中国史(第9回 女性皇帝も出た唐の時代)

○安史の乱


 なかなか頑張って政治を行った玄宗でしたが、30年も皇帝やっていると疲れたようです。玄宗最大の失策は、息子・寿王の妃の一人を盲目的に愛し、政治をおろそかにしたこと。この愛された女性こそ、楊貴妃です。写真は、彼女の像。西安の華清池と言うところにあって、玄宗皇帝や楊貴妃の使ったお風呂の跡です(撮影:七ノ瀬悠紀)。

 楊貴妃は、傾国の美女とか世界3大悪女の1人などと呼ばれ、有名ですね。結婚(?)当時、玄宗61歳、楊貴妃26歳と、随分危険なラヴロマンスなのは事実ですが、実際の所、楊貴妃は玄宗にただ愛されるだけの女性で、悪女と呼ばれるほど、別に悪くもありません。

 悪いのは玄宗で、彼女の機嫌を取ろうと役に立たない彼女の親類をどんどん取り立ててしまいます(本来は楊貴妃が、断るべきだったのかもしれないですけどね)。 さて、この話は少しおいておきます。

 そんなこんなやっている間に、3つの節度使を兼任し、力をつけた玄宗のお気に入りのソグド人安禄山(あんろくざん ?〜757年)が、政敵で楊貴妃の一族である楊国忠(ようこくちゅう)が宰相となったことを不服とし、755年に反乱をおこしたのです。彼は、15万の騎兵を率いてたちまち洛陽を落とし、翌年には大燕皇帝を自称します。

 当然、唐も防戦にでます。高仙芝が事実上の司令官だったのですが、可哀想に、軍人の監視役である監軍という地位にあった、辺令誠によって、”敵前逃亡”などと、あらぬ容疑を皇帝に上奏され、処刑されてしまったのです。何考えているんでしょうかね、この辺令誠とやらは。これは大失策で(であるから、のちに辺令誠も処刑)、他に戦争のエキスパートはおらず、安録山の軍勢が長安に迫ってきます。

 こうなるともう防戦は不可能です。玄宗は蜀(四川)に逃れ、楊国忠は、「こんな事になったのは、宰相のせいだ」と兵士達に殺害されます。そして楊貴妃も同罪とされ、兵士達に死を要求され、玄宗は仕方なくお気に入りの宦官・高力士に殺害させました。

 さて、長安を占領した安録山でしたが、不幸にも病を得て失明し凶暴化します。そのため息子の安慶緒に殺されますが、彼は皇帝の座についてすぐ、唐の反抗によって逃走し、反乱は配下の史思明(ししめい)が引き継ぎます。安禄山も史思明も、大したことのない人物でしたが、唐はウイグル族の力をかりてようやく鎮圧しました。また、史思明は息子の史朝義に殺され、そして彼は部下に殺されました。この一連の反乱が終結したのは763年。安史の乱と総称します。

 この乱を境として、力をもった節度使が各地に分立する状態となり、対外的な力をうしなった唐は、周辺民族への支配もおよばなくなり、各民族は積極的に活動しはじめます。 また、節度使に民政部分まで権限を与え機嫌をとったつもりが、さらに唐の命令に従わないほど強大になります(これを、藩鎮といいます)。

〇失意のうちになくなった人達

 ところで、玄宗皇帝はどうなったのでしょうか。
 流石に責任をとらされたようで、玄宗は皇太子(粛宗)に位をゆずって上皇となり、757年に奪還された、長安へ帰還することが出来ました。しかし、粛宗と仲が悪くなって幽閉同然となり、お気に入りの宦官・高力士は追放させられ、失意のうちに病死したのでした。78歳でした。

 時を同じくして、失意のうちに病死した人物はもう2人います。
 1人は、なんと息子の粛宗。それからもう1人は、宦官の高力士です。

 粛宗の方を先に見ましょうか。彼は、皇帝として実権を握ると父親を幽閉するほど「俺に任せとけ!」と意気揚々としていたのですが、いざ仕事を始めて見ると、妻の張皇后李輔国という宦官が権力争いをして思い道理になりません。実は、父親である玄宗と仲が悪くなったのは李輔国の策略だったりします。そんなわけで、すっかりやる気を無くして、玄宗が亡くなって13日後に、あとを追うようにして粛宗も亡くなってしまいました。

 もう1人の高力士。
 絶大な権力を得て、雑用係だった宦官の地位を向上させたために唐に悪影響を与えた人物なのですが、この人物は玄宗にいつもベッタリ。ただし、頭も良かったようで、そこそこの分をわきまえ、悪逆非道なんて事はしませんでした。年齢が殆ど同じだったこともあり、お互いの信頼関係も厚かったようなのですが、それが災いして、玄宗皇帝が権力を失うと、彼は部下である宦官・李輔国に追放されてしまいました。

 それから2年が経過し、ようやく玄宗の下に復帰できることになり、意気揚々と長安に戻ろうとしたところで、玄宗が亡くなったことを知らされます。知らせを聞くと、もはや生きる気力を失ったのでしょう。中国のお馴染みの表現になりますが、血を吐いて亡くなったそうです。

 ちなみにこの頃、張皇后は息子の李豫(代宗)に李輔国ら宦官一派を誅殺するように命じたのですが、どうもこの家系の遺伝なのか、代宗も優柔不断で、ためらっていたところ、李輔国は先手を打って張皇后を殺害。その李輔国は、代宗が別の宦官である程元振に誅殺を命じたことから、殺害されることになります。もっともこの程元振は、李輔国に輪をかけて皇帝など何とも思っておらず、絶大な権力を握り、ますます代宗の力が弱まってしまいました。

 なんだか、みんな可哀想ですね。
 

〇一度は盛り返すも、滅亡の道へ

 安史の乱によって支配体制に大きな打撃をうけた唐は780年、宰相の楊炎による提案で、両税法を採用します。これは、戦乱により均田制・租庸調制が崩壊たことによる逼迫(ひっぱく)した財政をたてなおしを狙ったもので、政府が必要な額を、財産に応じて、年2回に単純化して徴収する制度です。重要なのは税額が銭で示されていたことで、これによって貨幣経済が農村にまで浸透するようになりました。

 また、安史の乱の時より採用された塩の専売制が効果を上げ、憲宗位 805〜820年)の頃に財政は好転します(言い換えれば塩はそれほど生活に必需品と言うことです)。そして、憲宗は自分の直属軍である近衛兵団を率いて、命令に従わない藩鎮勢力の大部分を抑えます。
 ところが、彼は宦官に殺され、唐は宦官の専横(せんおう)を許します。さらに、科挙出身の勢力と貴族出身の勢力が派閥争いを繰り広げます(これを牛李の党争といいます。派閥のリーダーが、それぞれ牛僧孺李徳祐という名前だったから)。また財政も再び悪化し、唐は庶民に重税をかけます。このため、875年に山東省で王仙芝が、そして翌年それに呼応して黄巣が反乱を起こします。2人とも塩の密売商人(塩族)で、多数の窮民がこの反乱に参加します。先に述べましたが、当時塩は唐が専売していて値段が高く、人々は困っていました。
 
 878年に王仙芝が戦死しますが、黄巣が跡を継いで、洛陽、長安を落とし唐は再び蜀に逃れます。
 そのため、異民族であるテュルク族出身の李克用(のち、後唐の太祖)に応援を求め、黄巣を自殺に追い込み、反乱を鎮圧しました。しかし、これで唐はほぼ政権担当能力を失い、朱全忠(852〜912年)という、元黄巣の部下(黄巣を裏切り、節度使に任命されていた)が哀帝から帝位をを奪い、後梁を建国しました。907年のことです。

 安録山の乱発生からから150年ぐらい経過しているわけで、そう考えると駄目だダメだとなりつつ、結構長持ちしたものです。

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