第25回 名君の時代3〜乾隆帝〜

○今回の年表

1735年 乾隆帝、即位。
1740年 神聖ローマ帝国でマリア=テレジア、プロイセンでフリードリヒ2世が即位。
オーストリア継承戦争勃発(〜48年)。
1753年 (イギリス)大英博物館が創立される。
1757年 外国貿易を広州に限る。
1757年 ジュンガル部を平定し併合。
1757年 (インド)プラッシーの戦いで、イギリスがインドでの勢力を確立。
1765年 ビルマが雲南に侵攻。69年に講和。
1672年 (日本)田沼意次が老中に就任。
1773〜82年 「四庫全書」が編纂される。
1776年 アメリカ独立宣言。
1784年 アメリカ船が広東に来航。
1789年 ワシントンが初代アメリカ大統領に就任。フランスではフランス革命が起こる。
1793年 (フランス)国王ルイ16世が処刑される。
1795年 乾隆帝、没する。

○60年も政治をするって大変なこと

 雍正帝の次に即位した皇帝は、彼の第四子である乾隆帝愛新覚羅弘暦 位1735〜1795年)です。ご覧の通り、なんと60年も皇帝を務め、さらに彼は1711年生まれで1799年没。相当な長寿です。在位60年で皇帝の座を引退したのは、祖父康煕帝の在位61年を超えたくない、と言うことでしたが、結局の所、最後まで大きな権力を握りました。

 さて、乾隆帝の即位時には清の国力が最大に達し、国庫が潤っていました。
 そこで、彼は対外遠征に力を入れることになります。すなわち、西モンゴルのジュンガル部、台湾、ヴェトナムと言った地域に侵攻し勝利。さらに、チベットを支配下に置きました。台湾では1756年に秘密結社「天地会」による「反清復明」を掲げた反乱が発生し鎮圧に手を焼くものの、基本的に遠征は大勝利で、彼は「十全老人」と称しました。彼の10回の遠征に全て勝った、ということです。

 ちなみに、ジュンガル部の「部」ってなんだ、と言うことですが、部族と地域を足して2で割ったような雰囲気として認識してください。そしてモンゴル部族は東モンゴルの方は清と仲がよいのですが、西側はとは仲が悪く、さらにモンゴルのお決まりとして、時として強力なリーダーシップを発揮する人物が大軍団を造り上げます。康煕帝・乾隆帝の時はガルダン・ハンという人物が中心で、清に抵抗します。もっとも、ガルダン・ハンは清に敗北し、本拠で再起を図ろうとしたところ甥のツェワン・アラプタンに支配権を奪われていたため、自殺しました。

 それでもジュンガル部は強力だったのですが、乾隆帝の時代になって内紛が発生。そこで、乾隆帝は遠征軍を派遣し、大勝利を収めた、というわけです。同時に、二度と抵抗されないようにだいぶ虐殺も行ったようです。それだけ今までジュンガル部には苦しめられた、と言うことですね。

 それから先ほど登場した秘密結社「天地会」。秘密結社と聞くと何だか不思議な雰囲気ですが、実際にその内容は未だに謎。メンバーは自分たちの組織について書き残しませんので、その実態については清が捕虜から得た数少ない情報しか記録に残っていません。その数少ない情報も、果たして捕虜が本当に正しいことを言ったのか、よく解らないわけです。今我々が目にする歴史というのは、こういった裏の組織(?)についてはなかなか解らないし、政府に都合の良い記録が優先的に残っていくんだなあと、そう思い知らされます。

 ちなみにこの反乱、鎮圧に手を焼いたと書きましたが、何と満州族による軍団がボロ負けし、漢民族で構成された軍団に任せる羽目になってしまいました。かつての強さはどこへやら、すっかりこの頃になると満州族の軍勢もダメになっていた、ということです。乾隆帝の時代は清の最盛期であり、さらに衰退期へ向かいはじめる時期でもあったわけです。ちなみに、この反乱を鎮圧した柴大紀という漢民族の将軍は、満州族の官僚の讒言(簡単に言えば誹謗中傷)によって死刑にされています。可哀想に。

○やはり言論には厳しい

 乾隆帝は、文化を大切にし1773〜1782年にかけて「四庫全書」という8万巻にわたる古今東西の名作と解説を付けたものを7部制作させました。この中には、日本の太宰春台、イタリア人マテオ・リッチ、ドイツ人のアダム・シャールなどの外国人の著作も集められています。まあ、リッチとシャールは中国に住んでいた人ですが。ただし、シャールは順治帝の時に官僚として出世したために妬まれ、順治帝の死後、投獄されて悲劇的な最期を迎えています。

 さて、7部制作させたのは、バックアップとして複数部用意したこと、さらに学者が研究できるように閲覧用もつくったからです。7部のうち豪華版4部は政府の保管で、それぞれ文淵閣(紫禁城内)、文溯閣(瀋陽故宮)、文津閣(熱河避暑山荘)、文源閣(円明園)に保管されました。民間向けは文瀾閣(杭州聖因寺)、文匯閣(揚州大観堂)、文淙閣(鎮江金山寺)で保管。

 さて、こんなに厳重にバックアップをとったわけですが、その後どうなったか。
 揚州&鎮江のものは、1853年の大平天国の乱で焼失。この時、杭州の物も半ば焼けましたが、こちらは復元。円明園のものは、1860年にイギリス・フランス連合軍が焼いてしまいました。

 後は残っています。
 ただし、紫禁城の物は日中戦争の時に日本軍が攻めてきた時に、中国側が移動。その後、国民党が台湾に持って行ったので台湾にあります。そして、避暑山荘の物は北京にうつされ、北京の図書館で現存。瀋陽の物は保管場所近辺が民家で密集したため、郊外に新しく書庫を造って保管、というわけです。8部作ってこれですから、過去に作られた書類は相当な数が地上から消えていることになりますね。

 と、そんな凄い書物なのですが、編集作業中に一字一句で「反清的だ」と因縁つけられて何人もの学者が命を落としました。本を作るのは命がけです・・・。

○潤沢だった予算

 ところで、最初に”乾隆帝の即位時には清の国力が最大に達し、国庫が潤っていました。”と書きました。

 なぜ、国庫が潤っていたのか。確かに清が成立した頃は予算不足ではあったのですが、1つには雍正帝が緊縮財政をとったことで、余剰がたくさんあったのです。そしてなにより、中国を支配した国家は絶えず周辺異民族に悩まされ、戦争をしていなくても多数の防衛の兵士を配置し、予算も巨額に登っていたのですが、清の場合、自分たちがその”異民族”の1つで、満州地方は安泰だったのです。この分だけ、予算は不要。この分だけと言っても、これはかなり大きいですよ。また、塩の専売による収入、さらに民間の活力が活発であることもあり、国家収入の4分の3を占める土地税の収入が好調だったこともあげられます。

 ちなみに、この頃になってついに貨幣経済が全国に浸透します。自給制が崩壊したこともあって農民も、日用品・生産器具を買うために、自分の農作物を市場で売却するようになったからです。また、取引が活発になると、他の地域の生産物よりも付加価値をつけた商品が登場することになり、こうして今も残る特産品が各地に誕生しています。

 そして、このように貨幣による取引が活発になると貨幣が不足します。貨幣の材料は銅。そこで、なんと”かつて銅銭の輸入国だった”日本から銅を輸入をするようになりました。この頃の日本は、全国有数の産銅国だったとか。時代は変わるもんですね。

 一方、中国商人達も外国に向けて物資を積極的に売却し、とりわけイギリスに茶を輸出します。
 これが、清と中国の不幸の始まりとなるのですが、そのお話は次回で。

○やはり政治には飽きる

 さて、清の最盛期を作った乾隆帝ですが、末期には政治に飽きたらしく、おべっかを使い私腹を肥やす(わしん ?〜1799年)という家臣を熱烈に信頼。この人物は、官兵の私物化、公金横領などやりたい放題。しかし、彼を批判しようとするのものなら、批判した人はただじゃ済みません。そんなわけで、乾隆帝の治世も末期になると乱れていきました。

 そして乾隆帝の時代は清の最盛期を作りだしましたが、同時に清の衰退への道も開いてしまいました。
 なお、この清の歴史上に残る、この汚職男は乾隆帝が死ぬと自殺させられています。こういう人物は、後ろ盾があるうちが華なんですね。乾隆帝の後を継いだ嘉慶帝愛新覚羅 位1796〜1820年)は、さっそく体制の引き締めからかかることになります。が、白蓮教徒が反乱を起こしたり、既に乾隆帝時代の末期ではチベットで動乱、苗族の反乱など、軍隊をあちこちに派遣しないといけない出来事が発生し、すっかり国庫は空っぽになりました。

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