世界各地域史・中国の歴史
第11回 五代十国から宋へ
|
○発想自体は良かったのだが |
しかし、今度は新法派の呂恵卿に妨害され(王安石復帰によって、自分のポスト・既得権を失いたくないから)、嫌気がさした王安石は中央を去りました。その後、司馬光を中心とした旧法派と新法派はお互いに政権争いをはじめ、それぞれが権力を握った瞬間に法律を改正し、前任者の施策を破棄し、また左遷が行われます。もはや、そこには理念無く、いたずらに人々に混乱を与えるものでした。
ところで、司馬光は戦国時代から五代十国までの歴史を編年体でつづった大作である『資治通鑑』の作者として有名です(日本でもよく読まれました)。色々な国家興隆、衰亡の事例を研究しているはずの司馬光が、なぜ新法に反対したのでしょうか。それは彼が、身分制の思想の持ち主だったからです。だから、金持ちは金持ち、貧乏人は貧乏人、それなのに、政府が貧乏人を救い、金持ちを苦しめるとは何事か!と怒ったわけです。
その考え方は、『資治通鑑』にも表れており、後漢の光武帝が戦乱によって奴隷になった人を救おうと、奴隷解放詔書を出したという重要な政策を彼は記述していません(『後漢書』ではしっかりと記述されています。なお、その他のことについては、『後漢書』より『資治通鑑』の法が10倍ほど詳しいそうです)。
ただし、王安石と司馬光は友人で、尊敬しあっておりよく政治の意見を文通しています。司馬光の攻撃対象は、王安石というよりも呂恵卿らにあったようです。さらに、詩人として大変有名な旧法派の蘇軾は左遷時に隠居中の王安石に会い、大変感銘を受けています。おかげで、蘇軾は旧法派の中で立場が悪くなったようですね。
ちなみに、王安石の施策も問題がありました。一つは、性急に事を進めすぎたことです。
そして、もう一つは、農民や中小商人がお金を借りようとしても、手続きが非常に複雑で役に立たなかったことです。