第8回 ケネディ〜その実像と虚像〜

今でも人気のケネディだが


 70歳という高齢で引退したアイゼンハワーに対して、民主党のジョン・フィッツジェラルド・ケネディ(通称、J.F.K)は大統領就任時には43歳という、大統領史上最年少を記録。その若々しさは多くの人を魅了し、またこの時代のアメリカは比較的豊かで、さらにケネディは暗殺されるという悲劇的な最期を遂げたため、現在でも、歴代大統領の中で一番人気となっています。

 さて、ちょっと大統領選挙から見ていきましょうか。
 いよいよ、TVというマス・メディアがお茶の間に普及したのが特徴。
 そこでケネディは、TVを前にした討論会で、共和党候補のニクソンよりも清新なイメージを与え、人々の人気を集めます(でも、ラジオで聴いた人は、ニクソンの方が弁論が上手かったと一般に言っています)。そんなわけで、TVというマスメディアを巧みに使った初めてのアメリカ大統領といえるでしょう。なお、ラジオだとルーズヴェルトが炉辺談話として使っていますね。

 ところが、そんなケネディは今だと大統領になれなかったといわれています。
 何故ならば、今のマスコミは四六時中、大統領につきまとうし、プライベートなことでもどんどん報道するからです。つまり、ケネディには報道されては困ることがたくさんあったということです。ケネディファンの人にはご免なさい。暴露します。

 まず第1に女癖の悪さ。この人の親父(ジョセフ・ケネディ 銀行家、駐イギリス大使)と同様に、とにかく女好きです。クリントンなんて可愛いもんです。ちなみにJ.F.ケネディの妻は『タイム=ヘラルド』誌の写真部員ジャクリーン・ブービエという人物。気苦労が絶えなかったでしょうね。

 それから第2に、清新なイメージとは裏腹に、彼は非常に不健康でした。アジソン病という副腎の病気で、脊髄が発育不全。右半身と左半身の高さが明らかに違いますし、日々痛み止め(麻酔)を打って生活していました。のみならず、睡眠薬やホルモン剤も服用。多い時には1日8錠を飲み、国民の目の届かないところでは松葉杖の生活でした。

 さらに、大学の卒業論文は父親の知り合いの人に書いてもらいます。さらにその後、「勇気ある人々」という本を彼は書いて賞を受賞したのですが、実はこれ、大統領顧問を後に務めるソレンセンの執筆。その後も、ソレンセンはケネディのスピーチを執筆します。まあ、大統領になってからのスピーチなんて、そんなものでしょうが。

 ま、そう言うわけで、今から見るとスキャンダルだらけの、かなりスリリングな大統領であったわけです。
 ちなみに第2次世界大戦中。彼は太平洋戦線に従軍し、ガダルカナルで日本軍の駆逐艦「天霧」と衝突し、乗っていたボートが大破するという九死に一生を得る出来事を体験しています。もっとも、この辺も父親が美談に仕立てているとか。この資産家の父親は、とにかく息子を高い地位につけたかったんですねぇ。富は得た、あとは名誉と地位だ、ですか。

柔軟反応戦略

 さて、アイゼンハワーといえば核兵器を使った大量報復戦略がテーマでしたが、ケネディは柔軟反応戦略を策定。既にヴェトナムなどでゲリラ的な戦闘が起こっていたので、まさか何事にも核兵器を使うわけには行けません。これは、どんな戦闘にも柔軟な対処が出来るようにする・・・って感じの戦略です。つまるところ、いつでもどこでも、強力な軍が出動できるよう、どんどん戦車だとかミサイルを配備するという、軍拡を進めていったわけです。

 それから彼の軍事政策で特徴的なものとして、61年3月に創設した平和部隊があげられます。彼の妹の夫であるサージェント・R・シュライバーシュワルツネッガー カリフォルニア州知事の妻マリアの父親)を隊長としたこの部隊は、いわば平和維持活動を目的としたものです。政治とは無関係に、招かれた国に出向いて内戦状態を終結させるなど、平和への取り組みを実行します。最初は「必要ない!」と国内外からの非難を浴びましたが、今ではアメリカの中で重要な役割を占めています。

 一方、ケネディは対ソ強硬派だったため、ソ連との関係は悪化。この時、ついにあのベルリンの壁がドイツに構築されます。

キューバ危機

 その米ソ最大の危機、一発触発が、1962年2月のキューバ危機です。
 キューバといえば、アメリカの直ぐ下。カストロによる革命政権が出来ていたのですが(ケネディは、暗殺を試みますが失敗)、ここにソ連製の攻撃用中距離ミサイル基地が建設中であることが解りました。当然、アメリカが射程に入っています。こりゃ、戦争を起こすつもりか!?

 というわけで、緊張関係は一気に高まり、ケネディはフルシチョフにミサイル基地撤去を要請。1週間後、フルシチョフは合衆国のキューバ不侵攻を条件にミサイル撤去に同意し、合衆国は空中偵察によってそれを確認し、戦争の危機はさりました。

 その後は、 1963年8月5日に合衆国、イギリス、ソ連で大気圏と海中における核実験停止条約に調印する(地下核実験は停止されなかったけど)、農産物のソ連への輸出を許可するなど、比較的友好ムードに入りました。

ケネディ暗殺

 ところがまだ任期途中で。
 1963年11月22日、ケネディは大統領再選運動の遊説でおとずれたダラス市内をオープンカーでパレード中、突然、狙撃(そげき)され息を引き取りました。これ模様はTVでも中継され、世界中に波紋を広げました。

 暗殺から数時間後。暗殺犯としてオズワルドという人物が、暗殺現場付近で逮捕、ところが奇妙なことに、その2日後、拘置所への護送中にナイトクラブ経営者ルビーに射殺されました。そして、64年9月、連邦最高裁の調査委員会は、オズワルドの単独犯行、という結論を発表しましたが、様々な謎があり、未だに真相は明らかになっていません。一体ケネディが何のために暗殺されたのか、答えは謎のままです。

アポロ計画

 ケネディと言えば、このアポロ計画を忘れてはいけません。暗殺されてしまった彼は、結局成果を見ることなく終わってしまいましたが、彼は人類を月に立たせるという、夢のような計画を実行しました。その前段階として、62年2月にマーキュリー計画を実行。ソ連に遅れること一年で初の有人衛星の打ち上げと回収に成功し、アメリカ人も宇宙にでたわけです。

 そしてサターンXというロケットと、3人の宇宙飛行士を乗せたアポロ宇宙船が、フロリダのケネディ宇宙センターより1969年7月16日に打ち上げられ、7月22日午前11時56分(日本時間)、人類は初めて月に立ちました。アームストロング船長の「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」という名言は非常に有名ですね。しかし、これ以後月に人類は立っていません。

 以上、次回に述べるヴェトナム戦争以外のケネディ大統領についてみていきましたが、あまり悲劇の英雄視するというのは問題の人物であったのです。もちろん、だからといってケネディ=悪人などと単純に決めつけてはいけませんよ!

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