第5回 第2次世界大戦とアメリカ

第2次世界大戦の勃発

 もう半世紀以上も前のことになってしまいましたが、未だに何かと尾を引いている第2次世界大戦。
 61ヶ国が参戦し、総計で約1億1000万人が軍隊に動員され、戦場へ出なかった人も戦争遂行のための物資を製造するために駆り出され、空襲にあう総力戦で、さらにユダヤ人や中国人が虐殺されたり、慰安婦の問題、強制連行、終結後に発生する難民問題など、様々な暗い陰を残しました。

 何でこの戦争が起こったのか。簡単に述べることは極めて難しいです。不幸が積み重なったとしか言いようがありません。
 ただ、ヴェルサイユ体制というのが基本的にイギリス・フランスに有利な物であり、ドイツには厳しく、日本・イタリアは甘い汁が吸えなかったために不満がたまっていたというのがあります。しかしそれでも、日本では大正デモクラシーの時代、ドイツ経済は復興し、国際協調が叫ばれ、不戦条約(1928年)が結ばれるなど、平和に向けた取り組みも始まっていました。 

 ところが、ウォール街からの不況で事態は一変。自力で経済が立ち直れなかったドイツ、日本は必然的に海外に目を向けていくことになります。こうして、ドイツではヒトラーが、イタリアではムッソリーニが独裁者として大衆を扇動し、一方、日本というのは独裁者はいないのですが、軍部の主導で中国侵略を開始しました。

 具体的には、日本は1931年9月の柳条湖事件(満州鉄道線路爆破)を契機に中国東北部を占領し、37年7月に本格的な中国本土への侵略を開始。ドイツは、33年10月に国際連盟を脱退し、35〜36年に徴兵制を復活。さらにヴェルサイユ条約で禁じられたドイツ西部のラインラントへ進駐を強行。イタリアは、35〜36年に、唯一アフリカで西洋の植民地になっていなかったエチオピア征服を完了します。

 なお、このドイツの動きに対し、イギリスのチェンバレン首相は、「アメリカは信用できない(借金、債務支払いで対立していたから)。ヒトラーと和平を結ばないと!」と言うことで、ヒトラーが要求したチェコのズデーデン地方を譲り渡すことを認め、平和を実現した・・・として大喝采を浴びるのですが、これはヒトラーに裏切られ、戦争が始まってしまいます。戦争の経過についてはご免なさい、ここでは扱いません。そのうち書く現代史にご期待下さい。・・・何ヶ月先になることやら(笑)。ちなみにロシア史では結構扱っておりますので、ぜひどうぞ。

アメリカの立場

 1935年、アメリカはヨーロッパでの戦闘に巻き込まれてはたまらん、ということで戦争を行っている国へ武器や軍需品を輸出を禁じる中立法を制定。でも、悪いのはドイツや日本だ!と言う声が高まっていき、1939年、ドイツ、イタリア、日本に対する制裁へ移行。イギリス、フランスに武器弾薬を輸出することになります。

 これは、イギリスでルーズヴェルトと仲の良かったチャーチルによる政権が出来たこと、ドイツの猛攻でフランスの苦境が明確になってきたことが影響しています。ルーズヴェルトとしては参戦もしたかったのですが、国民世論はそこまでは達していませんでした。特に、議会ではアメリカ第一委員会のリンドバーグ(1902〜74年)らがルーズヴェルトの英仏支援を非難します(なお、ナチスのゲーリングから名誉君州をもらっていたこともあり、親ナチスと逆に非難されました)。ちなみにこのリンドバーグは、初めて大西洋を飛行機で横断した人として有名。ちなみにその後、太平洋戦線に出撃しています。

 それでもルーズヴェルトは、もう早速戦争終結後の国際政治の主導を握るべく、1941年8月14日、チャーチルと大西洋上の軍艦の上で、大西洋憲章を結びます。具体的には
 (1)アメリカとイギリスは領土を拡大しない
 (2)国民は政治体制の選択権をもつ
 (3)国民は国境の変更を強制されない
 (4)すべての国家は原料資源を利用する権利をもつ
 (5)諸国家は経済協力をおこなう
 (6)ナチスを打倒し、全人類は恐怖と貧困から解放される
 (7)公海自由の原則をみとめる
 (8)国際間の武力行使を放棄し、連合国側が勝利したのち軍備縮小を実行する。 の8つです。これは、国際連合発足の下地ともなりました。

アメリカの参戦

 そして、ルーズヴェルトにとって願ってもいない好機が訪れます。
 1941年12月7日。
 日本軍によるハワイ真珠湾奇襲攻撃が発生したのです。これについて、事前にルーズヴェルトが知っていたか、知っていなかったか? 非常に難しい問題で、回顧録も残さなかった彼なので、おそらく永遠の謎になると思いますが、いずれにせよ日本の外務省が手抜きしていたようです(と、書くとまた批判が来るだろうなあ)。あと、日本には宣戦布告なんて文化はないですし、実際、宣戦布告なしに戦争が起こることは多々あるわけです。って、別に日本を擁護したいわけではなくて、あくまでもこれは事実。

 とは言え、本土ではなくてもアメリカが攻撃されたことは、アメリカ人に多大なる衝撃を与え、戦争に参加しよう!というムードになります。また、「アメリカは信用できない」としてドイツと同盟を結んでいたスターリン率いるソ連が、ドイツの侵攻を受けて交戦開始。社会主義国ソ連と資本主義国アメリカが手を結ぶという奇妙な同盟も結ばれます。この時の、ソ連側のエピソードはロシア史を参照。

 こうして、戦いの準備は整いました。ドイツ・イタリア・日本などの枢軸国VSアメリカ・イギリス・フランスなどの連合国
 いよいよ戦いは本番です。
 しかし、この中で重要なのは実は外交だったりします。第1次世界大戦の時のように、ソ連とドイツが勝手に講和を結んだり、戦後処理でもめるわけにはいきません。42年1月には連合国共同宣言をだし、先の大西洋憲章の確認と、単独で講和はしないという約束をします。と言うのも、ソ連がドイツと戦わされていたので、不満たらたらだったのです(第二戦線形成問題)。

 ともあれ、アメリカは日本に空襲をかけて中国を支援する一方、、テヘラン(1943)、ヤルタ(1945)、ポツダム(1945)での連合国首脳会談を開き、戦後の国際秩序について煮詰め、さらに東ヨーロッパにおけるソ連の勢力圏をみとめさせることで、ソ連に対日参戦決断させます(元々ソ連と日本は中立条約を結んでいた)。また、ドイツもイタリアも降伏。ヒトラーは自殺し、ムッソリーニは処刑されました。

 ところがこれが酷い。ソ連に日本を侵略させておきながら、日本にソ連が権益を持つのを恐れたルーズヴェルトは、主にドイツから亡命したユダヤ人科学者に「原子爆弾」の開発を命じ、日本を早期に降伏させるべく計画を進めます。と、ここでルーズヴェルトは急死。この時何と、4期目という異例の大統領職の中での、死でした。

 そして、副大統領のトルーマンが大統領に昇格。  トルーマン大統領は、開発が完了したばかりの2種類の原爆を日本に投下。この原爆で日本政府は完全に沈黙しました。一方、スターリンも核兵器の開発に乗り出します。このように、アメリカとソ連は手を組んだものの仲が悪い。さあ、冷戦への幕開けです。

国際舞台に登場するアメリカ

 今まで見てきたとおり、長らくアメリカは国際社会に不介入というのが原則でした。ここでは取り扱っていませんが、建国してから、独立時や、戦争を仕掛けられたりした以外は、基本的に孤立主義姿勢を取っていたのです。

 ところが第2次世界大戦中盤から、アメリカは国際社会に積極的に介入します。
 戦争に勝ったアメリカの主導で、国際連盟の各組織を基盤とした「国際連合(United Nations)」が設立されます。国際連合というのは日本側の意訳で、正しい訳は「連合国」。そうです、第2次世界大戦で枢軸国と戦った連合国のことです。ですから、敵国条項の中に相変わらず日本、ドイツが含まれているわけで、この組織を国際連合と訳すのはどうも・・・。

 また、日本の占領を主導し、悪名高い東京裁判を行ったほか、アメリカは国際司法裁判所にも加盟します。

ルーズヴェルトの妻、エレノア

 ところで、フランクリン・ルーズヴェルト大統領の妻エレノア(エリーナ)・ルーヴェルト(1885〜1962年)がセオドア・ルーズヴェルトの姪である事は前述しました。彼女は1905年にフランクリンと結婚。1921年に小児麻痺にかかったフランクリンの政治活動を積極的に支えた人物です。支えた・・・と言えば、それだけの美談になってしまいますが、彼女自身、実に政治に深く関わる活動を行います。

 既に夫が大統領職にある時から、ニューディール政策の一環として若者を雇用するプログラムを推進。さらに、人種差別問題に取り組み、名流婦人団体「アメリカ革命の娘たち」が、黒人歌手のリサイタルを目的とした施設の利用を拒否した時には、彼女は抗議して同団体を脱会し、さらに第2次世界大戦中にアメリカ兵を慰問して回っただけではなく、軍の内部における人種差別を撤廃を説いて回ります。さらに、ユダヤ系難民のアメリカ受け入れも求めました。

 フランクリンは戦争終結直前になくなりますが、エレノアは引き続き政治活動を続けます。まず、民主党内にリベラルグループを結成。さらに、1945〜1953年にかけて国際連合のアメリカ代表として、世界人権宣言起草委員会の委員長まで務めます。この他、「すべては女性にかかっている」などの著書や新聞連載コラムも多数で、いやはや、本当に凄い人物です。
 
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