中国史(第3回 漢の時代)

○項羽と劉邦

 こうして劉邦は兵力を整えると出陣し、秦の地を守っていた章邯らを倒します。
 急激に勢力を拡大し、項羽を脅かすにいたりますが・・・しかし、さすがに項羽は強い。別働隊を率いる韓信が戦果を上げていましたが、劉邦自身は各地で敗北していきました。しかし、最終的には劉邦は項羽を倒すことに成功するのです。それはいったい何故か。やはり、項羽と劉邦の人物性の違いにあるでしょう。

 まず。劉邦は、どういう人物だったのでしょうか。
 彼は、沛という町のごろつきでした。農家の出身で3男。言葉遣いが悪く、好色で、よく大言壮語を言う人物でした。しかし、何か彼には人を引きつける魅力があったのでしょう。彼には仲間も多く、沛の町の人々が決起したとき、役人であった蕭何(しょうか)や曹参らが中心となり、劉邦を頭目にすることにしました。そして、韓の国の貴族・張良(軍師として活躍)、将軍として大活躍をする周勃韓信、張良と並び策略に長けた陳平などが加わります。そして、劉邦は蕭何達を信頼し、徹底的に軍の運営を任せます。彼のもっとも長けた能力というのが、人材を適材適所におき、信頼して任せるということです。このようなところには、人材がよく集まるもののです。

 一方の項羽。彼は秦に滅ぼされた楚の名将軍、項燕の子孫でした。家柄の点で劉邦とは大きく異なります。そして、彼は武道に長け、項羽が来たというだけで敵を震え上がらせる人物でした。また、親戚や直属の部下をよく愛し、部下からの信頼もあつかったのです。しかし、彼は自分が一番だと才能に溺れることが多かったようです。そのため、恩賞を惜しみ、また軍師の范増や、その他の人達からの献策を受け入れないことが非常に多く、恩賞が欲しい人々や、知恵で勝負!という人達は、彼から心が離れてゆきます。 頑張っても報われませんからね。

 これが、2人の運命を決定的に変えたものだったでしょう。
 負けながらも少しずつ項羽軍の弱体化を図っていた、張良ら劉邦軍の首脳部と、後方で補給を確実に行っていた蕭何。そして、項羽の軍師・范増が亡くなったこともあり、スキが生じた項羽の軍勢へ一気に攻勢を強めます。

 そして、自分の城の周りを包囲している漢の軍から故郷の楚の歌が流れる「四面楚歌」でおなじみ、垓下の戦いで項羽は戦死し、劉邦は「」を建国。都を長安に定めます。「漢」は一地方の名前でしたが、これにより「漢民族」という名に表されるように、中国を代表する呼び名となりました。一方「秦」も英語のチャイナなど、外国において中国を表すようになります。

○漢の政治

 劉邦(死後に高祖とよばれる。)は、秦が滅亡したのは、人々が体験したことのない郡県制を強行したからだと考えました。そのため一族・功臣を各地に封じ、従来通りの諸侯王国を作らせる一方、都の長安周辺など重要地域には郡県制をひく、郡国制を実施しました。

 この諸侯王のうち、功臣が封じられた王は、劉邦自身によって討伐され、劉氏一族の人々と交代させられます。韓信も例外でなく、討伐されたのですが(最終的には劉邦の正妻、呂后が劉邦のいないときに勝手に処刑する)、さすがにこの時には劉邦も、何かやり切れないものを感じたようです。しかし、いわゆる猛将と言われる人々は危険であり、さらに劉邦の蜂起当初からいたわけでなく、途中から恩賞を求め参加した者が大半でしたから、誅殺される運命にありました。

 また、政治の最高職である丞相になった蕭何は、疲弊した国力を回復させるべく、匈奴には金などを贈ることで和を乞い(一度、劉邦自ら攻め込んで大敗北を喫している)、また始皇帝のような大工事を一切やめました。これにより、民衆の生活を安定させ、戦乱により激減した人口の回復をはかったのです。

 さて、劉邦の死後、正妻の呂后が産んだ恵帝(位 前195〜188年)が即位しますが、気の弱い彼は母の言いなりで、呂后によって独裁政治が行われます。彼女は一族を高位につけ、呂氏政権のようなものを作り上げました。若くして恵帝が死ぬと、彼に子がいなかったにもかかわらず、偽の子をでっち上げて引き続き彼女が親政しました。これに対し、陳平周勃といった漢の功臣達はなりを潜め、彼女の死を待ちました。

 また、張良はすでに死去していましたが、蕭何は「悪徳親父」を装うことで、呂后の注意を逸らしました(そしてそのまま死去)。そして、彼女が死ぬと、陳平達は呂氏の人々をことごとく殺し、劉氏の政権に戻しました。才があり、恐ろしいのは呂后一人だったのです。劉邦の4男で代王の劉恒(りゅうこう)が迎えられ、文帝と呼ばれる名君(位 前180〜前157年)となりました。

 ところで、民衆はといいますと、実はこの時代、大きな戦争もなく安穏に暮らしてました。血なまぐさい争いは、宮廷の中だけだったのです。

 前2世紀頃になると漢の体制が次第に固まってきました。そこで中央政府は、中央集権化を押しし進めるべく、諸侯王の権限や領地を大幅にカットします。これに対し、「せっかく今まで開発してきた土地を奪われてたまるか!」と、呉王劉嚊(劉邦の兄の子供)を中心に反乱が起きます。これを、呉楚七国の乱といいます。

 この乱は呂后の時と違い、かなり広範囲で火の手が上がりましたが、あっさりと鎮圧されます。民衆の支持が全く得られなかったのが、その原因といえるでしょう。そして、これにより漢は、実質的に郡県制へ移行します。 



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