大日本史年表(江戸時代2)

1787年 天明の打ちこわしが起こる。
        田沼意次が失脚。
       ( 松平定信 )が老中に。
        寛政の改革の初め。早速倹約令をだす。
1789年  旗本・御家人の借金帳消しよ、の
       ( 棄捐令 )を出される。
       米の備蓄などを定めた( 囲い米 )
       の制が出される。
1790年  職業訓練施設ともいえる( 人足寄場 )を
        江戸の石川島に設立。
1791年  お金をちゃんと積み立てて災害時などに
       使おうという( 七分積金 )の制が出される。
1792年  ( 海国兵談 )・「三国通覧図説」の著者、
       林子平が蟄居を命じられ本は絶版となる。
       ロシアの( ラクスマン )が漂流民・大黒屋光太夫を連れて根室に来航。通商を要求するが、幕府はまた
       今度ねと追い返す。なお、光太夫はロシアの情報を幕府に報告した後は、幕府に監視された飼い殺しの
       ような状況下におかれる。一般市民にロシアのことを喋るな、とのこと。
1793年  松平定信、老中を辞任。将軍家斉がお金を使いまくる政治を開始。彼は側室も何十人も持ち、
       子供の数も55人。この頃から特に、大奥の権勢が強まり改革をことごとく阻害し始める。
       倹約が嫌だから、が彼女たちの理由。
1798年  ( 近藤重蔵 )が千島列島を探検。
1800年  ( 伊能忠敬 )が蝦夷地を探検。
1802年  十返舎一九が( 東海道中膝栗毛 )を著し、ヒットする。
1804年  ロシアの( レザノフ )が漂流民送還のため長崎に来航。同時に通商を求めるが拒絶される。
1805年  関東のならず者を取り締まるため( 関東取締出役 )を設置する。
1808年  間宮林蔵が( 樺太 )を探検。翌年、後の間宮海峡を発見。
       ( フェートン )号事件。イギリス船が長崎に侵入し、薪水・食料を強要して帰る。長崎奉行は切腹する。
1809年  式亭三馬が「浮世風呂」を著す。
1811年  ( ゴローウニン )事件。ロシアの軍艦艦長( ゴローウニン )を国後島で逮捕。
       翌年、ロシアが高田屋嘉兵衛(択捉航路を開いた人) を国後島で逮捕し、その翌年に交換する。
1814年  滝沢馬琴が( 南総里見八犬伝 )の執筆を開始。
1817年  イギリス船が浦賀に来航する。
1821年  伊能忠敬の日本全図が完成。
1822年  大蔵永常が( 農業便利論 )を著す。
1825年  異国船打払令、またの名を( 無二念打払令 )がだされる。
1827年  薩摩藩において( 調所広郷 )が藩政改革を始める。
        改革内容は、琉球との密貿易、奄美大島特産のサトウキビの専売(領民を相当しごいた)、借金の返済
        期日を無理矢理に長期にわたって延期させたことであり、かなり過激。まさに「痛みを伴う改革」。
        頼山陽が( 日本外史 )を著す。 源平2氏から徳川に至るまで、武家が政権を握る過程を著述。
         →「史記」を模範とし、尊皇攘夷運動に影響。
1828年  シーボルト事件。伊能忠敬の師匠の息子で、幕府天文方の( 高橋景保 )がオランダ商館医師のドイツ
       人シーボルトに日本地図を譲り 処罰をうけ、シーボルトは国外追放となる。なお、シーボルトといえば長崎
       で開いた塾( 鳴滝塾 )を覚えておこう。この塾の門下生が日本の近代医学に少なからず貢献することに
       なる。
1829年  葛飾北斎が( 富嶽三十六景 )を描く。
1830年  水戸藩主徳川斉昭が藩政改革を始めるが、藩内は派閥闘争に明け暮れ幕末まで尾を引く。
1832年  ( 為永春水 )が春色梅子誉美〜しゅんしょくうめごよみ〜を著す。
1833年  歌川広重が( 東海道五十三次 )を描く。海外の画家に大きな衝撃。
1834年  ( 水野忠邦 )が老中となる。41年の大御所家斉の死をもって天保の改革を始める。
1837年  ( 大塩平八郎 )の乱。大坂で元大坂奉行所与力の( 大塩平八郎 )が、貧民を救済しない幕府の態度
        に対し反乱を起こす。すぐに鎮圧されるが、幕府内部からの反乱と言うことで衝撃は大きかった。
        越後柏崎において国学者の( 生田万 )が( 大塩平八郎 )にならい反乱を起こす。もちろん鎮圧された。
        アメリカ商船モリソン号が漂流民を届けに来たところを砲撃される。
1838年  中山みきが( 天理 )教を創始する。
       高野長英が( 戊戌夢物語 )、渡辺崋山が( 慎機論 )を著し、密かにモリソン号に対する幕府の
       打ち払いの行動など幕政を批判。 ところがこれがばれてしまい処罰。崋山は自殺。長英は牢に入った後、
       脱獄し各地を転々とし大名の保護を受けるが、江戸に戻ったところを見つかり、自殺を図り獄中で死亡。
       これら、蘭学者に対する弾圧を( 蛮社の獄 )という。

1841年  天保の改革スタート。株仲間が解散させられる。
1842年  天保の薪水給与令。打ち払い令を緩和し、外国船に薪水食料を与えることで穏便に事を済ませることにした。
1843年  人返しの法、上知令が出る。基本なので内容は略。これで忠邦は自滅し辞任。
        かわりに福山藩主( 阿部正弘 )が老中首座に。藩主には珍しい賢者だったが残念なことにペリー来航
        のごたごたの中で病死。
1846年  アメリカの( ビットル )が浦賀に来航し、通商を要求。
1850年  ( 佐賀 )藩で、日本初の反射炉が建設される。工業化の第一歩。
1851年  土佐藩の人で漂流民となった中浜(ジョン)万次郎がアメリカより帰国。
       ( 本木昌造 )が鉛活字を鋳造。活版印刷を始める。
        薩摩藩で藩主の( 島津斉彬 )が改革を始め、製錬所や反射炉を造る。
1853年  ペリーが浦賀に来航。開国しなさいと勧告して帰る。
1854年  ペリーが再び来航。返事はいかにとせまり、仲良くしましょう
        という日米和親条約(別名:神奈川条約 )が結ばれる。
        各列強もこれにならう。
1855年  蛮書和解御用掛を洋学所とする。これは56年に
       ( 蛮書調所 )に、62年に洋書調所に、
        63年に( 開成所 )と組織が変更する。
          →意外と入試でよく出るから注意。
1856年  アメリカ総領事として( ハリス )が着任。通商を要求する。
1858年  老中首座の堀田正睦〜ほったまさよし〜が朝廷に
       「如何しましょう」と、お伺いを立てたところ、外国と通商などもってのほか!と拒絶され、
       幕府の権威を失墜させる。
        井伊直弼が大老となり、アメリカと( 日米修好通商条約 )を結ぶ。
       ( 安政の大獄 )で、橋本左内、頼三樹三郎<頼山陽の息子>、吉田松陰らが死刑、
       徳川斉昭らが謹慎となる。
1860年  条約批准のため、新見正興を正使に勝海舟らがアメリカに行く。
       桜田門外の変。井伊直弼、水戸藩浪士らに暗殺される。
1861年  孝明天皇の妹和宮が将軍徳川家茂に嫁ぐ<公武合体>。
1862年  ( 坂下門外 )の変。老中安藤信正が、尊王攘夷派の志士に襲われ傷を負うが逃げ切る。
         →しかし「逃げるとは武士の恥」と弾劾され老中を罷免される。
1863年  ( 長州 )藩が外国船を( 下関 )で砲撃。
        高杉晋作が( 奇兵 )隊を設立。
       ( 薩英 )戦争。生麦事件の報復にイギリスが鹿児島を砲撃。薩摩藩の意外に手強い抵抗に、
        イギリスが少し考えを改め、薩摩藩の支援をおこなうことにした。
        ( 八月十八日 )の政変。公武合体派の公家達が、三条実美ら長州藩寄りの尊王攘夷派公家を追放。
        これを七卿落ちともいう。
1864年   フランスの公使として( ロッシュ )氏が着任。後に徳川慶喜の顧問として全面支援を行う。
        ( 池田屋 )事件。尊皇攘夷派志士を取り締まる、新撰組が志士達を襲い、大打撃を与える。 
         ( 禁門 )の変。長州藩士達が上京し、会津・薩摩藩の連合軍に敗れ去る。蛤御門の変とも。
         幕府、第一次長州征伐を開始。
         下関砲撃事件の報復として、イギリスなどの四国連合艦隊が下関を砲撃。長州藩、幕府と四カ国に
        謝罪をする。
1866年   坂本龍馬らの仲介で薩摩藩と長州藩が、秘密裏に軍事同盟を結ぶ。これを( 薩長同盟 )という。
1866年   幕府、第二次長州征討を開始。しかし、将軍徳川家茂の死去と、小倉藩が長州藩に敗北したため
        新将軍となった徳川慶喜が中止させる。 しかし、幕府権威は失墜。
1867年   前土佐藩主・山内豊信が、幕府に朝廷に政権を返してはいかがという( 大政奉還 )を建白。
        慶喜、これを了承し、朝廷に奏上する。 ところが、同日に薩長に倒幕の密勅がくだる。
        ( 王政復古の大号令 )・・・天皇中心の新政府が樹立が宣言される。同時に小御所会議が開かれ、
        慶喜に対し、官位辞退と領地返上を命じる。
 


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