第30回 洋務運動と日仏露との領土問題
おかげで、ちょっと支離滅裂になっている部分もありますが、また後ほど修正させて頂こうと思います。しかし、それほどこの一連の事件が後世に影響を与えた重要なものであると言うことです。 さて、大平天国の乱を鎮圧しほっと一息ついた清ですが、さすがにイギリスやフランスにやられまくったことがあり、外国を見習って改革をしていこうという動き、洋務運動が始まります。その中心となったのが、正規軍に代わって義勇軍を率いて活躍した漢人官僚の曾国藩(1811〜72年)と、やはり義勇軍を率いて活躍し、彼が推挙した李鴻章(1823〜1901年)&左宗棠(1812〜85年)、それから彼らを支援した道光帝の第6男、恭親王こと奕訴(えききん)です。 (*訴の字は少し違います) 特に軍事面を重要視し、曾国藩が中国初の近代兵器工場である安慶軍械所を設立し、さらに李鴻章が北洋艦隊(1888年)を、左宗棠が南洋艦隊とよばれる新式の海軍を結成しました。 また、軍事面以外でも産業や教育に力が入れられ、留学生のヨーロッパ派遣や、李鴻章が洋務企業を設立して商売をさせたり、民間の資本活動も活発にします。さらにこの時期は「流石にこれ以上痛めつけて、清が崩壊しては困る」ということで外圧も比較的少なく、久しぶりに安定期を迎えます。これを、皇帝である同治帝(愛新覚羅載淳 位1861〜74年)にちなみ「同治の中興」と呼ばれます。 しかしながら、この一連の改革は、あくまで「中体西用」、すなわち中華の体制を維持し、西洋の学問を用いるということで、抜本的な体制の改革は行われず、相変わらず官僚の腐敗、満州族の軍隊の弱体などの問題は解決されないという弱点をはらみます。また同治帝の生母として絶大な権力を握った西太后の保守的な思想も改革の邪魔となります。
そして、1871年に日本と清は日清修好条規を結びます。この条約、日本側としては欧米並みに、清に対して優越的立場の条約を結ぼうとしたのですが結果として、治外法権と、協定関税率を互いに承認しあう、やや変則的な対等条約と言う形で結ぶことになります(批准は1873年)。 しかし1つ問題が。 この頃、日本は、琉球王国を琉球藩として完全に日本の政治システムの中に取り込もうとするんですね。 ところが、琉球王国は江戸時代以降、日本(薩摩藩)のみならず、清に対しても服属の意思をとり朝貢していましたから、清は日本政府の動きに抗議します。その頃、宮古島の島民54人が台湾に漂着して原住民(生蕃)に殺害されるという事件が発生。これに伴い、日本政府は国民が殺害された、ということで西郷従道(西郷隆盛の弟)に軍隊を与えて台湾に出兵します(台湾事件)。 これは、清が「琉球は日本のものではない。しかし、台湾の原住民は化外の民であるから清とは何の関わりもない」としてしまったからです。そしてこの問題は、イギリスの仲介によって何とか事なきを得ますが、日本は引き続き琉球藩を沖縄県として併合しました(1879年 琉球処分)。もちろん、清は引き続き抗議しますし、琉球側でも清の助けで日本に対抗しようとしますが、肝心の清は、この時はまだ海軍力が不足していて、琉球に派遣する余裕がありませんでした。そのため、李鴻章は海軍力の強化を訴えていきます。 また、琉球との関係だけではありません。 1875年、清にとって、やはり朝貢国であった朝鮮に対しても日本は不平等条約である日朝修好条規を結び、開国させました。このように、日本に対する対策も欠かせなくなってきたのです。
丁汝昌を提督とするこの艦隊は、1891(日本では明治24)年に神戸に到着し、そして横浜まで進みます。歓迎のレセプションが開かれつつ、特に旗艦の定遠(7400トン)という圧倒的迫力の軍艦を見た日本人は、ビックリ仰天。それで日本が清に平伏すれば、清にとっては目的達成だったでしょうが、逆にこの北洋艦隊を倒すべく、日本は準備を始めることになります。
そうそう、ロシアとの緊張関係述べないといけません。中国東北部に関しては1858年に、愛琿条約が結ばれて清の領土縮小で国境が再確定したのですが、中央アジアの方はさらにロシアが狙いを付けていました。 1864年、中国西部の新疆でイスラム教徒による反乱が起こります。「しめた!」と、これを契機にロシア帝国が侵入し、イリ地方を占拠します。理由は、反乱がロシアに及ぶことを防ぐためということです。そこで、左宗棠が派遣され、反乱を鎮圧し新疆を確保します。 さあ、反乱は終わりました、イリ地方を返してください。 「やなこった」 と、ロシアは返しません。事態を打開すべく、崇厚という人物が交渉に派遣されたのですが、なんと「○日までに帰還しないと、死ぬ」という占いを信じて、早く帰還するべくロシアの言い分を全部聞いて、イリから西・南という広大な範囲をロシアに割譲、さらにロシア駐留軍に500万ルーブルを支払うという、とんでもない条約を結んできました(リヴァディア条約)。これ、ロシア側も流石に驚いたんじゃないですかね? もちろん、清の政府がそれを認めるわけがありません。崇厚はクビになり死刑を宣告され(のちに赦免)、左宗棠は武力でロシアと戦おうと考え出発、ロシア側も応戦の構えをみせ、一発触発の状況となります。これに驚いたのは李鴻章で、左宗棠を呼び戻し、駐英公使の曾紀沢をロシアに派遣し、イリ条約(正式名:サンクトペテルブルク条約)を結びました。すなわち、イリの東部を清に返還し、そのかわりロシア駐留軍に900万ルーブル支払うというものでした。 何故、最初の条約を撤廃し、イリ条約が結べたかというと、ロシアでアナーキスト(無政府主義者)による動きが活発になっていたため、軍が動かしづらかったという理由があります。実際、翌年にロシア皇帝アレクサンドル2世は暗殺されてしまいました。 また、先ほどの台湾もそうですが、「きちんと清の領土であることを明確にしておかねばならない」として、台湾省、新疆省が設置され、ここにようやく清の政治システムの中に組み込まれていきます。
この時期、清の朝貢国であった阮朝ヴェトナム、さらにカンボジアにフランスが進出します。インドを植民地にしていたイギリスに対して、そこからイギリスに負けて締め出されたフランスはアジアに足かがりがなかったからです。*阮=グエン 阮朝ヴェトナムは中国の朝貢国でしたので、北洋大臣の李鴻章による抗議と外交交渉が行われ、また、琉球と同じように阮朝も清に朝貢をすることで、フランスから守ろうとしました。しかし軍事衝突が起き、フランスはハノイを占領します。さらに、フエにあったヴェトナム政府の宮殿も攻撃し、ここに「清の宗主権を否定する」という条約をヴェトナム政府は認めさせられました(フエ条約)。 激怒した清政府ですが、フランスとの戦いに敗北し、結局、撤兵の協定(李・フルニエ協定)を結ぶことになりました。 ところがその撤兵の取り決めが不明確だった! そのため1884年、この撤兵を巡って戦争が勃発(これを狭い意味で清仏戦争、中国では中法戦争と言います)。何とフランスは、清の南洋艦隊(福建艦隊)を全滅させ、台湾にも攻撃。一方で清もこれでなかなか頑張って、清&ヴェトナム国境のランソン付近でフランス軍を破るのですが、和平の方向に向かいます。 翌年、西太后は、主戦論者を押さえ条約を結び(これも天津条約と言います)、ここに完全にヴェトナムに対する清(中国)の宗主権が否定されることになります。そしてフランスは、この一帯にインドシナ連邦を作り、植民地としていくのです。また、清の朝貢国は今まで見たものに加えて、中央アジアのコーカンド・ハン国が1876年にロシアに、ビルマが1886年にイギリスに併合されています。 なお、この1885、左宗棠は亡くなりました。 反省マニアで、常に反省の記録を付けている曾国藩の親戚にして一歳年下、しかし性格は曾国藩と正反対で「自分は諸葛孔明である」と豪語したという、この辺もなかなか面白い人物でした。面白いと言えば、イスラム教徒の反乱を鎮圧に出かける際、左宗棠は、兵隊に兵糧を送る権限を持っている曾国藩に絶縁状をたたきつけるという、すさまじいことをやっています。もっとも、曾国藩は私事と公務は区別し、兵糧は送っていますけどね。 余談ですが、左宗棠は、林則徐とも一度だけ会ったことがあり、この時ばかりは相当緊張したそうです。 次のページ(第31回 日清戦争)へ 前のページ(第29回 第2次アヘン戦争であるアロー戦争)へ |