第11回 レーガン大統領とスターウォーズ計画

対ソ連強硬主義者、また登場?

 さ〜て、その次の大統領が共和党のロナルド・レーガン(1911年〜2004年)です。
 彼は1980年、何と69歳という大統領史上最高齢で当選します。

 この人物、イリノイ州タンピコの靴屋の次男として生まれ、ラジオアナウンサーからハリウッドの俳優、さらに1966年にはカリフォルニア州知事になったんですね。まさに立身出世といったところでしょうか。ちなみに最初は民主党員でしたが、1962年より共和党に入党しています。カリフォルニアでは民主党が多数を占める議会に苦労したとか。

 そして彼の口調は人気が高く、何かと失言、お騒がせをするのですが、この語り口で乗り切ります。また、彼のスタッフの中には今、ネオコン(新保守主義者)として知られるR.パールや、大統領補佐官に一番最後に就任したパウエル将軍がいます。

 さてさて、彼は社会福祉政策の大幅カットと、大規模な減税による経済刺激を実施し、レーガン革命(レーガノミックス)と呼ばれます。経済刺激で景気回復を狙ったのですが、しかし後述する軍事費の拡大もあって財政赤字が拡大し、そして経済も思うように好転しません。特に、アメリカ商品の国際競争力の低下と日本製品などの流入で膨大な貿易赤字に(財政赤字と合わせて、双子の赤字といわれます)。

 それでも就任4年で景気は何とか回復し、そのため、1984年の大統領選では民主党のモンデールを破って再選します(しかし、ついに85年には債務国に転落。)

 「強いアメリカ」を標榜し、軍拡を実施。ソ連を「悪の帝国」と非難し、ソ連のSS20というミサイルに対抗して西ヨーロッパにアメリカ製中距離核ミサイルを配備します。それだけではなくレーガンは、宇宙空間からソ連のミサイルを打ち落とすというSDI(戦略防衛構想)に着手。これは、当時はやった映画「スターウォーズ」になぞらえ、つまり「滑稽な計画だ」と皮肉られたのですがスターウォーズ計画と呼ばれます。

 また、グレナダ侵攻(1983年)、リビア爆撃(1986年)など、軍事行動も行い、各国、とりわけ第三世界と呼ばれる地域から不信を買います。とはいえ、それ以上には拡大せず、意外と軍事介入には慎重ではありました。ただし、イラン革命の後、イランと戦うイラクのフセイン大統領に対し、ラムズフェルドを大統領特使として派遣し、支援の意を表明(イラン・イラク戦争)。武器も与えていくのですが、もくろみが外れて、湾岸戦争、さらに先頃のイラク戦争へつながります。

 さらに巨大スキャンダルも。1986年10月、政府職員がイランに武器を売却し、その利益をニカラグアの反政府勢力コントラの支援にあてていた問題が明るみになり、窮地に立たされました(イラン・コントラ事件)。

反核主義者レーガン

 ところで、今まで見たとおりレーガンはタカ派。かなり強硬論者で軍拡も進めた人です。ところが、意外にもこの人物。核兵器はあってはならない、として廃止の道を探ります。SDI構想について、周りの人には「さらなる軍拡」もしくは「できっこない馬鹿な計画だ」と考えられましたが、本人だけは「核兵器に代わる新しい防衛システムであり、これで核兵器が無くなる」と信じていたようです。

 この計画は、結局完成しませんでしたが、現在では戦略ミサイル防衛構想として残り、いよいよ完成の域に達するようです。

 そして、ソ連もいよいよ、最後のボスであるゴルバチョフが書記長として登場します。
 ゴルバチョフはご存じの通り、ペレストロイカを進め、ソ連の解放を打ち出し、最終的にソ連解体を迎えさせた人物。で、レーガンとは核兵器廃絶で一致し、1987年12月、中距離核戦力(INF)全廃条約が締結されました。さらに、前面査察の導入でも一致。今までのSALT(制限)から、START(戦略兵器の削減)へ向かい、一時は核兵器の全廃決定寸前までいき、世界を仰天させます。

 ですが、残念なことに、レーガンはゴルバチョフが求めたSDI 計画の凍結を認めなかっため、それ以上の進展はありませんでした。それでも1988年の春、レーガンのソ連訪問が実現しています。

 あと特筆できる事件としては、1986年1月、スペースシャトル「チャレンジャー」が打ち上げ直後に爆発し、乗員7名全員が死亡という事件があげられます。これで、一時的に宇宙開発が遅れました。

ロン・ヤス関係

 ところでレーガンといえば、日本の中曽根康弘首相と仲が良かったことで有名です。
 鈴木首相の時、鈴木首相が日米同盟について否定的な見解を表したためアメリカとの関係が悪化したのですが、中曽根首相は訪米すると、日本とアメリカは運命共同体だと発言。これが、不沈空母と意訳され一気にアメリカの対日不信感が減り、そしてその発言の翌日にレーガンと中曽根首相が会うと、これまたたちまち意気投合します。

 この親しい関係はロン・ヤスと紹介されます。つまり、お互いがファーストネームで呼び合うほど仲がよいということです。また、中曽根首相の妻・中曽根蔦子(つたこ)は、レーガン大統領夫妻が訪日した際、東京の多摩地区の「日の出山荘」という場所で夫とともに接待し、一風変わった歓談を行っています。なかなか評判は良かったとか。

 ただし、日本の対米黒字が拡大していたため、経済摩擦問題は深刻になっていきました。

レーガン暗殺?

 もう一つ、レーガンについてはこれを紹介しましょう。
 1981年3月30日、ワシントンのヒルトンホテルを出たレーガン大統領は、突然何者かに胸を銃撃されました。犯人の名前はジョン・ヒンクリー・ジュニア。映画俳優ジョディー・フォスターに失恋した彼は、彼女が出演した「タクシードライバー」という映画に影響を受けて、彼女を見返してやろうと、つまりどうだ俺はすごんだぞと、銃撃に及んだとか。

 この事件は、ケネディ大統領暗殺を彷彿とさせるもので全米に衝撃を与えます。ところが、レーガンは運が良いというか、一命を取り留めます。だけでなく、さすがは元俳優というか、手術の時には医師団に「君たちが共和党員であることを祈る」などとジョークを飛ばし、かえってこれでレーガン人気を高めました。それまでは、素人大統領に何が出来る、という空気がアメリカの中に多かったんですが、銃撃されても死なないと言うことで拍手喝采されたわけです。

 レーガンがこれら一連の政策を実行に移せたのは、この事件によって得た人気があった見て間違いありません。
 ちなみに、そのおかげでアメリカは軍事技術に予算をつぎ込むことができ、そこから得られた技術が(幸か不幸か?)IT社会に大きな貢献をしているわけですから、私たちもこの暗殺事件の影響を大きく受けているのかもしれませんね。

 ちなみにジョン・ヒンクリー・ジュニアは、その後精神病院に収容され、2003年末に、連邦地裁が「監督者なしに病院を出て、両親を訪問することを認めた」ことから、レーガン元大統領の妻ナンシーが反対表明をするなど、未だに尾を引いています。

コラム:ホワイトハウス

 アメリカ大統領の官邸として世界的に有名なホワイトハウス。ちょっと、これのお話を。

 ホワイトハウスが建築されたのは、1800年。初めてワシントンに建てられた公的機関で、第2代大統領アダムスが、最初の主となりました。設計したのはアイルランド系のアメリカ人ジェームス・ホーバーン。建築コンペで優勝して選ばれました。

 ところが完成間もない1814年8月14日。米英戦争、つまりアメリカVSイギリスの戦争でホワイトハウスは炎上。ホーバーンが修復作業にあたり、17年に再建されました。その後は、トルーマン大統領、ケネディ大統領時代など、何度か増築され、1964年、ジョンソン大統領がホワイトハウス保存令を出して、今に至っています。

 また、ホワイトハウスと呼ばれるようになったのは、1901年にセオドア・ルーズヴェルト大統領が官邸の公式封筒に印刷させてからです。それまでは、プレジデント・パレス、プレジデント・ハウスと呼ばれていたとか。セオドアさん、なかなかお茶目ね(?)。

 さて、1階部分は、クロークや台所、ケネディ時代に於かれた美術品陳列の間として陶磁器を集めたチャイナルームが存在。
 2階部分が国賓を迎える場所で、一般にも公開(太っ腹!)。イースト・ルームが一番広く、舞踏会などでも使用されます。その他、楕円形のブルー・ルームは国家主催の公式晩餐(ばんさん)会で賓客をもてなす部屋。レッド・ルームが、ファースト・レディこと大統領夫人が賓客をむかえる部屋。さらに、グリーン・ルームは非公式なレセプション向け、ステート・ダイニング・ルームは公式晩餐会用と、部屋ごとに目的を異にしています。

 それから、大統領は3階に居住。4階に大統領スタッフの部屋となっています。

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