第1回 古代中国〜周、そして秦へ

○建国直後の周

 周(前1100〜前256年)は、姫発武王・在位 前1122〜前1116)が商を滅ぼしたことから中原国家として始まります。都を鎬京(後の長安や、今の西安付近)に置き、中原と称される黄河の中流域を支配しました。周は、一族や有力な豪族に土地を与え、諸侯国を作り支配させました。諸侯の下には、卿・大夫・士という位に別れた家臣がいます。そして諸侯は、周王に貢納と軍役の義務を負い、また家臣達は諸侯に同様の義務を負っていました。

 それでは、ちょっと建国直後の頃の話をしましょう。この時代を元に描かれた中国の小説で、少し前、日本では漫画にもなったことのある封神演義の後の話なので、興味がある人も多いはず。

○その後の太公望

 太公望はこの時、今の山東省あたりにあるという国に封じられました。
 彼は、現地の風俗を重んじ、また商工業を盛んにし、名産である海産物の取引を盛んにし、大きく利益を上げて斉を豊かにしました。ちなみに太公望といえば、こんなメッセージも残しています。

 1.姫発に「商を滅ぼした後、商の人民はどうすればよいか」と尋ねられたとき
   太公望の答え:皆殺しにすればよいでしょう(出典:「説苑」)
  *太公望としては、多くの羌族が商によって殺されている恨みもあるでしょうし、
   実際、この後反乱が起きていますから、ある意味でこの読みは正確でもあったといえます。

 2.姫発に「商が周に滅ぼされたように、周が諸侯に滅ぼされないように、どうすればよいか」と尋ねられたとき
   太公望の答え:民に楽しみだけ与えて、家財を貧しくさせ、族党を少数にすることです(出典:「淮南子」)。
  *ローマ帝国のパンとサーカスみたいですね。

 3.太公望が、斉の地で、自分に従わない賢者2人を殺したことを、周公旦(姫発の弟)に理由を訊かれたとき
   太公望の答え:賢者だろうが、法に従わない者は君主にとって無用である(出典:「韓非子」)

 いやあ、彼の考え方・施策というのは、恐ろしいほど現実主義だったんですねえ。

○周の危機と安定

 周を建国した武王=姫発は、建国後2年ほどで死亡します。息子の成王が即位しますが、これはまだ幼少の身。建国直後の周という新興国家を支えられるはずがありません。

 そこで、武王の弟である姫旦、通称「周公旦」という人物が後ろ盾となって政治を行い、周公という名前から見るに、どうも一時的に中継ぎの王となったようです(周公旦が、「周」なのは、彼が周発祥の地を領土としたからですが、「候」ではなく、「公」と呼ぶのはおかしいのです)。

 ところが、武王には15人の兄弟がいました。その他、一族で領主になった者は40人もいたとか(「春秋左伝」による)。当然、なんで周公旦が周の中心にいるんだ!と不満を持つ人が出てきます。一方、周公旦としても、一族争いで周を滅亡させるわけにはいきません。当然、他の兄弟に対し、強い態度ででます。

 一方、周に滅ぼされた紂王の息子・禄父は、周によって殷の地で保護されて健在でしたが、保護されたといっても恨みが消えるわけではありません。そこで、お目付役としていた三監の姫鮮(管叔鮮)=(きせん/かんしゅくせん)姫度(蔡叔度)=(きど/さいしゅくど)姫處(霍叔)=(きしょ/かくしゅく)という周公旦と以前から反目していた兄弟と手を組み、反乱を起こしました(叔は年齢を表す言葉、管、蔡、霍は諸侯国の名前)。特に、姫鮮は周公旦の兄でしたから、面白くなかったようです。

 このとき、他の地域でも反乱があったようで、周にとって相当な危機だったようです。しかし、周公旦と成王の母・邑羌、それから殷を滅ぼすときに周に協力し、北方の燕という地域に封じられた召公爽(しょうこうせき)によって、この反乱は鎮圧されました。禄父と管叔鮮は処刑され、後は追放されます。

 なお、それでも周は、商(殷)を存続させます。ただし、場所と名前を変え、諸侯国の一つとして、という国が作られます。

 もちろん、商の王族が封じられ、商の民を移住させて支配させていました。当時は先祖の祭祀を非常に重要視。紂王の息子が反乱を起こしたとは言え、商の祭祀を周が保護したということは、周王の徳の大きさを示す宣伝となったのです。また、先にも述べたとおり、スキを付いて商を滅ぼしたようなものでしたから、当然、商そのものの体力は残っていたわけです。ですから、徹底的に滅ぼすなんて、不可能でもありました。

 ただし、先ほどの反乱を教訓に、商の人々は宋以外にも、様々なところに移住させられ、分散させられました。なお、この他にも中国古代、殆ど神話に近いような時代の国の子孫を見つけ出し(本当に子孫かは怪しいが)、やはり国を作ってあげています。

○周の滅亡と復興

 これ以後、周ではしばらく平和が続きます。しかし前8世紀頃より、周王と諸侯の間で溝が生じてきます。何故ならば、特に周王とその一族の諸侯の間の血のつながりが、長い年月の間にほとんどなくなってしまったことがあります(同族同士の結婚は禁じられていた)。そして、諸侯の中には周王よりも大きな力を持つものも現れました。

 また、北方の遊牧民族の侵入も始まり、周は都を攻略され、東の洛邑(後の洛陽)に遷都しました(前770年)。これを境に、それ以前を西周、以後を東周と歴史学ではわけます。と、いうのも東周では王権が著しく衰退し、事実上諸侯による群雄割拠となったからです。なお、この区分法には異論もあり、本によっては全然違う基準の区分で書かれているものもあります。まあ、西周だろうが東周だろうが、要は「周」ですので・・・・。

 なお、西周が滅亡したとき周の王であった幽王は、妃で絶世の美女である褒似(ほうじ 似には女へんがつく) を溺愛していました。溺愛のあまり、正妃・申后が産んだ皇太子宣臼を廃嫡し、褒似の産んだ子を皇太子にしたぐらいです。ところが、この妃は笑わない人。何とかして笑わせようと色々試みますが、それでも笑いません。

 ところがある時、 手違いで狼煙(のろし)が上がりました。 狼煙が上がると、諸侯達は「周の一大事。敵はどこだ!」と集合してくることになっており、 この光景を見た褒似は、初めて笑いました。それを見た幽王は、その後も狼煙を上げまくり、敵もいないのに諸侯を無駄に集めます。 褒似は笑いますが、諸侯にしてはたまったものではありません。やがて、この狼煙を無視するようになりました。

 そのうちに、犬戎という部族を中心とする異民族が攻めてきます。実は、これは褒似によって皇太子の座を奪われた正妃の実家、申一族の策謀だと言います。廃嫡された皇太子宣臼は、申一族が保護していたのですが、幽王はこれの引き渡しを要求します。引き渡せば、殺される可能性が大です。それならば・・・というわけで反乱を起こしました。

 当然、狼煙は上がりますが、「なんだ、また王が馬鹿をやっているよ」と諸侯は思い、誰も駆けつけてきません。こうして、都は攻略され、西周は滅亡しました・・・というお話です。「オオカミが来たぞ〜」な世界ですね。

 ちなみに、このお話を見るだけでは褒似は、悪女そのものです。しかし、彼女が幽王の寵妃になったのは、褒の国が周に負けたときに、献上品として差し出されたと言うことです。彼女が笑わなかったのは、今までの生活を全て壊され、親や恋人とも別れさせられたであろうとも思われます。まあ、この辺のお話自体も、果たしてどこまで本当か・・・ってところですが。

 え?なんで、褒の国と周は戦争をしたんですかって?まず、褒の国というのは周の本拠地のすぐ近くにあったそうです。で、この褒の国の家臣が、やりたい放題で放漫な政治を行う幽王を諫めたところ、逆に恨まれ、攻め込まれたそうです。どうも幽王は暴君だったらしく、褒似がいてもいなくても、周は滅んだことでしょうね。


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