式の立派な門構え! デザイン的にはシンプルなもので、出窓と与力窓のみが設置。なお、2000(平成12)年に現在地(松代文部学校の目の前)に移築されてきました。

真田勘解由家住宅 【国登録有形文化財】
 江戸時代後期に建てられた母屋は2階建,寄棟造の建築で、上級武家住宅の遺構を今に伝えています。

○松代城下を歩く

象山神社
 祀られている佐久間象山(1811〜64年)は朱子学者にして洋学者。吉田松陰、小林虎三郎、勝海舟、河井継之助、坂本龍馬、橋本左内、加藤弘之など教科書に出てくるような人物を多く弟子にもち、日本史に大きな影響を与えます。なにより、幕府の海防掛となった藩主の真田幸貫をよくサポートしました。
 ところが強烈な自信家で、しかも開国派として印象もたれていた象山は京都に行ったときに暗殺されてしまいます。また象山の事歴は、暗殺実行犯の河上彦斎が、のちに象山の事歴を知ると、「あまりの大物を殺してしまった」と愕然とし、人切りと名高かった彼が暗殺をやめてしまうほどでした。

旧松代藩文武学校
 1852年に藩主 真田幸貫が佐久間象山らの意見に基づき、藩士の子弟に文武の道の道を奨励すべく建設を計画し、ところが成らずして逝去したので次代の藩主 真田幸教が造営したものです。
 非常に多くの建物、土塀が残り、1855(安政2)年開校、建築当時の様子を今に残しています。

旧松代藩文武学校 文学所
 1855(安政2)年築。同じく、旧文部学校の建物です。まるで時代劇のセットのように、当時の建物が密集して残っています。

旧真田邸
 1862(文久2)年、参勤交代の緩和に伴い、松代藩9代藩主真田幸教の義母で、江戸の藩邸に住んでいた彼の父 幸良の未亡人「貞子の方」が松代に帰ることになったので、その隠居所として新築したもの。日本でも数少ない大名屋敷の面影を今に残している貴重な建物です。

旧真田邸
 非常に雰囲気の良い庭園もあります。

赤澤家住宅表門 【国登録有形文化財】
 明治時代築。旧真田邸近くにある薬医門形式の門で、上級武家屋敷の表門の格式を受け継いで造られています。

松代大本営 ( 松代象山地下壕 )
 松代駅から徒歩15分の場所にある松代大本営 (松代象山地下壕)。ここは第二次世界大戦の末期に軍部が本土決戦最後の拠点として、極秘のうちに大本営などを松代に移すという計画を元に造られかけた地下壕です。2億円の費用をかけ昭和19年11月11日から終戦の昭和20年8月15日までに計画の約75%が完成しましたが、食料事情などにより、ここで働いていた多くの地元の人と朝鮮の人々がお亡くなりになりました。

入り口
 まさに、坑道へ入っていく雰囲気です。

削岩機ロッド
 これは岩盤を掘るときに使われたもので、抜けなくなったロッドが今も残っています。

地下壕坑道
 地下壕の中で凸凹したところは、土砂などの運搬に使ったトロッコの線路の枕木跡です。

不戦の誓い 石碑
 地下壕の入り口にあります。


朝鮮人犠牲者追悼平和記念碑
 ここでなくなった多数の朝鮮人の人々を弔う場所。日本語とハングル文字で 「朝鮮人犠牲者追悼平和記念碑」と書いてあります。