第1回 ウィルソン大統領と第一次世界大戦

第一次世界大戦勃発

 そして1914年、第一次世界大戦が勃発します。
 ハプスルブルク家のオーストリア皇太子フェルディナント夫妻がセルビアで殺されたことをきっかけに、と教科書では書かれていますが、実際には既にドイツVSロシアなど、民族問題や権益も絡み、様々な国家間で対立、紛争が起きていました。イギリス外相グレーは、イギリス、ロシア、フランス、ドイツ、イタリアの5カ国大使会談による危機回避を提案したが、ドイツ。結局、もう我慢の限界だったわけです。

 こうして簡単にまとめると、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、トルコ、ブルガリアVSイギリス、フランス、ロシアの戦いがスタート。
 この時、アメリカは何をしていたか。
 当時のアメリカは、上流階級の富裕層はイギリスの貴族と血縁関係にあることが多く、そう言う理由もあって親イギリス、フランスの立場でした。しかしながら、元々国内は「対外的な紛争には介入しない」のが原則であり、ウィルソン大統領は、この戦争に対し不介入を決断します。だけでなく、何とか戦争を早期に終結できるよう、ハウス大佐を二度も訪欧させるなどして、講和の斡旋も行います。

 ですが、アメリカが講和の斡旋を行うと言うことは、アメリカが外交の主導権を握ると言うことです。
 つまり上手く戦争が終わればアメリカの手柄。ヨーロッパにおけるアメリカの発言力は高まります。そんなことは大英帝国たるイギリスには認められませんし、誇り高きフランスも「笑止千万」と、言うわけで不調に終わります。

 また、日本も中国にあるドイツの占領地を獲得すべく、日英同盟を口実に参戦。また、中東を支配していたオスマン=トルコ帝国は、黒海にあるロシア海軍基地を攻撃。攻撃した後で、謝ったのですが、ロシアの怒りは収まらず、と言うか口実にしたんでしょうが、さらにイギリス、フランスもオスマン=トルコ帝国に宣戦布告しました。明らかに、広大なオスマン=トルコ帝国の領土が目当てです。それに当たっては、オスマン=トルコ帝国に反抗するアラブ人を支援するという形を取ります。

 一方、国内にいる富裕層=ユダヤ人の協力も欲しいイギリスは、ユダヤ人のために、中東のパレスティナに国家を作ってやる、と約束したため(バルフォア宣言)、今に至る紛争のきっかけとなります。この当時。既にパレスティナにはユダヤ人もパレスティナ人もいたのですが、仲が良かったんですよ。問題はこの後、どんどんユダヤ人がパレスティナに送り込まれたために人口バランスが崩れて・・・。

 また、カメルーンをはじめ、世界各地にあるドイツの植民地でも戦いが始まります。こうしたわけで、主戦場はヨーロッパのように見えますが、世界大戦の名にふさわしく、世界中で戦闘が繰り広げられたのです。

 この他、各植民地から多くの人が徴兵され、ヨーロッパに送り込まれ、戦いに投入されます。ちなみに、当時戦ったの人々の証言を見ると「一度ヨーロッパという物を見てみたかった気持ちもあった」と、回想していたり・・・。もちろん、記憶という物は美化されたり、逆に悪い方向のイメージに形成されたりし、さらに人によってバラバラてすのでで、この証言をそのまんま受け入れてはダメですがね。でも、植民地の若い人の中には、そう言う気持ちもあったみたいですな。

アメリカの参戦

 さて、戦いの進展については、ここは「アメリカ合衆国史」ですので取り扱いません。先へ行きます。
 1915年、海軍力に劣るドイツは、潜水艦による無差別攻撃を宣言。つまり、イギリスに物資が海上輸送されないように、周りを封鎖し孤立させるから、中立の船は近づくな、近づくと沈めるぞ、という事を宣言します。ところが、同年5月に、警告なしにイギリスの豪華客船ルシタニア号が撃沈され、1189名の乗客が死亡。この中には128名のアメリカ人も含まれており、アメリカを激怒させます。

 でも実は、イギリスも悪い。
 何故ならば、この豪華客船の下に武器を隠して輸送していたのです。
 それもあってか、アメリカは我慢したのですが、その後もドイツ潜水艦による客船の撃沈がつづき、アメリカ人も死亡。ここに来て、ついに講和の斡旋をやめ、中立派のブライアン国務長官は辞任し、後任にランジング氏が抜擢。17年4月2日、ウィルソン大統領は「民主主義を守るための戦いだ!」と、連邦議会に宣戦布告を提議し、4月6日参戦が決議されました。もちろん、民主主義を守るためだけではありません。イギリス、フランスには多額のお金を貸していたので、負けてもらっては困るのです。

 参戦後、アメリカは選抜徴兵制によって大規模な動員体制を確立。この時、公報委員会による様々なポスターが駆使され、「さあ、愛する人を守るために戦争に行こう」みたいな感じで呼びかけ、300万人あまりが兵役につくことになります。さらに、戦時産業局のもと、政府主導の新経済体制を導入、リバティ国債発行で数百万ドルをあつめます。いやあ、良くも悪くも、ポスターみたいな物って怖いですよ。  そんな中、ロシア帝国が革命によって崩壊し、混乱の後にレーニンによる社会主義政権であるソヴィエト連邦が誕生します。ソヴィエト政府は、国家の安定が第一目標だったので、さっさとドイツと和平を結び戦争を終結させました。これに勢いを得たドイツは一気に攻勢を強めますが、あと一歩のところで失速し、一転して敗北モードに入ります。

 1918年1月、ここに至ってウィルソンは、戦後の国際秩序の主導権を握るべく、独自の平和原則14カ条を発表(ウィルソンの14カ条)。民族自決、植民地主義の廃絶、諸国家の組織(国際連盟)結成などを世界によびかけるものでした。

 そして、ドイツ帝国内では前線での敗北が衝撃を与え、ここから社会主義系の人々による不穏な動きも起こります。そのため、社会主義革命を起こされてはたまらん、ということで社会民主党のエーベルトを中心とする勢力が皇帝ヴィルヘルム2世に「もう皇帝をやめるべし」と要求すると、皇帝はオランダに亡命。こうして、同年11月にドイツ帝国も降伏しました。以後、しばらくの間ドイツは、ヴァイマール共和国と呼ばれます。また、同盟国側のオスマン=トルコ帝国、ブルガリアは降伏。オーストリア=ハンガリー帝国も和平を結びました。

 う〜ん、随分省略してもこれだけ書くことがあるのか。困ったね、こりゃ。

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