第4回 ペルシャ戦争とアテネの最盛期

○ミレトス反乱と第1次ペルシャ戦争


 さて、ギリシャの人々は各地域に植民活動をしていた事は前述の通りです。その中で、小アジアのイオニア地方ミレトスに植民した人達。彼らが、問題の種となります。
 元々この地域、アケメネス朝ペルシャという強大な国の縄張りでした。そのため、ギリシャ人達が活動しているのが許せません。ゆえに、この野郎とばかりに嫌がらせを行うのですね。そしたら、ここのギリシャ人だって「やりやがったな!」と怒る。前500年、我慢の限界というわけでイオニア地方ミレトスにおいて反乱が起きます。ギリシャ人はポリス同士ではよく争いますが、更にその外との問題になると手を組み、団結。アテネがこの反乱の支援を行います。

 結局のところこの反乱は敗北。前494年、ラデ島沖の戦いで反乱軍は大敗を喫します。それで、ペルシャが満足するはずがありません。反乱を支援したギリシアに対して報復攻撃を行います。時の皇帝にして名君の、ダレイオス1世(位前522〜前489年)はギリシャに向けて遠征を開始。総大将は彼の甥、マルドニオス。マケドニアなど東部ヨーロッパ征服をした人物です。

 これが、第1次ペルシャ戦争。もっとも、アトス岬沖で大しけに遭い、そのまま撤退ということに。もっともこの時はペルシャも力を入れていなかったから、まあ、こんなもんか、といった感じのようでした。

○第2次・第3次ペルシャ戦争

 しかし、前490年、今度は本格的に遠征を開始します。ところがこれはアテネの貴族ミルティアデス指揮する重装歩兵軍により、マラトンで大敗を喫します。勝敗を分けたのは武装の違い。アテネは長い槍と重武装。一方、ペルシャ軍側は遠征ということもあり短い槍、軽武装というもの。しかも地の利はアテネにあります。これでは話になりません。
 ちなみにこの時、「勝ったよ〜」と伝令が42kmを走り抜き、アテネにたどり着いたことがマラソンの名称と競技の由来という逸話がありますが、一般には史実ではないとされています。また、ペルシャは、支配下にあったエジプトがこれを聞いて「ペルシャも怖くねーな」と起こした反乱の討伐もしなくてはならなくなり、ダレイオスの死後にリベンジすることになります。

 前480年、第3次ペルシャ戦争。今度は、ペルシャは本気です。ダレイオスの子、クセルクセス1世(位 前486〜465年)が、1207隻の軍船を率い、自ら遠征を行います。途中、スパルタの軍勢をコテンパンに打ち破り意気揚々。宿敵アテネに迫ります。

 これに対しアテネ側は、まず婦女子をサラミス島に非難させ、さらに戦闘員たる男達も逃げるそぶりを見せます。ペルシャ軍は、当然追ってきます。ところがこれは作戦。こうしてアテネ軍は、狭いサラミス水道にペルシャ軍を誘い込み、自らの水軍で各個撃破してしまいました。これがサラミスの海戦です。

 その後、小競り合いが続きますが、ペルシャは敗北をし続けたことから、戦争遂行をあきらめ、「カリアスの和約」を結ぶことになり、イオニア地方の独立が承認されました。だけでなく、ヨーロッパ支配の夢も絶たれることになったのです。とはいえ、強大なペルシャにとってペルシャ戦争敗北は、ちょっとした失敗にすぎないことでした。

 むしろ、この和約を結んだ理由は ダレイオス1世死後に起こった宮廷内での争いの激化で、ギリシャとの戦争どころじゃなかったと言うこと。なんと、自らギリシャ遠征を行ったクセルクセス1世は皇太子のダレイオスに殺されたのです。(*皇太子のダレイオスは、先ほどのダレイオス1世とは別人ですよ。即位すれば、ダレイオス2世となったんだと思いますけど・・・)

 しかも、そのダレイオスもまた殺されます。カリアスの和訳を結んだ時の国王は、その弟アルタクセルス1世ですが、彼自身はともかく、その後はまたまた皇族の皇位継承争いが行われます。前336に即位したダレイオス3世までひたすらお互いを暗殺しあい、そして前330年、そのまま滅亡を迎えます。まあ、その話は西アジア史でどうぞ。

○テミストクレスの悲劇

 んで、この第3次ペルシャ戦争で役に立ったのが、アテネ自身の水軍。何で強かったかと言いますと、ペルシャ戦争に先立つ前493年、筆頭(アルコン)のテミストクレスが、港と船の建造に重点的に予算を回させたことによります。それから、サラミスにペルシャを誘い込んだのも彼の策略です。 

 ところがこのテミストクレス。可哀想に、陶片追放になってしまいます。戦争の勝利の貢献者ですが、アテネを追い出された彼、なんと宿敵のペルシャに亡命せざるを得なくなりました。


↑ PAGE TOP

data/titleeu.gif