世界各地域史・中国の歴史
第4回 後漢〜復活した漢だが
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○後漢の時代〜・・反省無し? |
と、ここで疑問が出てくるのは、なぜ甘英はローマまで行かなかったのか、ということですね。
それは、シリアで「ローマまでまだあと4、5年はかかるよ」と脅されホームシックにかかったからです。とんでもない。シリアまで行けば、ローマまでそう長くはありません。しかし、シリアから見ればシルクロードの中継貿易で設けているのに、ローマと漢が直接交易を始めたら、中間マージンが消えてしまいます。そこで、甘英を脅したというのです。ローマと中国が直接交易を行っていたら、歴史はどうなっていたのでしょうか!
また、2世紀中頃にはローマ帝国の皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌス(中国の文献では大秦国王安敦と表記)の使いと名乗るものが、海路でヴェトナム中部におかれていた日南郡に来ます。さらに、古代日本からも、奴国という国(クニ)が、洛陽まで赴き、光武帝より金印を授けられています。これが有名な、「漢委奴国王印」という金印です。
余談ですが、先に述べたとおり匈奴の一部は西へ西へと移動します。これが一説によるとフン族の大移動というもので、フン族(匈奴?)はヨーロッパにたどり着きます。そして、ゲルマン民族を追い出し、追い出されたゲルマン民族は、既に衰退著しかった西ローマ帝国に流入し、帝国を滅ぼしたといわれます。古代から世界はつながっているものですね。
その他、南方に対しては前40年にヴェトナムで漢の暴政に対して起こったチュン(徴)姉妹の反乱を将軍の馬援を派遣し鎮圧しています。チュン姉妹とはハノイ西方の土着首長の娘、徴側(チュンチャク)と徴弐(チュンニー)の姉妹です。前43年に処刑されています。
さて、強勢を誇った後漢でしたが、幼帝が続いたことで、それを取り巻く宦官と外戚が争い、また儒教の教養をつけた官僚や学者が弾圧され(党錮の禁)、地方では豪族が勢力を張り、農民の反乱が起き、大きく衰退し滅亡に向かいます。前漢の滅亡の原因を全然反省していなかったわけです。
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○漢代の社会と文化 |
ちなみに、宦官というと皆悪人のように思われますが、蔡倫のようにすぐれた人物もいました。むしろ、すぐれた人物がいたために皇帝が宦官を重用し、その中から皇帝を操ろうとする人々がでてくることもあります。