中国史(第11回 五代十国から宋へ)

○発想自体は良かったのだが

 そこで1069年、神宗(位1067〜85年)は、すぐれた地方官として有名だった王安石を、政治の最高職である宰相に登用します。王安石は、
 ・青苗法(農民に低利で金銭・種子を貸し付け、零細化を防ぐ)
 ・募役法(政府が形勢戸に仕事させるとき、それまで無報酬だったが、これに官僚がお金を払うことにした。これにより、農民が形勢戸になろうと頑張るようにする)
 ・方田均税法(土地の調査を行い、大都市所有者の隠田を摘発し、税収の増加を目指す)
 ・保甲法(農民に農閑期に軍事訓練をする。軍事力強化を目指す)
 ・均輸法(各地の特産物を買い上げ、不足地に転売)
 ・市易法(大商人による市場の独占を防ぐため、中小商人へ低利で金銭を貸し付けをする)
 といった施策を次々に打ち出し、そして実行してゆきます。
 この一連の施策を新法といい、支持するグループを新法派といいます。

 ところが、これに対する抵抗勢力(いわゆる旧法派)がでてきます。それは、司馬光を中心とした官僚、それから大商人達です。官僚は、前述したとおり荘園の経営や高利貸しをしています。彼らは、自分たちの既得権益を奪われることに反対し、神宗に押し掛け、王安石を失脚させました。しかし、それでは財政が好転するはずもなく、旧法派も対案を出さない。そのため神宗は、しばらく年月が経った後に王安石を復帰させます。
 しかし、今度は新法派の呂恵卿に妨害され(王安石復帰によって、自分のポスト・既得権を失いたくないから)、嫌気がさした王安石は中央を去りました。その後、司馬光を中心とした旧法派と新法派はお互いに政権争いをはじめ、それぞれが権力を握った瞬間に法律を改正し、前任者の施策を破棄し、また左遷が行われます。もはや、そこには理念無く、いたずらに人々に混乱を与えるものでした。

 ところで、司馬光は戦国時代から五代十国までの歴史を編年体でつづった大作である『資治通鑑』の作者として有名です(日本でもよく読まれました)。色々な国家興隆、衰亡の事例を研究しているはずの司馬光が、なぜ新法に反対したのでしょうか。それは彼が、身分制の思想の持ち主だったからです。だから、金持ちは金持ち、貧乏人は貧乏人、それなのに、政府が貧乏人を救い、金持ちを苦しめるとは何事か!と怒ったわけです。

 その考え方は、『資治通鑑』にも表れており、後漢の光武帝が戦乱によって奴隷になった人を救おうと、奴隷解放詔書を出したという重要な政策を彼は記述していません(『後漢書』ではしっかりと記述されています。なお、その他のことについては、『後漢書』より『資治通鑑』の法が10倍ほど詳しいそうです)。
 ただし、王安石と司馬光は友人で、尊敬しあっておりよく政治の意見を文通しています。司馬光の攻撃対象は、王安石というよりも呂恵卿らにあったようです。さらに、詩人として大変有名な旧法派の蘇軾は左遷時に隠居中の王安石に会い、大変感銘を受けています。おかげで、蘇軾は旧法派の中で立場が悪くなったようですね。

 ちなみに、王安石の施策も問題がありました。一つは、性急に事を進めすぎたことです。
 そして、もう一つは、農民や中小商人がお金を借りようとしても、手続きが非常に複雑で役に立たなかったことです。

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