江戸幕府を改革せんとした人々第1回 徳川綱吉・新井白石

>○はじめに

 このシリーズは、江戸幕府を改革しようとした人たちについて特集します。
 いきなり結論から言いますと、以下に述べる人たちは誰も抜本的な改革に成功してはいません。一時的な延命策などが功を奏しただけで、根本的な問題を変えないまま幕末まで幕府を存続させたのです。もちろん、彼らがいなければ幕府はもっと早く滅亡してたのですが。  
 なぜ、誰も改革に成功できなかったのか。それは「封建社会」という枠組みと「抵抗勢力」につきます。特に「抵抗勢力」というのは、革新派にとっては「保守門閥派」が、また「保守門閥派」が改革をしようとすれば「大奥(将軍の御台所と、その取り巻き連中)」が立ちふさがりました。  そう、最終的に改革を阻害したのは「大奥」だったわけです。なぜかと言いますと、彼女たちは江戸城の一角で、外にでることもでず「引きこもり」とも言える生活を強制されました。それで、唯一の楽しみは潤沢にある予算で贅沢をすることでした。改革をしようとする人たちは、まずこの予算を削ろうとします。そこで抵抗が起こるのは無理はなく、しかも将軍に最も近い勢力ですので倒すことができなかったというわけです。あ、駄文はさておき先へ行くとしますかね。

1.徳川綱吉(1646〜1709)5代将軍

 綱吉といえば、生類哀れみの令や側用人柳沢吉保の重用などで評判の悪い将軍である。しかし、初期には天和の治と呼ばれる立派な改革を行い、後の徳川吉宗にも影響を与えている。

 その綱吉の改革の中心的役割を担ったのが堀田正俊
 彼は春日局の養子となったことで綱吉の兄、家綱の小姓となったことから出世の道がスタート。1681年には老中にまで上り詰めた。そして家綱死後に起こった将軍継嗣問題で、「鎌倉幕府の先例に従い、京都から有栖川宮幸仁親王をお迎えすればよい」と主張した大老・酒井忠清に対し、「綱吉殿がおるではないか」と主張。結局正俊が勝ち、忠清は綱吉に「おや、顔色がすぐれぬな。仕事はいいから、家で養生しなさい」と言われてクビになった。そして、正俊は下総古河9万石が与えられ、さらに大老となった。

 で、この2人がやったことは「綱紀粛正」であった。治政不良の大名は次々と処罰を受けた。御家騒動などもってのほか。また、代官の不正も許さなかった。一方で真面目な者達は表彰する。彼らは、いわゆる信賞必罰で政治に臨み、堕落が始まった幕府と大名をビシバシ取り締まったのだった。また、勘定吟味役という読んで字のごとくの幕府の役職も創設した。

 だが1684年に、いかなる理由からか堀田正俊が、甥の稲葉正休に殺されてしまう。一説には、政策をめぐって堀田正俊と綱吉が対立。次第に仲が悪くなり、正休が綱吉の命で殺したという。

 またもう一説には、淀川改修工事を巡るトラブルがあったらしい。正休のたてた改修計画の費用見積もり4万両に対し、正俊が独自に専門家の河村瑞賢に調査させたところ半分の費用ですむことが判明。これで面目を失った正休が正俊を殺したそうな・・・。

 そして、この頃から綱吉は政治に飽き、側用人柳沢吉保を重用し、寺社建立など趣味に浪費を重ね、マザコンのため、母上様(桂昌院)からの命令で生類哀れみの令を出し、勘定奉行荻原重秀に貨幣の改鋳をさせ、粗悪な金貨を作る代わりに貨幣の量を増やすなどを行った(この通貨政策は評価が二分)。 この綱吉の跡を継ぐのが、兄(綱豊)の子の家宣である。

 なお、柳沢吉保は綱吉の死とともに、権力の座にしがみつくことなく辞任。宮仕えから解放され、ようやく大好きな学問に浸る生活を始める。彼の息子は名君とうたわれたことから、もしかすると吉保もその素質はあったのではないかと推測する。だいたい、気性の激しい綱吉の側近は、ただのおべっか使いではつとまらなかった。

2.新井白石 (1657〜1725) 儒学者・6代将軍家宣側近

 白石は、6代将軍家宣に仕え、「正徳の治」を進めた人物である。

 元々白石は、上総国久留里(くるり)藩主土屋利直(としなお)の目付であった人物である。若い白石は、利発な才能から俊直に大変可愛がられたが、土屋家の御家騒動で主家が改易。続いて前述の堀田正俊に仕えたが、これも刺殺されるという不幸に見まわれ、浪人となった。

 1868年に儒学者・木下順庵の弟子となり、才能を認められ甲府藩主徳川綱豊の待講(じこう)となり、彼に儒学と歴史を教えることになる(19年間に1299日教えた。教える方もすごいが、聴く方もすごく情熱がある。)。さらに彼は家豊に、1万石以上の大名337家の歴史と、徳川家との関係を一目瞭然にわかるよう記した正編10巻と付録2巻からなる「藩翰譜(はんかんふ)」を大変な労力のもと著し献上。家豊は終生この本を離さなかった。この家豊が6代将軍家宣となったことから、彼も幕政に参画するのである。

 そんな彼とパートナーをくんで活躍したのが間部詮房(まなべあきふさ 1666〜1720)。元猿楽師で、綱豊も目に留まり出世の道を歩むことになる。綱豊(家宣)は、この2人を使って綱吉時代の悪弊を取り除こうとつとめたのだ。彼は将軍就任とともに生類哀れみの令を廃止。続いて、前の側用人・柳沢吉保らが権勢を得てやりたい放題だったのを改めるべく、側用人を廃止した。側用人とは、将軍と老中の間の連絡係で、連絡係にとどまればよかったのだが、次第に政治の中枢にまで入り込むようになってしまった。堀田正俊の刺殺事件以降、将軍の身を案じて創設された役職である。

 そんなわけで、一度は廃止された側用人制は、家宣が詮房を側用人に取り立てたことで復活する。それは、いわゆる幕府内の門閥勢力と対抗するために必要だったからだ。将軍周辺に権力がなければなにもできない。結局の所、詮房は柳沢吉保の二の舞は踏まぬべく、新井白石とともに、家宣と彼の子家継の2代にわたって改革を押し進めていくのであった。

 さて、白石は、儒教精神に基づく仁愛の政治を目指し、また正徳金銀を発行して貨幣の品質を家康時代の良質の慶長金銀にもどし、貿易額を制限する海舶互市(かいはくごし)新例を発令して金銀の国外流出をふせぐなど、大胆な経済政策をおこなった 後者はさておき、前者はいきなり通貨量を減らされたわけで、市場は混乱した。

 その他に武家諸法度の改訂や、将軍の代替わりごとにくる朝鮮通信使の接待を簡素化することで出費を抑えた。だが、そんな政策もほとんど効果がなく、さらに家宣の死後、「よそ者」ということで門閥勢力から反感を買い、家継死後に就任した吉宗により詮房共々失脚することになる。

 その後は著作活動に専念する。「折りたく柴の記」や宣教師シドッチの話をまとめた「西洋紀聞」はあまりに有名である。また、彼の友人で、彼の推挙によって幕府に入った室鳩巣は吉宗の信頼を得ている。吉宗も、白石の政策を受け継がねばならなかったことは事実である。もしかすると吉宗は、門閥勢力と妥協し将軍に就任するための条件として白石らの失脚を約束したのかもしれない。

 また、白石は極端な理想主義者でもあった。自分の信念を絶対に曲げず貫き通す。それはそれでいいのだが、かなり他人にも厳しく「鬼」と言われることもあったらしい。

 一方、間部詮房は高崎5万石の藩主にまで出世していたが、越後国村上に転封となる。その子孫の越前国・鯖江藩主間部詮勝(1804〜84)は幕末に老中となり、井伊直弼の下で安政の大獄を行った。


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